2017年06月18日

衆愚について

ショウペンハウアーの「幸福について」を読みかえしていて、色々と――。

先ず、【衆愚政治】という言葉を使用するとイヤな感慨を惹起させるものであろうと思う。しかし、一つには民主政治そのものの蔑称として用いられる。民主政治=衆愚政治であるという皮相な見方ですね。しかし、それをホントに否定できるのかというと、これも難しい。しかも、意味合い的には狢臀阿了臆辰垢詭閏膽腟舛老覿匹篭鯲瑤蚤塚遒靴神治に陥る瓩箸いιに考えられてきたからこそ、その言葉があるのだ。

上記の内容は、簡単に辞書や事典類でも記されている事で厳然たる事実ですかねぇ。それについて感情的な何かをぶつけても、実は意味がない。

で、橋本治著『知の顛倒』(朝日新書)について、あれこれと触れましたが、あれも実は、もう、諦めて、衆愚を衆愚と捉えての話だったんですね。

麻生久美子さんが出演していたテレビCMを皮切りにして引用しました。

「難しい本読んでれば、マンガ読んでるよりも、エラいんですか?」

という挑発的なセリフの挙げ句、最後にだらしない部屋でだらしない恰好で、口の端をだらしないままに

「ナハハ」

と、笑ってみせているというテレビCMを取り上げたものでした。

重複になってしまうので、細かくは触れませんが、そのテレビCMに衝撃を受けたと橋本治さんは展開させた後に、次のように紡いでいた。

悪い言い方を承知で言うと、バカな人間の方が数は多い。これに対して批判めいた接し方をせずに、そのあり方を全面的に肯定してしまえば、肯定された方はどうともならないが、肯定した方はそれだけ多くの顧客を獲得できる。経済が閉塞状況になれば、顧客のレベルを下げてより多くの消費者を獲得することが必要になる――と言うか、それが閉塞状況に陥った経済を生き延びさせる道らしいから、経済は人のバカを促進する。「バカになれば、あるいはバカを利用すれば、没落は回避出来る」というようなことかもしれない。

うん。啓蒙主義は幻想に終わった。いやいや、これは「堕落させる方向」に向かってしまうものであるという、それを活かして理解して欲しいんですね。わざわざ、イヤミを述べているのではなく、もう、限界に近いところまで来てしまっているというニュアンス。つまり、快楽に溺れさせるようにして、白痴化させる方向へ、現行の消費者至上資本主義は舵を切っているんですよというニュアンス。

ここのところ、土曜日の朝は非常に気分が刺々しくなる。何故なら、NHK総合の「サキヨミ」のテーマが、いつもサボータジュの方向性というか、堕落を怪しみたくなる側の提言ばかり取り上げているんですよね…。週休三日制の問題にしたって、もう、ウンザリ。休みたいのであれば休むべきだ。そんなに休みたいのなら、休みなよ。ただし、賃金は労働の対価であるというのが原則だから、「休暇中にも賃金が発生する社会にすべきだ」という権利主張には持っていくべきではないよって、それだけの話だ。いっそ、10年後を見越してなんたらNPO団体を設立して週休4日制の必要性を提唱しておけば、その問題のトップランナーになれちゃうと思う。どうせ、そうなるでしょ、この話は。

私自身が頑なにそういう考え方なのかなとも思っていたんですが、やはり、違うな。橋本治さんの書籍から私とは全く異なる視座からの物言いなのに、同じような事を考えてしまっていることに新鮮なオドロキがありましたが、よくよく考えてみると、ショウペンハウアーあたりも、完全に近いんだよなぁ。何故、今の日本人は少しでも、そちらに目を向けないんだろってね。

で、昨年、「遺伝子と人格」についてアレコレと述べる中で、「知とは何か?」についても具体的に言及したんですね。で、その話とも関連している。よくよく活字を追ってみるとショウペンハウアーは殆んど言い得てしまっているんだよなぁ。

精神の活動というのは連綿と継続されているものだから、想像以上に開きが生じる、と。キャッチボールをするとする。そこにある事実はキャッチボールをしたという事実だけである。しかし、知の作用というか精神活動に差異がある事を考慮すると、「ボールを投げて、ボールを捕る。これの繰り返しだ」という理解で終わってしまうヒトと、それだけではなく、ボールの軌道であるとか捕球のタイミングやリリースのタイミング、或いは、ただただキャッチボールしている中でリラックスして、通りの向こうの蕎麦屋の出前持ちがどういう感じであったかなんてことをまでもに、実は狎鎖世粒萋悪瓩関係してしまっている。

【精神の活動】といってますが、これは言い換えれば【知性】の話でもあり、即ち「知のカタチ」、その差異が実は思いの外、大きな事を指摘している。この「精神の活動」というのは日々連綿と継続されている活動であり、並べて比較することなんてのは無意味であり、怖ろしいまでの格差を拡大させてしまう。(ショウペンハウアーから離れて、比較的新しい話題としての脳神経学とやらに倣えば、思いの外、些細な事で脳に変性が起こるとされている。言葉や文章にして説明するのが難しいが分かるという感覚を我々は有していたりしますが、そういうものとも関係している。おそらく測れないし、測りようがない。)

その上で、ショウペンハウアーは、次のように言っているのだ。

さて、たまたま何か崇高な理想をめざして、比較的優秀な部類の人たちが相集まって団体を結成した場合、その結末はどうなるか? まるで虫けらのようにうじゃうじゃと各ところであらゆる物に巣食ってたかり、自分らの退屈を、また場合によっては自分らの欠乏を凌ぐ材料にしようとして、何にでも無差別に掴みかかろうと待ち受けている例の人類中の賤民どものなかから、この団体へも幾人かが潜入し、ないしは強引に押し入ってきて、やがて全体を滅茶苦茶にこわしてしまうか、それとも当初の意図とはかなり反対なものになるくらいに変えてしまうかするということに、ほとんど相場が決まっているが、それも先に述べた人間の内面的な空虚さと貧弱さとにその責任があるものと見るべきである。

