1926年12月、大正天皇の崩御によって践祚(せんそ)し、裕仁皇太子は25歳で実質的な即位をし、昭和天皇となる。

1920年から不況が続いており、1927年4月には関東大震災に絡んだ震災手形処理の問題が発生、手形を最も保有していた台湾銀行を救済する為に緊急措置をとる方針が立てられていたが枢密院が否決。台湾銀行は休業、更に宮内省の金庫を扱う十五銀行までもが休業し、預金の引き出しに人々が殺到する金融恐慌が起こっている。

その金融恐慌が原因となって若槻礼次郎内閣は辞職に追い込まれ、田中義一内閣が発足する。田中義一内閣は昭和天皇の側近とも言える元老・西園寺公望、信頼を寄せられていた牧野伸顕内大臣らの推挙を受けて、昭和天皇も承認して誕生した内閣であった。

しかし、その田中義一内閣と昭和天皇との相性は非常に悪かった。新内閣の発足から56日間で前例のない規模での人事異動を図った田中義一内閣は、党利党略を目論見したかのようにも映り、昭和天皇は若さからか積極的に注意を促す意向であった。西園寺や牧野を通して、田中義一首相に節度を失わないよう注意喚起をした。

「政治」と「天皇」との距離感は難しく、天皇は極力政治に関与すべきではないというのが現代の天皇論であり、その話は文藝春秋五月号でも宗教学者にして学習院名誉教授の山折哲雄氏が、「天皇制とは千年の昔から象徴天皇制であった」旨、明記している通りなので、明治以降というか近代に限って、天皇は政治権力との難しい距離間を取り合っていると解釈できる。非常に几帳面、徳治主義的、観念的な聖徳を是としていた20代半ばの昭和天皇にして、善かれと思っての行動であったとも思われるが、批判される箇所でもある。また、昭和天皇の側から思考すれば西園寺や牧野を通しての注意喚起であった。

しかし、官僚の人事異動に天皇が干渉するのは、中立としても微妙。また、これが天皇制のからくりでもあるのですが、天皇親政を掲げている右翼・国家主義者から昭和天皇は悪感情を抱かれるキッカケにもなったという。

この年の11月、倉富勇三郎枢密院議長の日記には、枢密院書記官長と交わした言葉が残ってるそうで、そこには「天皇はあまり意志は強くなく、秩父宮には何事も及ばないと聞いたことがあると述べた」旨の記述がある。極めて私的な日記の記述ではあるのですが、昭和初期の空気として、昭和天皇と、秩父宮との比較はかかせない気もする部分であったりもしますかねぇ。昭和天皇が一歳下の実弟である秩父宮にコンプレックスを抱いていたらしいという人間くさい話とも関係してくる。

昭和天皇はイギリスやアメリカ寄りであったのに対して、秩父宮はドイツ寄り。秩父宮は軍人とも知己があり、皇太子時代に皇太子妃問題以後、貞明皇后、このときには皇太后も秩父宮を可愛がることが多かったとされるから、若い天皇は、ひょっとしたら苦悩が多く、ここを抑えておくと後の二・二六事件に於ける昭和天皇が如何に優れた政治家であったかの理解にも役立つ。

(昨今の昭和天皇観にしても、あるいは昭和天皇独白録にしても、天皇御自らが表に立って政治力をふるったシーンというのは二・二六事件の鎮圧と、終戦を決定した御聖断の、たった2回しかないとされている。それを考慮すると感嘆してしまうんですよね。)

1928年6月、張作霖爆殺事件が発生する。

張作霖は馬族出身。元は地方商人の警備集団の隊長で、義和団事件の過程で中国清王朝の正規部隊に編入され、頭角を顕し、日露戦争時には日本軍とも関係を持った。清王朝滅亡後には袁世凱の指揮下に入り、その後も活躍をして東北全域を支配下に置いた。

袁世凱らは北洋軍閥と呼ばれ、中華民国北京政府期に中央政府と距離を置き独自の税制を設けるなどの利権集団を形成、政治に関与していた。北洋軍閥には安徽派と直隷派と奉天派があり、それぞれが争いを起こした。日本は奉天派と通じており、基本的には奉天派の張作霖を今後も利用するという方針にあった。

関東軍指令官・村岡中太郎中将(※)は、張作霖に対しての不審感を募らせており、満州を独立させようと画策したが、田中義一首相は武力行使を承認せず。それを受けて関東軍高級参謀・河本大作大佐が奉天の東京奉線と満鉄線のクロス地点のガード下に爆薬を仕掛け、張作霖を爆殺した。それは暴走、もしくは謀略であったが早期から関東軍の関与が噂された。

さて、『昭和天皇伝』を参考に昭和天皇サイドから張作霖爆殺事件を眺めると、翌7月か8月には西園寺公望、牧野伸顕にも内情が伝わっており、時間をおかずに昭和天皇にも情報が伝わった。

