2017年03月21日

【ポスト・トゥルース】について

Eテレ「こころの時代」に作家の辺見庸が登場し、武田泰淳の残した短編小説「汝の母を!」について語っていました。

日本兵らが円形になって取り巻いている中央に、中国人の母親と息子とが引き立てられる。日本兵らは、その母子に対して性交する事を強要する。引き立てられた母と子は日本兵に慄(おのの)き、母と子で性交を、つまりは近親相姦を演じる。取り巻いている日本兵らは、その近親相姦ショウをニヤニヤしながら見物しているが、一兵卒である主人公は、そのグロテスクなショウを正視できない。正視する事が出来ない主人公は他の兵隊から「これだからインテリはダメだね」などと呆れられるが正視できないものは正視できない。その中国人の母と子は、その醜悪なショウを演じさせられた挙げ句に灯油をかけられて焼き殺された――という内容なのだという。

小説の話であるからフィクションであるワケですが、辺見庸は「私も作家だから分かる事だが、創作では書くことが不可能な内容ある」と付け加える。

(気になった方は「汝の母を!」でGoogle検索することをオススメします。私も実物を読んでいないから細部はテキトーです。まぁ、気分が滅入る事になりましょうが…)

なんとも、悍(おぞ)ましい粗筋ですが、それをフィクションなのかノンフィクションなのか、真実なのか真実ではないのかという次元に、その問題を下ろしてきたときに色々な問題が生じると思う。というのは、書いた本人の武田泰淳が実際に目撃したものを書いたのだと残していればいいんですが、そういうものがない。故に、それが事実なのかどうかの判断を断定的に下す事は不可能でしょう。

しかし、一歩、事実認定という硬いハードルを緩めて、その文脈を眺めた場合、辺見庸の指摘は分からないでもない。確かに創作する話にしては悍まし過ぎる内容であり、且つ、タイトルにビックリマークを付けて「汝の母を!」というのも少し違和感のあるタイトルに思える。悍まし過ぎて直視できなかった著者、その著者がタイトルをつけようとしても、やはり、その悍ましさに向き合う事に苦慮し、「汝の母を!」という切り抜きにしたかのような、そんな事を思う。口に出すことも憚(はばか)られる醜悪な事柄というのは、そのように処理される事があると思う。

サブカルの影響だったり、アメリカ映画の影響で「ファッキン・マザー」、「マザー・ファッカー」だのっていう汚いスラングというのは、殆んど同じ事柄を意味していますが、日本人の感性にはホントは全く合わないよなって思う。意味合いとしては「お前の母ちゃんデベソ」に似ており、私ぐらいの年齢だと7〜8歳までは、そういうカラカイはアリだったような記憶がありますが、小学1、2年生の頃から、もう、メンドクセーから、その手の口汚い悪口を言った場合、その者は誰に殴られても仕方がないという判断を、私が帰属していたグループはしていたと思う。また、それを学校を含め、社会は許容していたとも思う。

「言ってはいけない事だってあるんだぞ」とか「それを言っちゃあ、おしめぇよ」のようなものですが、それが暗喩している意味は「口も過ぎれば暴力であり、その者のなじるべきではない身体的特徴をなじったり、家族の悪口を面と向かって言ったりしたら、言われた者から殴り返されても仕方ないよ」だったんですよね。

当事者同士で貶し合うのはケンカの常套作法だから例外にしようがないんですが、「家族の悪口を言うのは卑怯である」という合意がどこかしらで形成されていたんですね。これは簡単な事であり、仮に保護者であれ、教師であれ、経験があれば理解できるはずで、ケンカの当事者同士の貶し合いは構わないのですが、当事者ではなく家族の悪口を言うのは、非常に頭にくるものなんです。つまり、それを言ったのであれば、相手を激情させるのは当然であり、その激情した相手に手を出されても仕方がなろうね、と、そういう暗黙の合意があったと思う。自業自得。いい気味だ。ざまぁみろ、と畳み掛ける。