偏見とも採れそうな語句が使用してあり、堂々たる愚民論でもあるワケですが、例示は見事だと思う。実感した経験がある者というのも、少なくないのではないだろか。大きな例で挙げると、政治史がそれなんですよね。理想が掲げられて何かが動き出す。すると、政治というのはヘゲモニー闘争になってしまうから、途中から理想や政治理念を脱して、その闘争に勝利することが本題になってしまうという転倒が起こる。小さな例は、ショウペンハウアーの例示通りでしょう。当初は上手に作られていた仲間内のルールというものが、組織が拡大すると壊されてゆくものなんですよね。地味に凄い好例で説明してあると思う。

そうなるから、ショウペンハウアーの場合は強烈に社交性を否定する。つまり、或る意味では、引き籠もりの肯定でさえある。が、おそらくは、こういう話は一定以上の精神の活動がないと、実は全く相手には通じず、ひたすらに、事柄の認識を歪めて解釈されてしまうのだ。

ジェイン・メイヤー著/伏見威訳『ダーク・マネー』(東洋経済新報社)は、お金を投下すると世論を形成できてしまうという摩訶不思議な話がリベラル思想体系の側から述べられている。つまり、巨大資本家が巨額の寄付などをして非営利団体としてのなんたら研究センターのようなものを設立し、研究者らを雇うと、その意に沿った学説やプロパガンダが展開されるので、巨大資本家の意に沿った回路の世論が形成されるという。摩訶不思議といえば摩訶不思議にも感じるのですが、どうも情報工学にもフェイクの技法があると考えられているという。

仮に「7〜8割方は確定的である」と推測できる事柄というのがあるとする。これを十全に断定するには、推測が3〜2割が足りないワケですが、敢えて、その断定できない2〜3割に対して攻撃を仕掛けるのだという。つまり、良心的な意味で「100%の確率で爐修Ν瓩斑埜世禄侏茲襯錺韻任呂覆い80%程度で、強く推定できる」という言辞に対して、大きな声で「20%の不備」を攻撃すればいいのだという。しかも大袈裟に騒ぎ立てさえすれば、かなりの大衆をダマす事が可能であるという。現在ともなれば、この論法で、STAP問題なんてのが粘られてしまったワケで。いやいや、ホントは、色々な問題を、これでヤラレていますワな。もりかけ問題も勿論、これでしょうねぇ。

全体の整合性を組み立てて物事を見る事をできない人は、やはり、できないのだ。現在の日本人は「科学的に証明されている」のような言辞に弱いワケですが、それらも実は権威主義ですよね。どこそこの偉い先生が言っていたからとか、どこそこが公式に認定したからという具合に物事を確認しているワケですが、それは権威主義である。或る意味では仕方のない事でもある。しかし、それだと「権威」に依存している状態だから、裏をかかれてダマされるワケです。或る種の権威が嘘をついたり、権威を装った何かが嘘をつくと功を奏する。社会全体が白痴化に向かっている、実は堕落しているという文明論の文脈は、ホントは、この話であろうと思う。しかし、当世の時代を満喫している場合、これが全く理解できないという事のように思える。

以前に「遺伝子と人格」の狠里箸浪燭?瓩旅猝椶膿┐譴燭茲Δ法悟性は知性の重要な要素である。権威のなる機関の完全な「御墨付き」がないと何も認識できないとか判定できないという状態は、悟性の欠落って事になると思う。

「知性とは何か?」もしくは「知とは何か?」と考えさせられることになりますかね。不思議なことに手元に用意しておいたテキストが、パタンと開き、そのページの見出しが「知能とはなにか」だったので、それを参考に展開してみる。

知能の定義については古くから色々な定義がなされているが、未だに意見が一致しているとは言えない。

1.知能とは高等な知的能力である。 ……(抽象的思考力、関係の抽出能力、判断・思考能力)

2.知能とは新局面に対する適応力である。 ……(臨機応変に対処する能力。文章を書く、討議する、読書内容や聴講内容を理解する、問題を発見する、問題を解決する。図形分割や展開図、類推、論理的思考なども臨機応変に対する能力に含む。)

3.知能とは学習する能力、または経験によって獲得していく能力である。

等。

また、「知能とは知識量ではなく、将来に対する可能性を意味している」という風に解釈するものであるという。



以下、付記です。

橋本治さんが品性について触れていて、また、現在の日本の品性とは、即ち、戦後の日本の経済動向の中で勝利した市民階級、言い換えれば、中流の上位が入れ替わったとしている。上流階級は昔から実は入れ替わっていない。中流上部が入れ替わっただけとする。謂わば都市成金であるワケですが、当然、都市成金の品性こそが現在の日本の品性である。マナーだ、マナーだとか言いながら、「江戸しぐさ」なんてものを信じちゃったりするレベルの品性・知性が現在の日本を支配している品性・知性なのだ。ショーン・マクアードル・ほらっちょ。

そういう意見に対して、ショウペンハウアーは少し重ねることが出来そうですね。お金持ちはお金持ちであるからお金の使い方を習熟しているが、貧乏人は浪費したがるものだと述べている。正確を期すと、ホントは、貧乏人の娘を嫁にしまうと散財されてしまうので気を付けるべきだぐらいの記述ですが、同じ意味を指している。西洋にも、そういう概念があるようで、つまり、吝嗇を理解できない、と。

ussyassya at 03:31│Comments(0)TrackBack(0)なまぐさ 

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