田中義一首相は陸軍大将であり、陸軍の有力者でもあった。また、張作霖(中華民国大元帥の肩書き)については今後も温存していく方針であったから、爆殺を起こした河本らの行動は田中義一内閣への反抗でもあったのが実状だった。その為、田中義一内閣にしても「日本人、それも関東軍が関与していた」という真相を把握したのは10月頃であるとされる。(爆殺事件は6月4日早暁だから、何が真相なのか把握するのに非常に時間がかかっており、且つ又、西園寺、牧野といった天皇側近の方が先に日本人の関与を疑っていたことになる。)

1928年12月末に田中義一首相が天皇に上奏。当初、爆殺事件は我が国の正義と陸軍の統制をも脅かした一大事であると受け止められており、犯人を軍法会議にかける旨の調整が西園寺・牧野という昭和天皇に近いラインと、田中義一首相との間で打ち合わせられており、その通り、田中義一首相も昭和天皇に言上した。新聞も「満州某重大事件」と報じ、一般の人々にも満州で何か重大なことが起こったらしいと伝わっていたという。

しかし、頭山満ら右翼が野党民政党に働きかけ、議会(第五十六回帝国議会)で、爆殺事件の内容は何ら明かされることはなかった。(野党の民政党が全く追求しなかったのだから、或る意味ではどうしようもない事態だったと考えることも出来る。この件、右翼史関連書で補足するなら、大正デモクラシーを経ており、政党政治そのものに期待されていたが早期から政党は財界やヤクザ、或いはヤクザと右翼の境界線も紛らわしく、そうした勢力と繋がってしまい、この民政党に対しては頭山満らが影響力を有していた。頭山はまだマシな部類の右翼であったかも。)

つまり、1928年12月には犯人を軍法会議にかけると田中義一は言上し、実際にその予定であったが、年が明けると事態が変わってしまい、右翼的世論の「内々に処理することが国益である」という風に陸軍内部でも意見が傾いた。或いは、それに抗えず、田中義一首相も犯人を軍法会議にかけるという当初の約束を破ることになった。

陸軍の総意として「国益に反することは出来ないが軍紀を正していきたい」とし、行政処分を課して事件の調査も打ち切りにすると田中義一内閣が方向転換をした。

しかし、真相が判明してみれば、張作霖爆殺事件とは軍紀を犯した日本軍人があり、また、それを隠蔽する者たちがあるという二重の不法行為を見逃すことにもなる。非常に生真面目、非常に几帳面、そして20代後半の昭和天皇にとって非常に不本意であったかのよう。

裏側としては2月に、田中義一首相が「一狂人(河本大佐)の仕事」に対し、「内閣が責任を取る必要はない」と天皇に言上。昭和天皇は呆れたらしく、即座に次の手を考えた。その奏上を受けた後、昭和天皇は内々に元連合艦隊司令長官にして侍従長であった鈴木貫太郎に、以下のように下問(相談)していた。

「もし、次に田中首相が陸軍軍人の関与の事実がないとして奏聞してきた場合、(朕自らが田中に)『責任を取るか云々』と反問してよいか?」

と尋ねていたという。昭和天皇の怒りはかなり強烈なものであったのが分かる。(天皇が直接、叱責するのは厳しすぎるのではないか等々、天皇の側近が諫め、西園寺や牧野が、やんわりと相手に注意をするのが通例であった。つまり、田中首相の次の態度次第によっては天皇自らが反問し、「責任を取れ」と迫ってもよいかと鈴木貫太郎に相談していたの意。)その下問を受けた鈴木貫太郎は、どうやら昭和天皇は田中義一首相を辞めさせたい意向であると知り、牧野内大臣に相談し、また、それは元老・西園寺の耳にも届いた。

西園寺は慎重で、首相の進退問題に天皇の御言葉が直接的に関与してしまう事は好ましくないと判断した。おそらく、この西園寺の考えも昭和天皇には達していたものと思われるが――。

かくして、爆殺事件から一年が経過した6月末、田中義一首相が天皇に上奏、天皇が田中義一を辞任に追い込む時が、やってくる。

1929年6月27日、田中義一首相が上奏した内容は「警備上の不行き届があったことを詫び、行政処分を課した」というもので、その裏には「これは天皇陛下への許諾をいただくものではなく、報告である」という主旨であったという。(上奏の前日、牧野、鈴木の前で田中首相はどのように言上するかを披露。それを牧野が日記に残している。)

田中義一が昭和天皇へ上奏。昭和天皇は田中義一を叱責。田中義一首相は辞任、内閣総辞職へと到った。この上奏シーン、一体、昭和天皇は田中義一に、どのように応じたのか、気になりますよね…。

