俳優の石田純一さんは迷言の誉れ高い「不倫は文化だ」と主張したという風に流布している、もしくは流布したいたワケですが、事実関係として、本人は「不倫は文化だ」とは発言していない。しかしながら、延々と「石田純一は不倫は文化だ言った人である」というワイドショウ的な言説が実に20年近くも続いてしまったワケですね。

で、その石田純一さんがなんと週刊新潮に登場。「不倫は文化なのか?」という問題を石田純一さん自身が「特別読物」として語っている。

先ず、事実関係のおさらいからですが、1996年10月に「不倫は文化だ」発言が報じられた。先に亡くなられた平尾昌晃さん主催のチャリティーゴルフ大会での事、折からの不倫問題でワイドショウに追われていた石田さんは芸能記者から追い掛けられていた。そして12番ホールで、或る女性記者からの質問に答えたのが、不倫は文化だ発言の真実であるという。

「でも、やっぱり不倫は許されないですよね」

それに対しての対応が問題発言であった。

「それはあなたのお考えであって、善悪を決めるのは私でもあなたでもないはずです。たしかに、結婚生活を破綻させずにちゃんと成就させている方は尊敬に値します。でも、不倫を完全に否定しまったら、世界からどれだけの芸術が無くなってしまうと思いますか。不倫という恋愛から生まれる音楽や文学もあるじゃないですか。苦しみや葛藤から生まれる文化だってあるんです」

という具合。それが翌日のスポーツニッポン紙では、

牴燭悪い、不倫は文化! 石田純一

とセンセーショナルな見出しで報じられた為、以降、「不倫は文化」という言葉が一人歩きを始め、石田さん本人が発言したものとして、広く解釈されるに到ったのが事実であるという。

その石田純一さんが敢えて、その発言主旨というか持論としている不倫文化論を、今回、週刊新潮誌上で披歴しているのだ。

意外な内容でした。石田純一さんは丹念に事例を列挙している。何をって、不倫から生まれたであろう音楽や文学を。

1.リヒャルト・ワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」

2.アメリカ映画の「イヴの総て」(1950年製作)

3.中上健次の「枯木灘」

4.オペラの名作「ばらの騎士」

5.イタリアのオペラ「イル・トロヴァトーレ」

6.トルストイの「アンナ・カレーニナ」

7.スタンダールの「赤と黒」

8.モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」

といった作品を列挙し、内容が不倫と関係していると述べている。うーん、知らないものだらけだけど、本気度は伝わってきますかねぇ。また、文化論の体裁を取っており、芸術家としてのワーグナーの女性遍歴や、ドビュッシーの演じた不倫にも触れるなど多彩さを披露されていました。(実は週刊新潮は丸々4ページも石田純一さんの解説が掲載されている。)

摘まみ食い的に、石田純一的不倫文化論の論旨を引用します。

今も間違ったことを言ったとは思いません。もちろん、不倫を奨励するわけではないし、しないで済むならそのほうがいい。しかし、道ならぬ恋を成就させようとしてもがくことや、多くの吐息が、芸術作品の生まれるうえでの大きな原動力になっている。

そして、先に列挙した作品の解説や、ワーグナーの女性遍歴などについての解説を経て、結文に向かっている。

不倫の魔力は強力なパワーやインスピレーションになる。不倫は背後に破滅的なものを背負っているがゆえに、決してほめられませんが、不倫を糧に生まれた作品が、誕生して100年、200年たったいまも、ロダンやクローデルの彫刻のように、僕たちに感動を与えてくれているのも事実なのです。

ここのところ、週刊新潮も含めて不倫報道が花盛りです。〜略〜それが正しいとか間違っているとか、ジャッジする物言いには賛成できません。奥さんがいる男性が、ほかにきれいな女性と付き合っていれば、やっかみが生じるのは当然です。ましてや相手が芸能人やアイドルだったら、やっかみは5倍にも10倍にもなる。「不倫男」の代表たる僕としては、それは想定内でした。でも、他人の行為を無暗に裁くのはどうかと思う。

はたして、なんでもかんでも品行方正であるべきでしょうか。その人は偶然が重なるなかで、抗いがたくそういう状況に陥ってしまったのかもしれません。そうした本能のようなものまで否定するのは、人間への冒涜につながりかねないのではないか。そんなふうにも感じるのです。〜後略〜


長文なので全部には触れきれませんでしたが、石田さんは不倫の果てに地獄の業火に焼かれるような悲劇的な結末であるとか、更には略奪した恋であるが故に、また、その最愛の恋人を略奪されるという因果応報的な報いなどにも触れられている。


石田さんの話は思いの外、芸術論であったので私にはフォローし切れませんでしたが、私なりに、そういう事であろうなという部分はありましたかねぇ。【ドラマ】とは、日本語では【劇】であり、すなわち、「ドラマチック」とは「劇的」を意味している。「劇的なもの」を求めたり、それに心を動かさせられるのが人間の本質なんですよね。つまり、劇的ではないものには感動しない。常にガチガチの一番人気の本命馬が実力通りに勝利してばかりであったなら競馬という娯楽も競技も成立しない。偶然性を含めて色々な要素が絡み合って意外な結末になればなるほど、ヒトは、それを「劇的だった!」とか「ドラマチックだった!」という風に感じ、感動するものなんですよね。

「劇的であった!」と、その事象を感じ取っている主格は、実は人間自身である。ドラマとか劇というのは、そうした裏切りや奇跡的な偶然性とか、そういうものの介入によって生まれるものであり、仮に何もかもがシンプルな数式のように当たり前の正解を導くだけのものであったなら、そこに感動というものを見い出せない生き物なのだ。大仰に聞こえるかも知れませんが、これ、真理であろうと思うんですね。人間中心主義で、その主格が人間であるからこそ、劇的であるとかドラマチックという感慨が生じるのであって、確かに誰も彼もが品行方正で決められたレールの上を定刻とおりに進行する機械仕掛けであれば、その正確性から得られる利便性はあるが、きっと人間中心主義が薄らぎ、無味乾燥とした世界になるんじゃなのかなって気がしますからねぇ。

利己的遺伝子論なんてのを経て考えると余計に、そんな風に思うものかも。ヒトは生まれながらに遺伝子によって各種の資質が決定している。あながち出鱈目でもなそうな話である。しかし、そうなってきてしまうと遺伝子の操作技術が確立してしまったときに、模範的な遺伝子から成る模範人間がつくれるようになってしまう。容姿端麗にして頭脳明晰、スポーツ万能。しかし、そういうものを一元的に希求してしまうと、やはり、人間味であるとか、或いは意外性なんていう劇的要素も減少してゆき、翻って個性や多様性なんてものも。。。