子供には子供の社会ってもんがあって、ナメちゃいけませんよ。或る意味では鉄の掟みたいなもので、仮にA君としますが、A君がB君に対して、B君のおとうさんやおかあさんを貶すという倫理違反をした場合、集団でA君を攻撃してよいというルールが形成されていたと思う。悍ましい事はしないという一定の美学に基づいた規範はあれど、基本的に容赦なんてしませんで、私の場合は、その子が泣いても許さないタイプでしたかね。ケンカは認められているものの、それは正々堂々としたものでなければならない。そーゆーのが小学生でも規範としてあったと思う。

小林よしのりさんのデビュー作「東大一直線」にも、そんな描写があったと思うよ。主人公の東大通は、読者から嫌われるキャラクターとして設定したと著者自身が語っている文章を目にしたことがありますが、東大通の口の悪さは抜群であり、「ビンボーだから非行に走る」なんてセリフを東大通が吐く。現在、同じセリフを漫画の中で吐いても何も感じない時代になってしまった可能性がありますが、実際に東大一直線の作品中では、「暴力はいかんよ」をタテにして東大通が一方的に番長をなじり、チョンマゲ先生はじめ、著者の投影と思われる漫画狂太にしても、東大通に対して「口が過ぎるぞ!」というリアクションをとっている。つまり、言い争い、口論、口喧嘩などと言いながらも、実際には何を言っても構わないというワケではなく、一定の規範は実際に、この国の子供たちの中には在ったのだ。

その時代と比較して、現在ともなるとスクールカーストなんていうキモチの悪いもの出来上がっているなんていう。実際、社会全体が露骨になったんだと思う。先に問題視された福島からの転校生に対して、「お前んちは国から賠償金をもらってるんだから、オレタチに奢れよ」と迫り、ウン十万円、いや百五十万円だったかな、そんな大金を悪ガキが奢らせていたなんていう。それがホントなのであれば加害児童の父親は率先して土下座して詫びるレベルだし、被害児童の父親であれば金属バットを手にして加害児童の家に乗り込んで問答無用で玄関にサッシ窓、それとクルマ、テレビぐらいは破壊しても許されるレベルだったと思う。にも関わらず、現在ともなると、不思議な教育環境にあって、教育長なり校長なり教育委員会が「我々が責任を持ちまして調査いたしました結果、それはイジメではありませんでした。プライバシーの問題がありますので調査資料はお見せできませんけどね」というオマケつき。ただただ社会が劣化したという事だと思う。

東大一直線の話に戻せば、東大通みたいなヒトを物質と見做して評価することが許されるような、唯物的価値観の社会になったのでしょう。【仁】や【義】といった精神的な価値観が凄まじいレベルで退潮し、判断基準は目に見える指標化しているので、どんな侮辱的な言葉を投げつけても許されるような、そういう社会になったのだと思う。そうじゃないと「キモチワルイ」だの「クサいだの」っていう類いの言葉だって、ふた昔前までは軽いノリでは言えない言葉だったんですよね。それを口にしたら、さすがに傷つけてしまうだろうからはばかられるよね、という感覚、そういう慣習が日常であったから。それが現在ともなると――。


むむっ。「汝の母を!」の真実性を巡る話だった。危うく話を完全に見失うところだった。。。

辺見庸は、その話を締め括るにあたって【ポスト・トゥルース】という語句を使用したんですね。これはオバマ前大統領が去り際に残したワードであり、読売新聞で用語の解説も目にしたけれど、解説もいい加減なんで嫌になってしまった。辺見庸に従えば、より簡潔であり、つまりは、「客観的な事実そのものよりも感情が政治を左右するようになってしまったこと」の意味であると解説していました。それでスッキリとしますかね。オバマの言語センスや、アメリカ人の言語センスが優れているワケでもないのであって【Post】+【trueth】なんて言葉を使用されても、どう解釈していいのか困るのだ。しかも、その言葉が存在しなかっただけで、とっくの昔から、その現象は日本では指摘されていたと思う。このブログで表現したところの、「ヒトは自分の信じたいことしか信じないようになった」と似た意味でしかない。しかも、それは相対主義の話と隣り合わせだから、客観的事実という場合の【客観】を定義することが難しくなってしまった事と関係している。

しかし、しかし、だからといって、根も葉もないデマに振り回されて政治に係る決定が行なわれて良い筈が無いんですよね。この問題とは、流言蜚語と認識論の話でもあり、やはり、大きなテーマでもある。

