生存している兵士らの証言を取り扱ったドキュメント「兵士たちの戦争」の沖縄戦編ですが、証言をしたのは山形県で編成された陸軍第32連隊でした。

第32連隊は本土防衛の為に沖縄に派遣された部隊であり、約3千名。山形県と北海道、そして沖縄から招集されているが、実は満州のメッカ作戦などで活躍をした精鋭集団でもあった。戦局が悪くなって、精鋭を南方を送っているという意味では、ガダルカナルや北部ビルマと同じ構図を持っている。

1945年というのは太平洋戦争も末期ですが、その3月23日より、アメリカ軍は沖縄上陸作戦を展開。動員された兵力はなんと54万。大本営は、事前に敷いていた絶対国防圏を破られ、敗色濃厚に戦局は傾いていたが、決断ができず、本土防衛の為に沖縄を捨て石にする覚悟で徹底抗戦する事を決定。第32連隊は同年7月に沖縄入りを果たす。

証言に拠れば第32連隊の場合、真鍮製の認識票を引き上げられたという。認識票は戦死した場合に認識票に刻まれた番号で人物確認をする為のものであったが、第32連隊にあっては「全員死ぬんだから認識票は必要がない」との事で、事前に回収されたという。

沖縄戦には一説に日本軍も約10万の兵力が動員されたが、その中で第32連隊はというと首里司令部を死守するという任務を課されたという。アメリカ軍による沖縄への攻撃は語り草ですが、激しい艦砲射撃によって山の形が一昼夜にして変形してしまったというレベルの猛攻。将兵の約半数が序盤から死傷するという地獄のような展開となったという。

そんな中、「斬り込み攻撃」が行なわれる。これは銃剣を持って突撃してゆく白兵突撃ではなく、爆雷や手榴弾を持って敵陣に飛び込み、自爆するという作戦であった。爆雷は6キロほどの重量があったという。

この「斬り込み攻撃」を目撃していたという兵士の証言によると、「天皇陛下万歳」と叫んだ声は一度も耳にした事がなく、また「おかあさん」という具合の叫び声も耳にしなかったという。聴こえてくるのは、大本営に対しての悪口であったという。

沖縄戦から一ヶ月半が経過した時点で、10万名いた日本軍からは6万4千が戦死していた。

5月下旬、とうとうアメリカ軍は沖縄守備隊の司令部のある首里に迫っていた。

5月22日、守備軍司令官であった牛島満中将は大本営の命令に従って、更なる持久戦に持ち込むことを決断する。5月27日、南方のガマと呼ばれる洞窟で最後まで抗戦することを決定し、喜屋武半島(島尻)へ展開する。

沖縄戦を巡っては、触れきれない程、色々な要素がありますが、住民と兵士との関係についての言及がありました。32連隊関係者の証言に拠れば、住民(沖縄島民)との間には言葉や習慣に違いがある事から接することのないように命令があったという。接触を避ける必要があったのは防諜という側面からであり、沖縄島民と安易に接して、その島民が敵のスパイであるという可能性があったので、接触を禁じていたのだという。しかし、喜屋武半島のガマで応戦する段階になると、島民のガマに兵士が入ってしまったり、兵士のガマに島民が入ってしまったりの混乱は当たり前のように起こり、更には、兵士がガマの奥に籠もり、ガマの入口付近に島民をあてがう事で、軍が間接的に住民を利用していたという証言も。

また、島民から「兵隊さん、助けてくれ」と懇願された事があったが、島民との接触を禁止されていたので軽々に助けることが出来なかった旨を告白し、涙ぐむ元兵士の映像なんてのもありました。食糧を島民にも分けてあげたいが島民に分けるワケにいはいかないというのが軍隊の規則であった。証言する兵士は「申し訳ない」とやはり涙ながらに証言する。

それらの事情もあり、兵士らと島民との間に微妙な対立が生まれていたという。

6月23日、アメリカ軍が喜屋武半島を制圧。沖縄守備隊司令官の牛島中将が摩文仁の丘で自決する。しかし、32連隊に対しては最後の命令が出ており、「敵に出血を!」と最後の一兵に到るまでアメリカ軍に損傷を与えるよう命令が下っていたという。実際には、この時点で軍隊という体裁は消失するのですが、最後の最後まで「敵に出血を!」という命令があった為に、その後も32連隊の戦争は継続されてしまう。

8月になれば無傷の日本軍が援軍としてやってくる、国頭(くにがみ)に友軍がやってくるらしいという風聞が流れ、兵士らは犢馥突破瓩覆襪發里鮖遒澆燭箸いΑこれは完全にパニック状態下で起こった風聞であり、実際には援軍が到達する予定などは無かったが、銃弾の雨の中、兵士は国頭を目指して敵を突破せんとして突入し、要らぬ悲劇を招いたという。

8月15日、玉音放送が流れ、終戦・敗戦が表明されたが32連隊の抵抗は続き、32連隊の残存兵が武装解除に応じたのは、9月3日の事であったという。3000名だった32連隊の生存者は一割足らずとなり、沖縄戦全体の死者数は推計18万8千名、軍人の被害が9万4千名、島民の被害も9万4千名であったという。(沖縄戦に於ける死者数、その数字については別の数字も見つけることができますが、番組内で提示された数字はそれでした。)


※犹造蟾み瓩砲弔い堂甬邉事から引用です。
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NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」を視聴。「時論公論」を視聴していたら勝手に始まってしまったという感じだったのですが、沖縄戦の生々しい部分というのを報じていて興味深かったです。

沖縄返還直後にカセットテープなどで沖縄の人たちに戦争を語ってもらった音声テープがあり、その証言を検証していると、【斬り込み】という言葉がありました。まぁ、想像して言い当てる事も可能かも知れませんが、その「斬り込み」という単語が何を意味しているのかというと、爆弾を背負って突撃するという自爆攻撃の事でした。ニュアンスをボカせば「玉砕」という事になるんでしょうか。

どういう文脈で【斬り込み】という言葉が登場するのかというと、沖縄戦当時は十代であった女性の口から出たものでした。軍民一体となって沖縄戦に臨むという雰囲気になっており、誰もそれを疑っていなかったという。前日にお酒を飲んで、翌日に斬り込みを決行したが、皆が皆、「一人でも多くアメリカを殺してやるんだ」と決意していたから、死を怖いとはみんな感じていなかったと回想している。

あ。一応、補足しておくと、「アメリカ兵を殺す」でも「アメリカ人を殺す」でもなく、「アメリカを殺す」と語っていました。

斬り込みをしていた中には民間人も含まれていた。それこそ、十代の少女なんてのも含まれている。特に沖縄戦は戦争の訓練も間に合わぬという状態で、召集した人たちを兵士とし、民間人(住民)に対しても、軍民一体になってアメリカを殺すように教育というか洗脳というか微妙ですが、そうしていた。兵士の証言によると、沖縄の住民40人ぐらいに一度に斬り込み攻撃をさせた事があったという。うーん、多少なりともアメリカ軍に指揮系統らしいものが存在していたのに比べて、日本軍は軍の体裁をとっておらず(これも証言にあった。)、精神的洗脳とでもいうべきか、「みんなで死のう」というノリにしていたよう。この沖縄の民間人らの斬り込みでも、合言葉は「(死んで)靖国で逢おう」だったという。