2017年09月14日

「中村屋のボース」〜2

1916年2月、イギリス軍艦が日本船である天洋丸に発砲するという天洋丸事件が起こる。この天洋丸事件では乗船していたインド人7名がイギリス当局の手によって強制的に拉致され、シンガポールへと相関されたという。日本外務省は、この天洋丸事件を強く抗議。それまでイギリスは日本に対してビハリ・ボースとグプターの両名に国外退去命令を出すようにと強く要請していた。日本を国外退去になった場合、自動的にイギリス当局が両名を逮捕、処刑するという事を意味していたが、この天洋丸事件の後、イギリスはビハリ・ボースとグプターの国外退去命令を撤回したの意。これによって、日本の警察からビハリ・ボースとグプターは追われる身ではなく、保護される身になった。しかし、以前とイギリスは神経を尖らせていたようで、イギリス大使館は横浜山下町にあった東洋探明社という私立探偵を使用し、ビハリ・ボースらの行動確認を続けたという。

1916年3月、ビハリ・ボースは警察が見繕った家に引っ越す事となり、「中村屋のボース」状態は終わった。インドの革命家が新宿・中村屋の奥にひっそりと隠れて生活していた期間は三月半であった。イギリス大使館から依頼を受けていた私立探偵らがビハリ・ボースの身柄を拘束し、大使館に引き渡す可能性がある事から、依然としてビハリ・ボースの周辺は警戒が必要であったという。ビハリ・ボースは17回もの転居を繰り返したが、その面倒を見ていたのは玄洋社の葛生能久であったという。

また、ビハリ・ボースは、玄洋社メンバーの宮川一貫を通じて、国防問題を取り扱う雑誌「大日本」の主筆をしていた満川亀太郎と知り合ったという。ボースが満川と出会った頃、満川は、まだ大川周明の事を知らず、ボースが大川周明を満川亀太郎に紹介した事が縁となり、満川亀太郎&大川周明によって「老壮会」が発足させられる。

この「老壮会」の名前は右翼団体と紹介されている事があるが、実際には右から左まで、国家主義者、国家社会主義者、農本主義者、無政府主義者らが一堂に集まった国家革新運動の基点となったものとされる。この老壮会という大枠の中には、大川周明が大陸から呼び戻した魔王・北一輝を筆頭に、権藤成卿、堺利彦、下中弥三郎、中野正剛らが集まり、実に35回もの定期会合が1918年まで継続した。内容も濃密で、支那革命、インド独立、アフリカ、バルカン半島などの国際情勢、更には労働問題、更には婦人問題までもを俎上に上げていた。

この老壮会、驚かされるのは、堺利彦のような勢力的に活動していた社会主義者の姿が名前がある事、また、巨魁・大杉栄も会にこそ参加していないが、その妻である堀保子と付き合いのあった柳葉清子、権藤誠子(権藤成卿の実妹)、平塚雷鳥らは老壮会に所属していた。とても長続きするようなメンバーではなかったが、意外と長続きしていた事が確認できる。多くの政治団体が堕落してゆく中で、大川周明の登場と、その大川周明が日本に呼んでしまった北一輝によって、本格的に犢餡罰弯訓親悪瓩硫蠅出てしまったかのようにも観察できる。

国家革新運動としては、この老壮会を敲き台に北一輝と大川周明とが猶存社(北一輝、大川周明、満川亀太郎、安岡正篤ら)を結成し、更に革命気運を育てた。しかし、北一輝と大川周明の仲はギクシャクとしはじめ、1923年に解散。後に発生する五一五事件、ニニ六事件は、この系統の革命思想から生じていると考えられる。

それを念頭に置くと、タゴールの親戚を名乗って日本に脱出してきたインド独立運動の革命家であるビハリ・ボースが果たした役割は、大川周明と満川亀太郎とを繋げたという意味合いでも、日本史の中で大きな役割を演じていたようにも思える。


ビハリ・ボース自身はというと、1920年代にはコツコツとインド独立運動についての言論活動を続けた。以下、ビハリ・ボースの主張を摘まみ食い的に着色文字で――。

白人とは違ひ、亜細亜は決して、その権力と指導権とを濫用することなしに、人類の幸福と増進と、そして不正と暴力に基礎をおくものではなく、万人の正義と権利とに基礎をおく本当の平和を確立するために、それを利用することであらう。

東洋人の政治的、経済的、軍事的勢力が、白人の勢力に対抗し得るに到る時、否、白人の勢力に優る時、正義と真理は自ら其の影を全世界に投ずるであらう。茲に於て初めて国際平和は持ち来たされるのである。而して此の勢力は全く東洋人連盟に其の基礎を置くものである。

我らは、一個人としてわれの解放、内面の革命と共に、亜細亜革命を、また世界革命を来たさねばならぬ。

インドを独立させることが根幹にあるが、それを発展させてアジア主義としている。また、敵として【白人】という単語を使用しているのが確認できますが、他には、より具体的に【アングロサクソン】という言葉も使用されている。それが指し示しているものが、焦点を絞ればイギリス、アメリカであり、少し焦点を絞れば西洋列強の、帝国主義批判である事も読み取れる。