BPOは、先にNHKが放送したSTAP問題に係るドキュメンタリー番組に対して猊堙切瓩箸いΕ献礇奪犬鮑能的に下したんですよね。「バカじゃねーのっ、BPOなんて辞めちまえ!」って思ったんですが、そのニュースのあった翌日の読売新聞に上昌弘さんのコメントを見つけ、安堵しました。エスカレーターで挟み撃ちにするなどの取材方法は不適切であったかも知れませんが、若林研の留学生が使用していたものが彼女の実験しているサンプルから検出されたと言う事は、即ち、NHKのドキュメンタリーが放送した内容と矛盾せず、それは推量するに充分すぎるものだったのに、BPOは決定的な証拠があったとは言えないとジャッジし、最終的な結論としてもNHKの番組内容を人権侵害だとジャッジしたワケですが、上昌弘さんのコメントは敢然と「あれで推測して結論としなかったら科学は科学でなくなる」ぐらいのコメントを寄せていたのだったかな。まぁ、絶対的な証拠、絶対的な証拠、絶対的な安全、絶対的な安全って、もう既に、日本中が色々なところで、この問題に振り回されている。一部の人は気付いているんだと信じたいところですが、このポスト・トゥルースの問題、世論の主流派は完全に目先が狂ってしまっているんだと思うけど。

平成のベートーベン騒動、STAP問題、真犯人メール事件、全部、同じ思考タイプの人たちが間違えたジャッジをしていたと思う。週刊誌で言えば週刊現代さんですが、現代さんは上げた3題中、2題は見事に間違えていたと記憶している。次いでを言えば、小沢一郎の無罪判決にしても、あの無罪と、事実無根は違うのに、そういう部分をメディアが咀嚼してきちんと報道しなくなってしまったせいで、末端では立件できなかったという解釈ではなく、根も葉もないのに無理矢理に冤罪事件で失脚させられたかのような解釈をしている人達も多いと思う。また、現在進行形でも豊洲問題と、格安払い下げ問題がありますが、アレも似ている。現時点では結論を下せる段階には無いが、それでいて充分すぎるほどの疑問点を見つけ出せているワケで、しかも、推測するに当たり前であろう事柄も含まれているのに、その推測を否定しようとして強引に「絶対的な証拠がない」という言い分で防衛線を張り、突っ張ってしまっている論陣があり、その論陣が勝手に破綻しているんですよね。その過程、その中途段階。感情に左右され易い構図があるにはありますが、嘘をつくなって話でもある。

昨年、サンダース旋風を巻き起こしたバーニー・サンダースは、

「見返りを求めない政治献金があると思うかね?」

と、政治献金問題で問い返した事があるという。これ、非常に鋭い問い返しなんですよね。証拠、証拠、ゼッタイ、ゼッタイというが、

「では、そもそも、不自然なカネの動きを不自然と思わないのかね?」

という話だ。

わざわざ、悪党の為に絶対的な証拠を提示してから物事を言えなどというのは、悪党を利すようなものだ。先ずは、不自然なカネの動き在りきとして追究があって然るべきなのだ。ホントは、不自然なカネの動きそのものが、客観的な事実なのだ。それを、当代のインテリはホントに理解できない。もしくは意図的に、或いは感情によって事実を見間違える。問題を俎上に上げる前段階から「ゼッタイに確実か?」という心理的脅迫に屈し、結果、見事にダマされるのだ。平成のベートーベン、割烹着の科学者、真犯人事件のゆうちゃん、イクメン不倫議員、他にも沢山ありそうですけどね。


で、これほど散らかった展開もないのですが、冒頭の「汝の母を!」の真実性なんですが、歴史的事実として断定できるのかというと、それは断定は出来ない。しかし、ここからが、本旨なのですが、推察、推量を重ねて慎重に事象を把握する場合、「汝の母を!」に対しての田辺庸の指摘について、「事実である可能性」というものを一定度合いは推し測れるワケですよね。絶対に事実か、絶対にデタラメかという二元論ではなく、中途段階ではありますが、どのように真実性を捕捉するかという意味です。

