ソロモン群島にあるガダルカナル島は、太平洋戦争に於ける重要拠点であった。連合国軍としてのアメリカ軍とオーストラリア軍とを分断する意味合いから早期から日本軍はガダルカナル島を重要拠点と定めていた。

1942年6月5日のミッドウェー海戦で日本軍は大きな敗北を喫していたが、日本海軍はガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン群島の攻略を目指していた。

しかし、1942年8月7日、アメリカ軍が空母3隻を含む総勢82隻もの軍勢でガダルカナル島へ侵攻、上陸部隊を上陸させて、そのまま、アメリカ軍はガダルカナル島の飛行場も制圧した。

この事態に対して、大本営は旭川歩兵第28連隊に、ガダルカナル島の飛行場奪還作戦を命じる。一木清直大佐を連隊長とする旭川歩兵第28連隊は満州などの北方戦線で活躍の目立った精鋭部隊であったが、このガダルカナル戦に当たっては、特別に一木清直大佐に2000名の兵士を選抜させ、大本営直轄の編成であった為に「一木支隊」と呼ばれたという。

選りすぐりの精鋭2000名で編成され、しかも大本営直轄の部隊。それが一木支隊であったが、そのガダルカナル島の戦いは、後に悲惨な戦いとして歴史に名を刻むことになる。

一木支隊の兵士らは、その作戦は「一晩もあれば終わってしまうと思っていた」と証言している。どうやら事前には楽観的観測があったらしく、実際に一木支隊の面々に配布されたという小冊子「これだけ讀めば戦は勝てる」が残っており、そこには

「敵はシナ兵以下の弱虫だ」

等と記されていたという。楽観していたが為に、補給の事は余り考えていなかった事が分かっている。

1942年8月18日、一木支隊は駆逐艦で、916名を上陸させる。2000名の兵士を用意していたが駆逐艦で上陸する事になった為に、916名しか上陸できなかったというのが真相であるという。上陸は夜陰に紛れての上陸作戦で、これはスムーズに上陸したという。しかし、その上陸地点から飛行場までは約30キロの距離があったという。

ガダルカナル島の様子を探る為に、一木支隊では現地人を捕えて情報を聞き出すことにした。それは偵察を兼ねたものと思われますが、三人一組となって一人の原住民を捕らえ、尋問。尋問後には原住民を銃剣で刺殺したと証言している。捕らえた原住民に対して尋問が終え、そのまま解放してしまうと一木支隊の動向が敵に漏れてしまう可能性があるので殺害する事になっていたらしく、、一人が尋問終了、解放の合図として「放せ」というと、その言葉を合図に銃剣で刺して原住民を殺害した――と。

翌8月19日、上陸二日目に一木支隊は照明弾に照らし出され、アメリカ軍から凄まじい銃撃を浴びせられる。アメリカ軍が使用していたのは曳光弾(えいこうだん)と呼ばれる弾丸で、弾道が分かるように光りながら飛ぶ弾丸であったという。証言によると、その曳光弾による銃撃は銃弾の弾道が見えるので「まるで川のようであった」という。しかも、アメリカ軍は準備万端だったらしく、足元を狙う高さ、兵士の腹部・胸部を狙う高さ、頭を狙う高さに銃を予め固定し、いつでも引き金を引けば銃撃できるというところまで準備万端の銃撃であったという。

しかも、916名で上陸した一木支隊に対して、アメリカ軍は11000名であった。そのアメリカ部隊の兵数は日本側が想定していた5倍以上の兵数であったという。916名対11000名って幾らなんでも。

上陸二日目にして、その圧倒的な戦力差を見せつけられたが、一木支隊が採った作戦は、【白兵突撃】と呼ばれる銃撃することなく、敵に接近して銃剣で敵を刺殺するというもの。この「白兵突撃」は日露戦争以降、日本陸軍に於ける伝統的な戦い方になっていたという。

つまり、アメリカ軍による機銃掃射の嵐の中、一木支隊の兵士らは銃撃することなく、敵に接近して敵兵を刺殺するという作戦で応じた、応じようとした、という事を意味している。その結果として、次から次へと撃たれる日本軍という展開となったという。

