2017年06月19日

貞操観念について

大正時代に実際に日本にあったという「貞操論争」が中々、面白いと感じたので備忘録的に。

生田花世という人物が提唱したのは、大雑把には次のような考え方。

「本当に食うものにも困窮している状態であるならば女性は貞操を捨てるのだって厭うべきではない」

とした。これを生田花世説とします。それに対して、安田皐月という人物が反論を展開させた。

「女性の貞操というものは、尊厳そのものであるから、商品のように考えるべきではない。何ものを以ってしても砕く事が出来ないものが貞操である」

とした。

今一つ、この話を要旨を噛み砕いてしまうと、つまり、パンを食べる為であれば女性の貞操を商品のようにしてパンを得る事も許されるという肯定論と否定論であるという。つまり、否定論の方は「操というものを商品のようにして扱うべきではない」と、肯定論と闘わせているワケですね。

更に、そこに伊藤野江という人物が参戦した。

「処女を犠牲にしてパンを得ると仮定するならば、私は未練なく自分から処女性を追い出してしまう。そして、もっと他の方向へ自分を育てようと考える。それは恥ずべき行為ではない事を私は知っている」

ああ、これは興味深い論争かも知れませんね。

如何なる状況下に置かれても貞操を商品のように考えるべきではないだろうという一つの正論として安田皐月説がある。それに対して生田花世説は「食べる為に操を放逐する事は有り得る=権利がある」という思考をしている。伊藤野江はエゴイスト的な性格が強烈な興味深い人物ですが、生田花世説を擁護するカタチで、私であれば処女性なんてものは自分から放逐してしまうだろうと述べている。

貞操観念論争だなぁ…と思う。常識に適った価値観で思考をしているのは安田皐月説でしょう。貞操とは尊厳であるという価値観で古い価値観でありながら、それでいて人権思想をも踏襲しているように見える。他方、伊藤野江の場合は、昔ながらの価値観は打破すべきであるという思考の急先鋒の人である。


で、その伊藤野江は、その後に廃娼論争を展開させる。先ず、最初にキリスト教系の婦人矯風会が、公娼制度の廃止を訴えかけていたという下地がある。政府公認の売春が存在している事はおかしいので、公娼制度を廃止すべきであるという論旨が婦人矯風会の主張であったと思われる。それに対して、伊藤野江は思わぬ角度から批判を展開させる。伊藤野江の横槍の論旨は、苦しんでいる娼婦を救済するというのは分かる、公娼制度を公認している政府批判も分かるとした上で、批判したのだ。どういう事かというと、矯風会は娼婦の事を瑕誘班忰瓩噺討鵑任い燭、その言葉の中に傲慢を発見したのだ。つまり、「その賤ましい仕事をやめろ」とか「汚らわしい事業は廃止せよ」という物言いに噛み付いたのだという。また、伊藤野江は、売春は無くなることはないものであるという事にまで言及した。

すると次には野江の身辺でもあった青山菊枝という人物から、伊藤野江への反論が起こる。売春が将来的になくならないとしても、女性が性を商品化することは好ましい事とは言えず、無くしていかねばならない。公娼制度を廃止したところで私娼になるだけの者が多いとして、それは社会改造が到らないからそうなるのであり、先ずは公娼制度を廃止することが始めるという主旨に反対するものではない――と。

おお、混乱しそうですが、これは中々の討論のようにも思える。既に平成に生きる現代人は或る程度の基礎知識を持っていて、その知的体系に基づいて思考している。だから、誰の意見がどう正しいと時代によって判断されるのかという意味での正解らしい正解も、実は念頭に置けてしまう。しかし、よくよく考えてみると、やはり、伊藤野江の思考は興味深いとしか言えないんですよね。。。人物として好きになれる類いの人物ではないのですが、その固定観念に捉われない発想は、やはり、気になる。

実際問題として、現代人の世俗的価値観というのは、この大正時代初期の貞操論争と大して進歩していないと思う。なんだかんだいってタテ糸としての伝統的価値観としての貞操観念があり、また、ヨコの糸として「どこそこの国では常識である」という具合の、横からヒョイと拝借してきたような正論に染まる事で理論武装した価値観でしょう。そんな中で、伊藤野江の凶暴な発想というのは、眼前の事実を直接的に見据え、そんな事を言うのは傲慢であるとケンカを売っているのだ。

ダダイズム的な、既成の価値観をゼロと捉え、そのゼロの視点から積み上げ、思い、その思いの丈を言語にして吐き出している、それに気付かされる。

今そこに売春で生計を立てている者がいるのに、それに対して社会通念上、好ましくないから売春を禁止すべきであるという、社会正義の掲げ方というのは、ホントに歓迎されるべきなのかどうか。

