NHKエンタープライズ版「兵士たちの戦争シリーズ」から「密林に倒れた最強部隊〜陸軍第18師団」編の粗筋を以下に記していきます。

陸軍第18師団は、福岡県久留米で編成された部隊であり、取り分け精鋭部隊として認知されていたという。その証拠として、第18師団には唯一「菊の紋章」の使用が認められていたという。故に、この第18兵団には別名があり、「菊兵団」と呼ばれていたそうな。

元兵士の証言に拠れば、自分たちこそが世界一強い部隊であると信じていたし、菊兵団に入隊した者は全員が全員、そういう気概を持ち、生きて還るという思考はなかったという。それ故に気高く精鋭部隊中の精鋭部隊であったという。また、最盛期の第18師団は2万5千人もの屈強な兵士たちが集められていたという。

菊兵団(第18師団)は日中戦争が始まって間もなく中国へ派遣され、その中国戦線では無敵の快進撃を続けたという。菊兵団の特徴は大砲による砲撃にあり、10キロ先の標的に的確に砲撃する技術などにあったとされ、南京城攻略に於ける大砲による砲撃で活躍したのが、菊兵団であったという。

1942年から精鋭部隊である菊兵団は北部ビルマへ。この頃より、チャーチルら連合国軍はルーズベルトのアメリカに第二次大戦への参戦を強く迫るようになり、アメリカの参戦が決定する。

1943年10月、アメリカ参戦。

この頃、戦況は援蒋ルートを巡っての攻防で動いていたという。菊兵団が派遣されていたのは北部ビルマにあるフーコン地区。フーコン地区とは谷間であり、地元原住民は一度、谷に入ったら出てくることができない「死の谷」として恐れられていた密林中の密林であったという。

昼間でも木々が生い茂っている為にまるで夜間のように薄暗く、霧も濃く、道らしい道もない。また、密林の中には吸血ヒル、コブラといった危険生物も棲息しているというのがフーコン地区であり、そのフーコン地区に派遣された菊兵団の数は約4000名。

アメリカ参戦後の連合国軍の攻撃に遭遇し、そこで菊兵団は絶望的な戦力差を見せつけられたという。先ずは連合国軍の飛行機による空爆が始まったが、それは証言によると、「目を開けてる事が困難な程の大規模な爆撃であった」という。豆が鉄板で炒めると豆が鉄板の上で撥ね上がりますが、その鉄板の上の豆を想起させるかのような大規模な爆撃によって最強部隊と呼ばれた菊兵団は連合国軍による洗礼を浴びた。

また、証言で明かされているのは連合国軍の物資の補給方法であったという。そこは密林であったが、赤色や黄色といった色付きの落下傘が飛行機からばら撒かれ、その落下傘に連合国軍は食糧や弾薬といった物資の補給をしていたが、そういう補給方法は菊兵団は元より日本軍にはなく、色とりどりの落下傘で物資の補給をしている連合国軍に「衝撃を受けた」と元兵士が証言する。

菊兵団の衝撃は留まる事を知らない。連合国軍は圧倒的な物量差がある事を思い知らされたが、それだけではなく、日本軍と連合国軍との間には戦争のノウハウにも明らかな差異があったという。前述した補給方法も、その一例であるワケですが、なんと連合国軍は密林地帯でも戦闘を考慮して、小型の迫撃砲を大量に戦地に持ち込んでいた。迫撃砲は密林戦で非常に有効であったらしく、その砲弾は密林の中に生い茂る高い木々を乗り越える高い軌道を描き、敵地に落下してくる。それに対して、菊兵団は、密林戦であるにも関わらず、南京城攻略などで活躍した大砲を持ち込んでいた。大砲は密林戦、しかも谷の中では使い物にならず、砲身の角度を上げようとしても限度があり、そこから放つ砲弾は密林の木々に当たってしまい、思うように砲撃できなかったというのだ。更に、大砲を馬に牽かせていたが、ビルマの熱さで馬が参ってしまい、結局、菊兵団は1トンもある大砲を人力で動かしながらの、苦しい苦しい戦いを強いられることになったという。