本来、【知】とは単純に知識の豊富さや用意された正答を当てに能力を問うものではなく、未知の可能性に対しての悟性などによって推し測るものだという定義を紹介した事がありましたが、アレですね。それが試される事案であろうと思う。

アメリカで起こっている【ポスト・トゥルース】の問題は、実は次元としてはまだ低い段階であろうと思う。客観的事実ではない情報によってではなく、感情によって政治が動かされてしまうという意味だというのなら、そんなに複雑ではない。その真実性を徹底的に追究すればいいだけの話ですからね。ところが日本の場合、これが複雑に歴史問題や政治思想と絡み合ってしまっている。アメリカやイギリスに先行して混乱しているのだ――と思うんですね。

というのは、【歴史修正主義】というものがある。リベラル系の論者は、「歴史修正主義=悪」のような図式で捉えて、その上で発言していたり、文章を綴っていると思う。「歴史修正主義=悪」とまでの極端な単純化はしておらずとも、実際には「歴史修正主義≒右翼≒保守主義≒愛国主義≒皇国史観」のような、そういった図式でしか語っていないのが実情でしょう。

ですが、ホントは秦郁彦なんてのは歴史修正主義を自認、自称している。生真面目な歴史学者さんですよ。これは当たり前といえば当たり前の話でもあり、間違った歴史認識が流布してしまっているのであれば真実性に基づいて修正する必要性があるから。その場合の歴史修正主義の核になっているのは、実は政治的イデオロギーではなく、真実性に基づくものなのだ。なのに、この部分なんて右派も左派もリベラルも多分、理解できていないと思う。赤旗や朝日になると秦郁彦を「右派の歴史学者」と書いてしまうし、右派は右派で秦郁彦の主張と、幻想的極論を操って「南京大虐殺そのものが無かった」という類いの劣悪な保守論陣との区別がつかない状態になってしまっている。

真実性を追究してゆく中で、自らの政治イデオロギーに不利となる真実というものに、当たり前のように行き当たる事があるワケで。固執しているのは真実に対してであり、最初から特定のイデオロギーの辻褄合わせをする歴史修正主義とは異なるワケです。

有名なのは文藝春秋社の「マルコ・ポーロ」という雑誌が「ホロコーストは無かった」という記事を掲載し、廃刊にまで一発で追い込まれた過去がある。文藝春秋には当事者主義という理念があり、編者とは別に発言主の発言を重視し、調子に乗って掲載したのでしょうけれど、「ナチスによるユダヤ人虐殺は無かった」という主張は確かに、救いようがないレベルであろうと思う。

南京大虐殺、従軍慰安婦、関東大震災直後の朝鮮人虐殺をはじめ、更には「汝の母を!」もそうなのですが、そもそもからして、一部の保守や右翼も勘違いをしており、政治イデオロギーとしての歴史観を求めてしまっている。ホントは、戦争を美化するなんてのはナンセンスなのだろうに、国益最優先主義こそが保守である右翼であるとなってしまっているから、戦争美化に走り易い。しかし、それは、先の大戦で、好き放題に暴走をし、収拾不能にしてくれた軍部の態度と何が違うのかってなってしまうんですよね。

私が野坂昭如に執着しているのも、それですかねぇ。戦争の美化なんてトンデモナイ。それこそ、些細なことではありますが「教育勅語を幼児に暗唱させて何が悪いんですかっ!」と展開させる類いの保守や右翼は、いただけない。それこそ、「ああ、分かっていないのだな」という感慨が湧いてしまう。これは新右翼から少し異なる次元へと転身した鈴木邦男の著書なんてのを読んでも同じですよ。「昨今になって一部の学者が南京大虐殺は無かったというけれど、それはホントなのか?」となってしまう。(ひょっとしたら学者の質が落ちたって事なんじゃないスかね。「定義」だの「確証」だの「絶対に」という類いの単語を組み合わせれば、自らの信じたい方向へ恣意的に誘導した歴史解釈を展開させることができる。「冷静」とか「客観性」とか、推測する能力の一切を否定して「証拠がない限りは無かった事とする」という具合でしょうな。)

野坂昭如にして、その謎はより冷静に解き明かせる。加害者の意識もないし、被害者の意識も正直に言えば有していないと率直に述べている。その通りでしょう。なんら当事者ではないのだから。