因みに、この青山菊枝と伊藤野江とが散らした火花は、伊藤野江が感情的になってしまい投げ出してしまうが、それに対して青山菊枝は、追い打ちをかけて、その論争の勝者となったとみられているという。青山菊枝は論理を最後まで貫徹させたのに対して、伊藤野江は論理的な説明を投げてしまった、という事のよう。


再び、今の時代の思考回路に戻ってきたとして、ヒトを、女性を縛り付けているものは何であろうかと考えてしまいますかねぇ。実は、河合隼雄などを経過しても、ヒトを縛り付けているものというのは「だれだれはこうあるべきものですよ」という、それなんですよね。日本の場合は「母親」というものに対して、「母親とはこうあるべきである」という固定観念が強くあるのは事実であろうと河合隼雄は述べていたと思う。その抑圧が強いが故に、その正しい母親像という世俗的価値観が世の母親たちを締め付け、苦しめているように見える、と。諸外国の母親と比較して、そう感じると。

そうした河合隼雄に代表されるような文脈を経て、眺めてみると、社会通念上の正義というのは、意外と正しくない可能性があるんですよね。母親や女性をテーマに論を進めていますが、これは男性にも勿論、当て嵌まりますよね。「こうあるべきである」という世俗的価値観があるから、それに苦しむ事になるという話だから。

正解を当てに行かれたり、正答を当てに行かれてしまうと、意外と、議論は盛り上がらない。教科書に書かれた通り、学習指導要綱に沿った通りの結論しか導けない。実は、議論が深まらないんですよね…。

売春というのは実際問題として社会から完全に消失するという事は無いというのは真理のような気もするし、それ以上に、貞操観念論争になると、処女か非処女かという問題以外にも、何故、固定観念に縛られたセックス観に縛られなければならないのかという怖ろしい問題を惹き起こしてしまう。伊藤野江の場合は、結婚制度こそが不純であり、自由恋愛型のフリーセックスの方が純粋であるという論旨に到達する。

いや、ここで終わってくれればいいんですが、この伊藤野江の思考回路は更に更に既成の価値観を破壊し、心のままに超越できるとするエゴイストの思考回路なので、性欲に従って何が悪いのかというところまで、その秩序破壊、道徳破壊を展開してしまう。「ヤリタいときにヤリたい相手とヤッて、何が悪いのか」的な挑発的なところまで到達する。


何故、有名人の不倫騒動が起こるとワイドショウは騒ぐのか、何故、当事者は謝罪会見を要求されて、ネット炎上してしまうのか――という問題を考える場合の、ベースにもなり得る話だと思う。

伊藤野江のセックス観は「好きな相手とヤリタイときにヤッて何が悪の? 制度に縛られたり、固定観念に縛られているのはオンドレの方じゃろがい」と噛み付く、秩序破壊の凶暴な思考回路。そういえば、この一夫一婦制の話としてジャレド・ダイアモンドは文化人類学的にヒトは一夫一婦制で正しいと思うぐらいの見解を述べていたと思う。一方で竹内久美子になると生態学的にヒトは乱婚形式の動物であり、一夫一婦制なんてものは虚妄に過ぎないと述べる。一夫一婦制というのは、「正しいと思われているシステム」に過ぎず、実際に一夫一婦制以外の婚姻形式も実在するワケですよね。しかも他の哺乳類と比較してみれば実際にヒトは不義密通もそこそこの割合で発生しながら発展してきた何かである。

性の商品化というのは、ホントはAKB商法なんてのも、結構、当て嵌まりますよね。握手券を売って握手をさせている。パンチラなんてものもある。それを擁護するのに性サービス産業を賤視したりするケースがあるのは何故か。賤視は兎も角、「売春はケシカラン」と一刀両断されるのは何故か。同一人物によって、ですよ。はて、これは程度の問題として思考しているという事なんでしょうかねぇ。法律で禁止されている事のみが根拠であるとしたら中々の法治主義盲信者である事の証拠となる。当然、法律が禁止しているからいけないという事だけの理由なのかと突き返されてしまう。では、公序良俗に対しての加減の差異? しかし、テレビのような公器の中でパンツをチラリと見せる性の商品化は許されるが、密室的な空間で淫靡な事を金銭と引き換えにする性の商品化は許さないという基準の境界線や論拠は示せるんだろうか。どちらも合意を前提にした場合で考えたとして、実は一定レベルの秩序を肯定しないと語る事は不可能な気もしますけどねぇ。

ussyassya at 11:57│Comments(0)TrackBack(0)オトナの話 

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