多くの新兵によって編成された陸軍107部隊が終戦後の14日間に渡って地獄の戦闘を強いられた逸話に触れましたが、同じく、この菊兵団のケースでも、三八式歩兵銃についての不満の声が当時の兵士から挙がっている。明治時代に開発された三八式は、5発装填できるが単発式の銃であり、しかも銃剣をセットしているが、銃剣をセットした三八式歩兵銃の全長は1メートル60センチにも及び、重量も約4キログラムであり、とても密林には不向きな装備であったという。密林の中を行軍するには重すぎる上に、決定的にダメなのは1メートル60センチも銃身がある為にフーコン地区のような密林では銃が木々に引っ掛かって邪魔になっていたという。

しかも相手は「まるでオモチャ」のように連続して弾丸を発射する自動小銃であり、どのように戦えばいいのか、兵士たちは途方に暮れたという。兵士の一人は三八式歩兵銃について、「あんなのは日露戦争の頃に活躍した銃だ」と怒りを隠さない。

1944年3月、インド東端とビルマとの国境近くにある都市インパールへの進攻が立案、実施された。それは世にいう「インパール作戦」であった。陸軍は援蒋ルートを巡って劣勢になりつつあったビルマ戦線で、起死回生のインパール作戦を展開させた。インパールに総攻撃をかけて一気に形勢逆転を狙ったという大作戦であった。陸軍はインパール作戦に10万もの兵士を集めた大規模な作戦であったが、その為に死の谷・フーコン地区で闘っている菊兵団に対しての補給は滞ったという。(このインパール作戦は失敗する。)

最強部隊とも呼ばれた第18師団、通称「菊兵団」には戦う術がなかった。食糧も兵器もなく、相手との戦力差は歴然という状態。しかし、総司令部から撤退の命令は出ず、フーコン地区を死守せよという。

27〜28名に守っている自陣には、毎日ように敵からの1200発もの砲撃が撃ち込まれたという。密林であったのに、その密林が畑のような有様になってしまうという連合国軍の猛攻。

1944年5月、既に地獄に直面していた菊兵団に更なる地獄が襲い掛かる。雨季に入ると同時にマラリアが流行しはじめた。医療施設に行きたいと思ったが、上官らは「マラリアは病気ではない」と撥ねつけたという。

雨季になって地面が泥濘状態になると、大砲が泥濘にハマってしまい、大砲を移動させることが不可能に。なので敵に接収されることを防ぐ為に大砲を破壊することにした。その大砲を放棄した部隊は13名で編成されていたが、大砲放棄後、その部隊に与えられた小銃は6丁でしかなかったという証言が紹介される。

1944年6月、フーコン地区の菊兵団は、連合国軍によって包囲されてしまう。ようやく、その段階になってから撤退命令が出たので、菊兵団は「筑紫峠」と呼ばれていた峠を目指して、撤退を始める。しかし、その撤退は苛酷なものであり、膝まで泥ぬかに浸かりながら、峠を目指すという行軍であり、多くの兵士は、その惨状の悲惨さを語る。脱落者が次から次へと出るワケですが、彼等を置き去りにして筑紫峠に行くしか選択肢がないという状況だったという。或る兵士が木に背中をもたれかかるように座り、その垂れたアタマの前には家族写真が置かれていた。筑紫峠まで頑張ろうと励ましの声を掛けようと思い、その木にもたれている兵士を見やると、目からも耳からもウジ虫が沸いている状態であった――という。

1945年8月15日、玉音放送にて終戦(敗戦)が通達される。フーコン地区に派遣された菊兵団4000名の内、実に8割が戦死してたという。

菊兵団の元兵士の一人は

「最後の最後まで第18師団自体は降伏をする事なく終戦を迎えた。(開戦と終戦を決めたのは皇軍である。)我々は降伏しなかった。その事は今でも誇りにも思っている」

と語る。

菊の御紋の使用を認められていたという精鋭部隊、その誉れ高き菊兵団は、自分たちの部隊は最後の最後まで降伏しなかった事が誇りである、とはいうものの、一連から浮かび上がって来るものというのは、定説通りの、つまりは、精神論に頼った何かであり、装備にしても作戦にしても杜撰さは否めず、何やら指導部層の方に問題点を見い出す事が出来そうな話なのかも知れませんね。