野坂昭如著・坪内祐三編『俺の遺言』(文春文庫)に「関東軍上層部は何をしたか」という小見出しが設けられていました。終戦、つまりは日本の敗戦にあたって、関東軍総司令部は、何をしていたのかという意味合いなのですが、その箇所を少し引用します。

ソ連は、日本との不可侵条約を、昭和二十年四月に破棄の旨、通告してきた。すでに、日本はB29によって制圧され、神戸は三月十七日に、市の中心部を焼かれた。この惨状を養父と見に行ったが、道ばたにころがる黒焦げの死体のかたわらを過ぎる時、養父の表情は暗かった、何もいわなかった。

後で聞けば、精鋭こぞる関東軍は、とっくに急場凌ぎ、南の方へ移動されていた。つまり新兵を主体とした弱兵ばかり。それでも彼等は頑張ったのだ。ぼくは、今でもさっさと逃げ帰った関東軍の上層部を軽蔑する、本当に、何のかんばせあって、大和島根に相まみえたのか。


先ず、最後の「なんのかんばせあって大和島根に相まみえたのか」についてですが【大和島根】とは日本の別称であり、これを今風に意訳するなら、野坂は

「関東軍上層部は、どのツラ下げて日本国に顔向けをしているのか!」

のような、かなり皮肉的な意味合いである。

私は川越線というローカル線に文字通り揺られながら、その文章を目にして、「ハテ、なんのこっちゃ」と思っていたのですが、それから10日後、その意味を知ることになりました。NHKエンタープライズ版「兵士たちの戦争」のDVDの中の一枚を何の気なく再生してみたら、まさしく、満蒙国境で終戦を知らされることなく玉音放送後も14日間に渡って壮絶な戦いを強いられた陸軍第107師団の話であり、つまり、引用した野坂昭如の話なんですね。狙ったワケでもないのに。

陸軍第107師団は青森県を中心として東北地方出身者によって編成された俄仕立ての師団であり、生存者の証言からも、それは「勇猛果敢な関東軍」という衣を被っていたものの、実際には俄仕立ての軍隊であったという。前記の通り、日ソ不可侵条約は1941年に締結され、5年後に条約は破棄されない限りは自動更新されるという仕組みになっており、更新年は1946年ですが、1945年4月5日にソ連は翌1946年に期限切れとなるが延長しない事、つまり、条約の破棄を通告していた状況にあった。なので、事前に満蒙国境は緊張状態にあった筈なのですが、そこに置かれていたのは、俄仕立ての第107師団であり、関東軍の精鋭はというと既に南下していたという背景がある。

そしてヤルタ会談でまとめられた協定、ヤルタ協定の話が関係している。ナチスドイツ降伏後にソ連が対日参戦すること、それに対してアメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)はソ連(スターリン)との間に秘密協定を結んでいた。中立条約(不可侵条約)には残存期間が設定されていたが、戦勝国諸国によって、そこら辺の戦後世界構想は秘密裏に進められてしまっていたのが、現実であり厳然たる史実であるワケです。

翻弄されたのは兵士たち、第107師団のような部隊であった。

1945年8月6日、広島に原爆が投下される。

1945年8月9日、長崎に原爆が投下される。

と、この長崎に原爆が投下された8月9日に、ソビエト軍の侵攻が始まっている。第107師団には満蒙国境を守る役目が負わされていた。関東軍総司令部は防衛ラインを新たに新京で防衛ラインを形成しようと満蒙国境に展開していた第107師団に南下するように命令を出す。しかし、このソ連による対日参戦はヤルタ秘密協定によって明らかになっている通りで、ソ連軍は予め、それを予定していたから機械化された精強な部隊であり、第107師団には苛酷な苛酷な撤退戦が強いられることになった。いきなり、ソ連軍に挟み撃ちにされている。しかもソ連軍の機械化レベルは高く、自動小銃に分発900発なんていう近代化兵器を持っている。それに対して第107師団は「三八式」と呼ばれる銃剣付きの小銃で、装弾は5発できるが単発式。

生存者による証言に拠れば、一度、伏せたら顔を上げることも出来ない銃弾の嵐であったという。水筒に四人分の水を汲んできてくれたある兵士、同僚らに水筒を手渡した。そのそばから被弾し、倒れてしまったという。服を脱がせてみたら大腸が飛び出してしまっており、しかも大腸というのはどくんどくんと動くものだから、どんどん大腸が出てきてしまったのだという。身の危険をおかし、水筒に水を汲んでくれたという、その兵士は結局は死んでしまったという。

また、銃弾に倒れた無数の兵士らは生存兵によると「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいったのではなく、「お母さん、お母さん、お母さん」と呼びながら倒れていったと証言している。

同年8月15日正午頃、ソビエト軍の攻撃が一時的に停止した不思議な事が起こったと、第107師団の生存者は証言している。それは丁度、日本列島では玉音放送が流された時刻であった。

関東軍総司令部も、まだ、このタイミングでは停戦命令を出しておらず、関東軍総司令部が停戦命令を出したのは、16日午後10時頃。本来であれば、その停戦命令よって第107師団も終戦を知る筈であったが、第107師団には、その連絡が届いていなかった。通達は暗号によって配信されたが第107師団のケースでは、元暗号兵によれば8月13日に暗号書という暗号を解読する為のテキストを焼却してしまっていたという。東北青年の寄せ集め軍隊に過ぎない第107師団は引き続き戦闘を続け、大興安嶺へと撤退戦を続ける。

8月18日、新京のラジオ放送で未だに戦闘を続けている第107師団に停戦を知らせる放送が行なわれた。それは武装解除を命令する放送であった。その放送を第107師団の師団長は実際に聴いたが敵に拠る謀略放送の可能性があるとして、武装解除には応じなかった。既に暗号書はなく、謀略の放送なのか正規の放送なのかの判別がつかなかったのが実状であったという。

8月19日、関東軍総司令部はソ連に許可を得て、許可を得た飛行ルートに飛行機を飛ばすなどして第107師団の捜索をする。一日限定の飛行機による捜索であったが第107師団は発見できず。書類などを発見し、第107師団が苛酷な撤退戦を続けている事を知るも、師団を発見することが叶わなかったのだ。

第107師団の過酷な戦いは近代化されたソ連軍の銃弾と砲撃の嵐の中、銃剣によって敵兵を突き殺すという白兵突撃にまで及ぶ。命令を受けた兵士らは「玉砕しろという事だな」と理解したという。精神状態としては既に正常ではなく、生きる事への執着心のようなものはなく、「玉砕することもなんだか当たり前だな」という、そうしたぼんやりとした精神状態になるものだと証言している。

死体の山を築きながらも第107師団の捨て身の戦いが続く。水の流れる音がするから、きっと水にありつけると思って、水の音がする方に行ってみたら、その水の音は戦死者の血がの川のようになっている流れている、その音であったという。

実際の戦果は不明ながらソ連軍に打撃を与えたらしく、ソ連軍から停戦の申し入れが関東軍総司令部に入ったという。かくして、8月29日、日の丸をつけた飛行機が第107師団を発見し、上空から大量のビラを撒き、無条件降伏によって戦争が終結した事を第107師団に伝えた。飛行機が第107師団の元へ着陸したが、降りて来たのは日本人2名に引率されたソ連軍の指揮官であったという。

8月15日以降も14日間に渡って苛酷な戦いを強いられた第107師団の悲劇も、これも終わる。悲劇が終わったかというと、そうではありませんでした。その後、第107師団の兵士たちを待っていたのは別な意味で苛酷な爛轡戰螢⇒淮鵜瓩箸いγ蝋が待っていた――と。