牧野の日記や侍従らの回顧録が複数残っており、それによると、田中義一が言上した後、昭和天皇は《反問》されたという。

「昨年12月に上奏した内容と矛盾しているのではないか?」

と指摘。慌てた田中義一首相が説明をしようとしたが、昭和天皇は田中の話を聞くのを拒否した――という。

しかし、『昭和天皇独白録』によると、ホントは更に厳しいものであったことが分かる。

「(田中首相が)この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふことであつた。それでは前言と甚だ相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいつた」

ホントは昭和天皇御自ら

「辞表を出してはどうか?」

と、冷淡に、強く、迫っていた可能性が高い。

この爆殺事件と田中義一首相への反問の逸話は、昭和天皇の几帳面さ、潔癖さと同時に天皇の正義感や「聖徳」を顕しているようにも見える。一方で、天皇が実際に政治に強く関与してしまっている意味で、天皇の在り方として好ましくはなかっただろうとされる。

実際、田中義一首相を若い天皇が叱責、そのまま辞任に追い込んだ事は、更に陸軍内部などで複雑な天皇観が形成されてゆく。【ブロック】という単語などが使用されたらしいのですが、宮中(天皇の側近)には君側の奸がおり陰謀を巡らせている旨の陰謀論が形成されていった。(宮中、君側に限らず、即位まもない若い天皇に対しての反発も密教的解釈の下、深部で形成されていたと思われる。つまり、天皇がダメなのは君側の奸が悪いのだというだけにとどまらず、一部の過激な国家主義者は君側ではなく、直球で「即位したばかりの新しい天皇は間違っている」というものもあったと思われるの意。)


さて、この張作霖爆殺事件と昭和天皇の話というのは、その眺め方、語り口にしても難しい問題ですが、基本的には昭和天皇が若さから政治に介入しすぎってしまった事例であっただろうと解説されることが多いよう。その意味では、西園寺公望の「首相の進退に天皇が直接的に関与してしまうのは好ましくない」が正答であったと考えられるという。一方で、昭和天皇を擁護する論者もある。張作霖爆殺事件は、我が国の名誉や正義が実際に絡んでいた事件であり、若き新天皇は気負いがあったとはいえ、天皇が天皇である為の徳治主義として振る舞った、その行動原理とは聖徳を示さんとして振る舞ったものだろうとも解釈できる。

この田中義一叱責については、戦後、昭和天皇御自らも自省的に回想しており、そうだからこそ、その後の昭和天皇が無私無為としての近代天皇像を築き挙げていったと考えられる。(また、当然ながら天皇機関説になる。)

現在もコンプライアンス問題などを企業が抱えており、且つ又、公官庁に対しての情報開示の問題などがありますが、張作霖爆殺事件の経緯は、何やら考えさせられてしまう部分もありますよね…。利益に適わないから隠蔽してしまうべきだという力学と、その損得を超越して運営すべきだという力学と…。

ドイツのテレビ番組に出演したスノーデン氏が、米国情報戦略の一部は産業スパイのようなものにも利用されていた旨の証言を数か月前にしていたそうで、また、それが水面下でアメリカの威信を低下させてしまっていたりもする。また、日本にしても昨年末に秘密保護法を巡って幾つかの保守メディアが安倍政権批判に転じている。真相を真相として明らかにすること、そういうフェアな態度というのは、現代社会では力学の中で圧し殺され、通じなくなりつつあるのかも…。

いやいや、佐村河内問題にしても小保方問題にしても、「真相を真相として語る」よりも、「真相は認めずに、徹底的に争うものだ」になってしまっているような、そういう感慨がある。そんな御時勢に、この聖徳を示さんが為に君臨している天皇、それを仰ぐ真っ直ぐな国民という在り方も、なんだか捨てがたいものだと感じてしまったりもする。

昭和天皇独白録(文春文庫)より、張作霖爆殺事件についての部分を以下引用。(基本ママです。)

この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中総理は最初、私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ、一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積であるといふことであつた。そして田中は牧野内大臣、西園寺元老、鈴木侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云つたそうである。

然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終わつた。

そこで田中は再ひ私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。

こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであつたと今は考えてゐるが、とにかく、そういふ云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふ事になつたのと云ふのである。

田中内閣は右のような事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが重臣「ブロック」などと云ふ言葉をつくり出し、内閣の倒(こ)けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れて歩くに到つた。

かくしてつくりだされた重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを真に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が尠なくないのである。

この事件あつて以来、内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与えることに決心した。


※張作霖爆殺事件については、河本大作大佐が主謀者とされ、村岡長太郎中将の名前には触れられていないケースが殆んどでしたが、日本歴史大事典に拠ると張作霖への不信を募らせていたのは村岡中将であった旨あり、佐藤元英『昭和初期対中国政策の研究』(1992・原書房)を参照とある。田中義一総理の意向を無視したものであったとしても、河本を指し、「一狂人が起こした事件であった。内閣に責任はない」という風に最終的に上奏しているのは、やはり、解せませんやね。