NHKエンタープライズ版「兵士たちの戦争」シリーズの「フィリピン・レイテ島、誤報が生んだ決戦」編から。

陸軍第一師団は関東地方で編成された部隊であり、兵士らの大半は関東地方出身者によって編成された13000人からなる師団。その第一師団は、フィリピン中央部にあるレイテ島で、世に言う爛譽ぅ瞳萓鎰瓩膨み、壮絶な被害を被った悲劇の部隊であるという。しかも、その悲劇的敗北を喫したレイテ決戦は、近年になってから、実は誤報によってもたらされたものであった事が明らかにされた――。

発端は1944年10月19日に日本軍とアメリカ軍との間に発生した台湾沖航空戦が関係しているという。台湾沖航空戦にて、日本軍は甚大なる戦果を挙げたとして現地の陸軍から大本営へと戦果報告が伝えられた事に拠る。台湾沖航空戦にて、陸軍は敵艦に次のような被害を与えたと報告していた。

航空母艦⇒11隻

戦艦⇒2隻

巡洋艦⇒3隻

巡洋艦若しくは駆逐艦⇒1隻

それらを犒眥声磴靴は撃沈に近い状態の被害を与えた瓩箸い戦果報告が為された。(※「戦果報告」について後述あり)

それは誤まった報告であったが、大本営陸軍部は報告を鵜呑みにし、翌10月20日に、「この好機を逃すべからず」と意気込み、レイテ決戦に踏み切った。大本営陸軍部から南方に展開していた南方軍レイテ司令部には、台湾沖航空戦に於いて敵軍は甚大な被害を被っているから今こそが好機であり、今のタイミングであれば「撃滅可能ナルベシ」と、レイテ決戦に踏み切るよう命令を下した。

これが「誤報が生んだレイテ決戦の悲劇」の真相であるワケですが、更なる皮肉がある。明らかに過大な戦果報告であり、それを疑う目を持っている事が大本営には求められていたワケですが、実は海軍、日本海軍は早期から、台湾沖航空戦に係る日本軍大勝利の報告が誤まっている事に気付いていたという。しかし、海軍は気付いていながら、それを明らかにしなかったというのが実相であるという。つまり、陸軍と海軍との間で情報の共有が出来ていなかったという事なのだ。

憐れなのは、そんな杜撰な体制、しかも誤報を元にレイテ決戦に臨んだ第一師団であり、、第一師団1万3千人の将兵に生身の出来事として降りかかる事となる。

実際に元兵士らの証言が紹介される。或る大隊長は長期戦になるものだと思い、軍用行李(衣類などをしまう容器)を用意していたが、参謀と話したところ、「軍用行李を持ってゆく必要もない。楽勝だ」という旨の説明を受けたという。また、別の兵士の証言でも、「今回のレイテ決戦は一週間もあれば勝負がついてしまうような、圧勝できる戦局にある」と聞かされて、レイテ決戦に臨んだという。

1944年11月1日、第一師団13000名は決戦に向かう。当時の状況は、オルモック地区に日本軍が展開していて、一方のアメリカ軍はカリガラ平野に軍事拠点を展開させていた。決戦にあたり、第一師団は中間地域にあるリモン峠を目指したが、そこで目の当たりにしたのは、事前の情報とは全く異なる圧倒的軍事力を誇るアメリカ軍の現実であった。

アメリカ軍はピンピンしており、しかも戦力は絶大であったという。大砲による砲撃に加え、火炎放射器も使用していた。更には米軍機による激しい爆撃が第一師団を待ち構えていた。米軍機は集団で上空に飛来しては組織的な爆撃を展開した。そう。実は制空権は完全にアメリカが掌握しており、米軍機が集団編成で爆撃を展開しているのに対して、日本軍機は一機も飛んでいなかったという。

また、アメリカ軍の砲撃は、曳火射撃(えいかしゃげき)と呼ばれるもので、砲弾が着地してから破裂するのではなく、空中で破裂する砲弾を使用していた為、第一師団の兵士らが味わったのは、砲弾の破片が土砂降りの雨のように降り注ぐ、そういう砲撃・射撃であったという。アメリカ軍の砲撃は目を開けていられない程の、驚くべきものであった、と。

大本営の作戦は極めて杜撰であった。誤報を信用していたが上に楽勝できると予想していたらしく、制空権を巡る戦略はおろか、当初は補給も必要なく、ホントに一週間もあればケリがつく、カンタンな戦争だと考えていた節があるのだ。また、心理的に「この好機を逃してはならない」という焦りがあったものとも考えられる。

後に補給艦が出されるが、その補給艦はアメリカ軍によって撃沈されてしまう。第一師団は補給も断たれた状態で、圧倒的兵力を有するアメリカ軍と対峙させられるという過酷な状況に追い込まれていた。そもそもからして食糧がないという戦争なので、兵士らは少人数編成で軍事調達(単に「調達」とも)をしたと証言している。それはレイテ島の原住民たちから食糧を調達することを意味しており、牛や豚、更には農作物なども泥棒同然に調達したと、証言している。

