2017年09月13日

「中村屋のボース」〜1

中島岳志著『中村屋のボース』(白水社)を読了。複数の書評を目にしていた本だったので、「きっと、そのうち文庫本化になるのだろう」と思って、購入を見送り続けてきた本だったのですが、このたび、古本で入手しました。田代富雄の野球人生を描いた『最後のクジラ』も文庫本化を待っていたところ廃版商品扱いになっていたので古本での購入となりましたが、ハードカバー本だと価格的にも、また、保管場所にも苦慮してしまうなぁ。売れ筋の本じゃないと文庫本にはならないって事かもね。

著者自らが「自分の20代は、この本を書く為に費やしてしまった」と、あとがきで述べていましたが、内容は戦前・戦中に日本にやって来たインド独立運動をしていた革命家であるラース・ビハーリ・ボースという人物に迫っている。

以下、『中村屋のボース』に沿って――。


ビハリ・ボース(生年1886〜1944)は、英領インドで生まれ育ち、15歳の頃から祖国解放というイデオロギーに傾倒してゆき、インド独立運動の中でも急進派と呼ばれるリーダーとなる。1906年頃からベンガル地方ではイギリス人官僚に対しての暴力事件が頻発するようになり、それに対してイギリス側の警戒心が強くなっていた。そんな中、若き活動家たちはインド独立を掲げた秘密結社をつくるなどして、地下活動をしていたが、その中の一人が、このビハリ・ボースであった。

1911年頃、ビハリ・ボースは、宗教的指導者にして哲学者でもあったオーロビンド・ゴーシュ(生年1872〜1955年)の影響を受けたという。これは、ずっとずっと後に関係してくる部分であり、且つ、そこに、どんな思想や哲学が関係していたのかと関係しますが、そちらは後回しとします。

1912年12月23日、この日、は遷都を祝う祭典パレードが執り行われようとしていた。それ以前からイギリス植民地政府はインドの首都をカルカッタからニューデリーへと遷都させる計画を進めており、晴れて、この日、デリー遷都を記念しての街頭パレードを行ない、イギリスの統治が盤石である事を示そうとしていたという。

しかし、そこで事件が起こった。パレードは、一頭目の象には案内係の役人が乗っており、二頭目の象には警護役の兵隊が乗っており、そして三頭目の象には、ハーディング総督が乗っていた。そのようにして現れたハーディング総督に対して、何者かが爆弾を投げつけたという、ハーディング総督爆殺未遂事件が起こったのだ。現場から立ち去った実行犯は二名あり、指示を出したのがビハリ・ボースであった。

斯くして若き革命家ビハリ・ボースは、イギリス当局から追われる身となった。(このハーディング総督とビハリ・ボースの関係は、実話でありながらスリリングに描かれている。)

追われる身となったビハリ・ボースは、インドに残ってインド独立の為に戦いのだという意志が強固であったが、仲間たちは次から次へと捕縛され処刑されるに到った。そうした中で、1915年、ビハリ・ボースは海外脱出を画策し、日本を目指して脱出した。当時の日本は日英同盟の最中の事であった。

日英同盟の関係にあった事から、イギリスから日本の外務省に対してビハリ・ボースの逮捕、引き渡しの要求が出された。しかし、日本国内の様子は少し違い、ビハリ・ボースは葛生能久(くずうよしひさ)、頭山満・内田良平らによって匿われた。

ビハリ・ボースはインドを脱出するにあたり、後にノーベル文学賞をアジア人として初めて受賞する詩人タゴール、そのタゴールの親戚であると装って日本に潜伏していたが、隠れ家にしていたのは、狄圭鼻γ翅鴫悪瓩任△辰拭7抻,睨楹陛にビハリ・ボースを捜し始めた為、頭山や葛生らは隠し通すことに苦慮していたが、「クリームパン」の元祖として知られる中村屋が匿うと申し出ると、妙案だと飛びつき、これ以降、ビハリ・ボースは「中村屋のボース」となる。また、中村屋を経営していた相馬夫妻にしても、官憲に逆らってインド人を匿うという行為が何を意味しているのか充分に承知した上で、そのような対応をしたという。

(余談ながら、新宿・中村屋の沿革としては、1904年で、創業者及びクリームパンを生み出したのは中村萬一夫妻の時代、本郷にあった頃の中村屋である。その中村屋を、そっくり買い取ったのが相馬夫妻で、この相馬夫妻の代になって新宿へ拠点を移し、ビハリ・ボースを匿った。「あんぱん」を生み出したのは木村總本店。)

当初、中村屋はボースの他にもう一人のインド人革命家グプタ―(ヘーランバ・ラール・グプタ―)を匿っていた。このグプターは、大川周明を頼りにしていた人物であり、且つ、大川周明の思想そのものに大きな影響を与えた人物であるという。大川周明の処女作「印度に於ける国民的運動の現状及び其の由来」という書物は、大川がビハリ・ボースやグプターとの交流の中で影響を受けたものと考えられるという。

また、時代は複雑である。ビハリ・ボースは、やはり、この時期に日本に居住していた孫文にも会いに行っているが、孫文は1895年に中国・広州で武装蜂起するも失敗した為に日本へ亡命。その後、2年ほどかけてアメリカやヨーロッパを回ったが1897年に日本に戻り、頭山満、宮崎滔天、寺尾亨、犬養毅らと親交を持つようになり、1911年の辛亥革命によって孫文は中華民国を打ち建てて臨時大大統領になるも、間もなく袁世凱との主導権争いで追い落とされ、1913年12月から日本に居を構えていたのだ。

この頃の日本に、アジア主義、大アジア主義とした思想が芽生え、その発展形としての大東亜共栄圏構想が掲げられるワケですが――。

ussyassya at 13:33│Comments(2)TrackBack(0)歴史関連 

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この記事へのコメント

1. Posted by 雨亭   2017年09月13日 13:40
そう…たしかにこの時期の日本政府は、逃亡者たちに対して「来られても迷惑」で、清朝や英国政府に顔を向けてました。
体を張って革命家たちを匿ったのは民間の右翼と言われる人々なんですよね。
2. Posted by メロンぱんち   2017年09月14日 00:06
雨亭さん>
前レスで【侠】に触れましたが、そういうのって確かに東洋的なのかも知れませんね。アジア主義のくだりなどでは散見できますが近代化、西洋型の近代化を遂げてみると、そういう融通が利かなくなって…

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