アメリカ軍は7台の戦車も、その戦いに投入。戦車は、死んだ日本兵と、死にかけている日本兵の上を踏み潰す役割として登場したという。つまり、死んでいようが死んでいまいが、それを「轢きつぶす」為に戦車が用いられたという意味です。壕に入っている兵士は、戦車が上を通り過ぎるだけならば無事で居られそうなものであるが、現場の戦争というのは、そうした細かい事にも気が付くらしく、アメリカ軍の戦車は壕の上でクルクルと方向転換をするなどし、壕に入っている日本兵の首から肩からを轢きちぎったという。

大本営肝入りの一木支隊は、上陸二日目にして壮絶な結果を招く。上陸したのは916名であったが戦死者は777名。因みにアメリカ軍の死者は35名。そして、一木支隊の一木大佐も自決なのか戦死なのかも不明のまま、この上陸二日目の戦いによって消息不明となる。

大本営はガダルカナル島を諦めず、第二梯団として5000の兵士をガダルカナルに投入する。隊長には、新たに川口清健少将が就任した。

川口少将は、一木大佐と同じ過ちは犯さないと、上陸ルートを海岸線から密林ルートに変更する。ジャングルの中を通って飛行場に接近し、9月12日に飛行場に総攻撃を仕掛けるという作戦を敢行する。しかし、粗末な地図しかない上に、慣れぬジャングルの進軍で期日の12日までには作戦時の場所まで辿り着けず。

翌9月13日、ここでも白兵突撃が繰り返された。夜陰に紛れて接近したが、アメリカ軍はジャングルから日本軍が接近してくる事を予め読んでいたらしく、ジャングル内に無数のマイクロフォンが仕掛けられていたという。そして、照明弾が放たれ、戦場は白昼のような明るさの中で行なわれたという。

実は、アメリカ軍は11000名だったものが15000名に増員されていた。日本軍はというと、二晩連続で「白兵突撃」を続け、633名が戦死、その丘は後に「血染めの丘」と呼ばれる事となったという。

ガダルカナル島の戦いは、既にここまでの「繰り返された白兵突撃」という部分にも驚かされますが、真骨頂なのは、その後であるという。輸送船が次々に撃沈され、ガダルカナル島は飢えの島と化し、【飢島】と呼ばれる事になる。

何故、満足な食糧を持っていなかったのかというと、作戦では飛行場に総攻撃を掛け、アメリカ軍の食糧を獲得できる見込みであったからだという。実は、作戦そのものが杜撰なのだ。この作戦に準じた部隊は、大本営陸軍部直轄の部隊なのに、そういう作戦であったという事ですからね。

9月中旬には、ガダルカナル島の日本軍は食糧は尽きていたと考えられるワケですが、飢えと病との地獄絵図の世界になったという。

或る元兵士の証言によると、

「明日、明後日、死ぬであろう人の鼻や口はウジだらけになる」

という。これは死後にウジが沸く状態になるのではなく、死ぬ前、死にかけている状態になると鼻孔や口内にウジが沸いてしまうという、生々しい現実、その目撃証言という事になるのでしょう。

また、元衛生兵だったという人物の証言では、死んでゆく兵隊たちから30通以上もの遺書を預かったという。クスリも食糧もない状態なので、衛生兵は空っぽの鞄に遺書を入れ、いつか遺族に遺書を届けようと思い、実際に、その元衛生兵は日本へ預かった遺書を持って生還した。しかし、それら遺書は「軍事機密として没収されてしまった」と証言している。

また、或る証言では、「もしアメリカ兵の死体が転がっていたなら、食べたと思う」と証言していました。日本人を食べる事には抵抗があったし、骨と皮のみであったから食べなかったが、もし、アメリカ兵の死体が転がっていたら「食べたと思う」、と――。



このガダルカナル島の戦い、その大敗について、大本営は実は失敗である事を認めず、また、発表していなかったのだ。

1942年12月31日の御前会議に於いて、ガダルカナル島からの撤退が決定される。しかし、撤退は中々、実行されなかった。その間にも、どんどん餓死者が出たものと考えられる。

1943年1月末、歩ける者だけがガダルカナル島から撤退を始め、歩けない者は置き去りにされ、そのままアメリカの捕虜になったという。

1943年2月7日、ガダルカナル島かの撤退が完了する。

ガダルカナル島に投入された兵士は総員で31000名。うち、戦死者は5000名、餓死と病死は15000名を超えるという。死者総計は20000超。

そして、大本営は次のように発表していたという。

ガダルカナル島に作戦中の部隊は

その目的を達成せるにより

2月上旬 同島を撤し

他に転進せしめられたり


大本営発表というのは、こうした嘘を平気で垂れ流していたのが史実であり、、、