内情は深刻であり、第一師団は飢えとアメーバ赤痢に苦しめられていた。一週間もあればケリがつくと思っているが上に軽装備であった為、食糧は忽ち無くなった。兵士らはイモリ、ヤドカリ、カエルを捕まえては生で食べたという。それを食べられない者は餓死した。そして、それは生で食べた事を意味するのですが、生で食べて生き永らえてもアメーバ赤痢を発症してしまい、歩けない状態となり、やはり死んでいったという、地獄のような惨状に置かれる事となる。

1944年11月10日、第14方面司令官の山下奉文(やました・ともふみ)は、或る文章を残していた。そこには、次のように綴られていた。

「(このレイテ決戦は)将来、戦史の非難の的となる。今直ぐ辞めろ

と。

しかし、小磯國昭首相は、

レイテは日米の雌雄を決する天王山

と演説していた。大本営には、レイテ決戦で日米対決の雌雄を決する天王山だと報告しているから、そうなってしまっていたのだ。

内情を考慮すると、陸軍は狢爐に引けない瓩箸いΕ献譽鵐泙亡戮辰討い辰燭塙佑┐蕕譴襪箸いΑホントは、これは誤まりに気付きながらも、退くに引けないとして強がりを強いられ、嘘に嘘を糊塗した為に起こった悲劇がレイテ決戦の真相なのだから、なんとも司令部や大本営というのは罪深い。

その後、第一師団には「斬り込み攻撃」が命じられた。これは10人編成でアメリカ軍陣地に文字通りの斬り込みを仕掛けるという作戦であり、実質的には神風特別攻撃隊と同じ、玉砕を意味していた。実際に、10名編成で斬り込み攻撃を仕掛けてアメリカ軍にどれほどの損失を与えられたのは不明ながら、既に、そういう状況に大医師団は追い込まれてしまっていたという。

この頃、或る事件が第一師団内で発生した。700名ほどを預かる立場にあった大隊長、その大隊長の内の一人が、部下の命を守る為に独断で撤退をしてみせたという。その大隊長は「戦場離脱」の罪に問われ、部隊長に密室に呼び出され、部隊長から大隊長に対しての「銃殺してやる!」という具合の責めを受けてた声を聞いたと或る兵士は証言する。そして、その直後に2発の銃声が響いた、と。その銃声が銃殺を意味するのか、或いは大隊長の自決を意味するのかは不明であると兵士は証言する。しかし、史料上では、独断で撤退をした大隊長は、その後に「斬り込み攻撃」を命じられ、その斬り込み攻撃で戦死したこととして処理されている――と。

悲しい逸話も紹介されていました。或る兵士は、フィリピン人少女が日本の楽曲を弾いていたので聞き惚れていたという。その後、その少女とコミュニケーションを取り、ピアノの前に座るように合図されたので、二人でピアノを弾いていたという。数時間後に戻ってみると、そのピアノを弾いていた少女にスパイの容疑があるから殺すように命令されたという。その兵士は「命令に頭に来た」と証言していました。そして命令に背いて、その少女を逃がした、とも。

元々、フィリピンでも日本軍に協力的な現地人とアメリカ軍に協力的な現地人とがあったという。先に述べたように第一師団は現地調達の為に現地人の家畜や畑から食料を盗んだりしていたので、フィリピン人の間でも抗日ゲリラ部隊のようなものが組織されていたという。戦況が拮抗していた事もあり、どのフィリピン人が協力的な現地人であるのか分からないような状況になってきたので、或る証言に拠れば、「現地の人を見たら撃てと命令をされていた」と語っている。スパイなのかスパイじゃないのか判別がつかない上に、最悪の場合は日本軍の動きが敵にバレてしまう事を防ぐ為に、「現地人を見たら撃て」という命令が下っていた事の証でもある。

(勿論、現地人は非戦闘員であったのかゲリラであるのか判別がつかないから、兎に角、現地人と遭ったら「撃て」と対処していたの意ですが、人道的観点からすると、そのような命令が末端の心ある日本兵らを苦しめていた事が分かる。)

実際に、日本軍に協力的だった現地人が、抗日ゲリラと化した現地人らによって処刑される場面を目撃したという証言もありました。日本軍に協力していたレイテの原住民二十数名が抗日ゲリラ化した原住民らにサトウキビ畑に連れ出され、そこに掘られた穴に放り込まれた――と。レイテの原住民同士を分裂させてしまったという意味合いでもあり、その兵士は「レイテ島の原住民に申し訳ないことをした」と沈痛な表情で回想している。

1944年12月21日になって、ようやく転進命令というものが下ったという。レイテ島の部隊はセブ島へ転進せよという命令であった。セブ島へ移動する為に移動が始まるワケですが、落伍者が続出したという。落伍者は自害用に持たされた手榴弾で自決したらしく、そこでは「天皇陛下、万歳!」と声を上げながら自爆した兵士が多数があったという。