しかし、この歴史認識問題として捉え直した場合、厚かましい人たちというのが実在するのは否定できませんやね。さんざん威張り腐り、新兵を殴り、思想弾圧はじめ、無茶苦茶なことをしていたのが日本の軍国主義や軍隊の真実であろうに、何やら、そういう不都合はなかったことにして歴史を修整し、あたかも美談にしてしまおうとする今時の保守化は何なんだろう、と。

叔父の葬儀の席で、軍隊経験のある近所のオジサンが酔っ払って乱入してきて、上機嫌となり、「上官がデタラメだから小便を入れて飯を炊いてやった」なんて言ってましたが、同じ逸話が水木しげるの漫画にもありますね。水木しげるの漫画では、更に毒が強く、飯盒にウンコを入れて、憎らしい上官に食べさせている。それら末端の兵士が歪んでいると思いたい何かがあるのかも知れませんが、それらが真実でしょう。無茶苦茶な理屈で、とにかく、気に入らないってだけでビンタの雨あられをはじめ、精神注入であるとか、根性がなっとらんとか、デタラメの極致ですよ。

就寝ラッパには、誰がつけたのか歌詞がつけられていたという。渥美清主演の「拝啓天皇陛下様」でも字幕つきで描かれていましたが、

「🎶新兵さんは可哀想だね〜、寝てまた泣くのかよ〜」

という世界。新兵いびりは常態化していたのは、ほんの少しの知性があれば想像に難くない。現在のパワハラなんて次元じゃなくて、毎日毎日の虐待三昧という奴ですよ。「新兵なんてものは帝国軍人の厳しさを注入する為には、いびっていびって、いびり抜いて構わないのだ」という軍国主義的な精神論が世の中全体を支配していたという地獄のような時代ですよ。そんなクレイジーな連中の素行なんて、知るもんかってのがホントでしょう。ましてや戦後世代の日本人には自覚もないのがホントであって、逆立ちしたって、そんなものは当事者の問題だ。

水木しげるの場合、天皇陛下は好きでも嫌いでもないが、天皇陛下から賜った銃を戦地に於いて命からがら逃げてきたところ、上官に言われたという。

「畏れ多くも陛下から賜った銃を置いて逃げてくるとか何事かっ! 陛下から賜った銃は命よりも重く、命なんてものは羽毛よりも軽いのだっ! この次は真っ先に死んでくれっ!」

と。

水木しげるは回想している。「私が陛下から賜った銃なのに、その銃が私の命よりも重いという論理には納得が行きませんでしたねぇ」、と。そこから「戦争はいけませんね」とか「軍隊というのはイヤなものですよ」、「畏れ多くも陛下にあられましては、と陛下に託(かこ)けては上官は弱い者イジメをする」、「些細な事でも半殺しの目に遭わされる」等の、言葉に収斂されてゆく。ホントは、こういう戦争観が戦後日本のまともな戦争観であるべきではないの? 将官クラスや佐官クラスの連中の目線で戦争を語り、悲劇的美談として美化したところで、それは特殊な視点でしかない。責任は? 罪は?

フランキー堺主演の映画「私は貝になりたい」なんてのもありますが、ホントは戦時下の日本軍が高潔で軍規も優れていたなんて歴史観を言い出すのは虚妄なんですよね。それらの一端でも知っていれば、その集団の末端の者が婦女子に対しての強姦殺人や虐殺なんてものをした者も居ただろうとは推測できてしまうのがホントだし、七三一部隊なんてものあったし、或いは「汝の母を!」に係る辺見庸の指摘にしたって一定の事実可能性というものを排除するのは、厳正な態度を取れば取るほど否定が難しい。


仮にタイムマシンがあって事実を確認できるとしますよね。もし、「汝の母を!」の内容が実際に行われた事を確認できてしまったとする。どうします? 法律なり軍規なりルールに則って裁く? 或いは今のヒューマニズムで裁く? そーゆー理屈に従って裁くことも煩わしく感じるレベル、率直に、反吐が出そうな悪事ってものも有り得るという話ですからねぇ。ヒトの仮面を被ったケダモノどもを誅殺すべしという発想に到ってしまう事だって有り得るワケで。

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