セブ島へ移動する為に用意されていたのは4隻の小型艇で用意されていたが、その小型艇に乗船できる岬に辿り着いた兵士数は、2500名。第一師団がレイテ島に派遣されたとき、13000名の兵士がいた。この転進命令のときには、兵士数は僅か2500名ほどになっていたという事のよう。

では、その2500名全員がセブ島へ行けたのかというと、そうではなく、セブ島に脱出できたのは700名であり、なんと1800名はレイテ島に置き去りにせざるを得なかったという。そのレイテ島に残された1800名は、実はアメリカ軍とゲリラ軍によって全滅したという。

最終的に日本に帰国した第一師団の生存者数は455名であったという。レイテ島に派遣された第一師団は当初13000名であった事を考慮すると、その生還率の低さが際立つ。


太平洋戦争末期に於ける「戦果報告」についての過去記事の引用です。
総じて戦果報告は作戦部隊が戦果を報告し、その報告を評価して大本営が発表していたが、作戦部隊による戦果報告は過大になる傾向があるという。これは実際には敵艦を撃沈していないが撃沈したという具合に報告してしまう心理があり、それが、そのまま実際の戦果として認められ、大本営まで上がっていたの意です。

また、EテレだかNHK総合でも神風特攻隊の戦果報告の杜撰さを取り上げたテレビ番組があり、その中で当時を知る元兵士の証言もありましたが、かなり杜撰なものであったのが分かる証言でしたかね。それは太平洋戦争末期の話でもあるのですが、番組内で証言者が指摘していたように嘘の戦果報告を上げるという行為が如何に軍隊にとって不毛であるかが理解できていない。「撃沈しました」という作戦本部からの報告を、「撃沈していない」と事実に基づいて修正する事に抵抗を感じるという奇妙な心理が大日本帝国軍人にあったのではないか? それが精神的美徳であったという理解でいいのか、何故かチェックが緩い。

また、こうした戦果報告は間違っていたら後に修正されるものであるが、そういう手続きも取られないことがあったというから、なかなか当時の「大本営発表」というのが罪深いのが分かる。或る意味では、天皇も大本営に騙されていたのだ。


この第一師団の証言、思いの外、情緒的な証言が多かったです。

或る兵士は、日本に帰国してから戦友の墓参りには行っているが、戦友の遺族には会った事がないという。何故なら遺族に会わせる顔がないから。自分だけが生き残っている事の後ろめたさがあるという事のよう。そして家族らにも、レイテ島の事を話した事はないという。仲間を見殺しにして自分だけが生きて帰国し、今も生きているという事が、やはり、何某かの後ろめたさになっているという。

また或る兵士は、目を潤ませて戦死した戦友を偲んで語っていました。自分は帰国後に結婚して子供を設け、今では孫に囲まれて生活している。しかし、彼等は「オンナも知らずに死んでしまった」と。少し違う切り取り方になってしまいますが、そんな風に思うのがヒトというものであるかも知れない。また、同時に、当時の兵士というのは招集され編成された青年らが兵士になっているのであり、確かに「オンナも知らずに死んでいった」となる。

三島由紀夫の小説「金閣寺」でも、童貞の青年は童貞を捨ててから金閣寺に放火をするし、実際に出撃前の兵士が女郎買いをして童貞を捨ててから死地に向かったなんてのは実は史実ですやね。「オンナも知らずに死んでいった」という言葉は、好ましい好ましくないに関係なく、その兵士たちの実像を如実に浮かび上がらせる証言であると思う。

アメリカ軍がベトナム戦争中にベトナム人集落を襲撃していたソンミ事件に関与して、ある兵士の母親は、「アメリカ軍は、私の息子を人殺しにしてしまったっ!」と訴えたという逸話をベトナム戦争の回想の中で取り上げましたが、ホントは、そーゆー事なんですよね。元々は農村の青年だった者が招集され、戦争映画とは異なる血生臭い戦地で、狂気の戦いを行なうというのが戦争のリアルであって。

保阪正康さんが従軍慰安婦問題を調べていた中で、実は、日本の青年兵の多くは「オンナと甘いものと、どっちかを選べ」と休日の余暇の過ごし方を提案されると、甘いものを欲した兵士が殆んど。女性を買うを選択して慰安所に向かった兵士にしても、そこで貪るように性交に励むでもなく、意外にも女性の傍らで静かに読書をして時間を潰すなどしていたという意外、意外すぎる証言に直面したという。また、中には、慰安所の女性とデキてしまい、その女性を連れて部隊からの脱走を図ったという惚れっぽい兵士の話なんてものあったそうですが、ホントは、そういう証言の方が信憑性が高いような気もしますかね。一兵卒なんてのは元々は田舎のセーネンであったワケで。