しかし、時代はビハリ・ボースに苛酷な方向へ転がった。第一次大戦中の1915年に、日本が袁世凱政権に対して突き付けた「二十一箇条要求」などは、ビハリ・ボースの目には「これでは日本も西洋型の帝国主義になってしまう」と批判していたが、日本人の手前、遠慮していた。しかし、その後の日本の歴史に歩みというのは、脱亜入欧の歩みであったワケですね。ビハリ・ボースは日本にアジアの盟主となってアジアの解放に進む事を期待していたが、時局としては日本もまた倏篤鮫瓩鯀択した。

孫文の晩年の演説で、次のように述べたという。

「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質も持っています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです」(【干城】は盾と城の意で、つまり、「日本人は西洋的覇権主義の番犬になるのか、それとも東洋の王道を守る武人となるのか、日本国民がよく考えることにかかっていると述べている。)

孫文が当時の日本政府に対しての不満を抱えていたのは歴然ですが、やはり、ビハリ・ボースも同じだったようで、孫文が死去して一年後となる1926年3月、機関紙「月刊日本」で、痛烈な日本批判を掲載したという。

我らの最も遺憾とするところは、声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級諸公にして、猶中国人を侮辱し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は生来、白人に劣るの素質を有するが如くに解すること、これである。従来の支那通なる人々を点検するにここ皆、然り。真に自らを知り、同時にアジアを認識するの士は暁の星の如く実に寥々たるものである。

支那は列強の狂暴なる帝国主義、侵略主義を完全に駆逐することなくして、自我の確立は不可能である。支那の学生、商工会、労働者団、学者団等の民衆運動を目にして、単なる煽動の結果なりと嗤ふを止めよ!


上記は、狎爾鯊腓くしてアジア主義を唱えていた日本の有識階級諸公瓩紡个靴討痢苦言であり、怒りを爆発させたものだという。

ビハリ・ボースは、もっともっと日本が国力を増強させ、「東洋人連盟」のような枠組みの中で、日本がリーダーとなってアジア解放運動を展開してくれることに期待していたという事のよう。

ussyassya at 00:03│Comments(3)TrackBack(0)歴史関連 

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この記事へのコメント

1. Posted by 雨亭   2017年09月14日 01:30
老壮会やビバリ・ホースの言葉は良く解らないなりに琴線に響くものがあります。
無理な妄想であると思いながら、日本にはアジア解放の為に闘って欲しかった。
前に書いたか忘れましたが、祖父の親族は軍医としてインドネシアに赴任。敗戦後、2000人の元日本兵と供にインドネシア独立戦争に医師として参加。亡くなってます。
現地の英雄墓地に埋葬されてます。
参加した日本兵の1000人が当地で亡くなられていますが、戦後に日本政府は独立後に残留した元日本兵にかなり冷たく当たったようですね。休暇を取り、墓参に赴いた事があるのですが、日本軍人の墓の区域は解ってるのですが、個々の墓までは独立後の混乱で、
個人名の管理は徹底できなかった事があり、
ほぼ「この中のどれか」までしか特定できなかったです。
その時に通訳兼ガイドに雇った学生と、その兄のタクシー運転手が、諦めかける私を何度も励まして一緒に墓地を探してくれました。
最期に解る範囲だけ特定し、そこで他の英霊と供に祈りました時に、彼らはムスリム流で
祈ってくれた。
「私らの国の独立の為に亡くなられたのだから」と。別に戦前の日本を美化する気持ちは有りませんが、アジア主義。アジアの解放というの理想の欠片が、倒れた人達の胸にあったと思っています。
2. Posted by 雨亭   2017年09月14日 01:47
とはいえ…アジア共同体みたいのは難しいとは思いますね。インドネシアがモロにイスラム教国ですが、東チモールであれ、現在進行形のミンダナオ島、ミャンマーのロヒンギヤ問題まで、宗教がバラバラ。
EUのようなキリスト教というマザーボードもない。辿ってきた歴史も個々に違いすぎる。経済と安全保障という実利以外では結び付きようがないと思うのですね。
子供の頃に石ノ森章太郎氏の「ハリマオ」を読みましたが、長じてから知ったのですが、
ハリマオ=谷豊氏もムスリムでした。なのでマラリアで死亡した時に、日本軍に遺体を引き渡し事を手下が拒否して、ムスリムとして葬った為に今では墓が解らぬそうです。
彼が家族と供に帰国せず、当地で盗賊となったのもムスリムだからで。ドロップアウトふる原因となった妹惨殺事件も、ようは華橋と日本人の争いがあり、そこに華橋も西欧の殖民地主義も嫌いなムスリムという因子が加わったからと聞きます。
アジアは実利はともかく、精神的、文化な部分で紐絆するのは難しいのではないでしょうか?
3. Posted by メロンぱんち   2017年09月14日 09:56
雨亭さん>
マザーボードがないという問題は、そうかも知れませんね。当時は西洋列強に対しての敵愾心がアジア主義を生み出していたのかも知れませんが、脱亜入欧で片付けてしまいましたが、西郷隆盛で征韓論だし、福沢諭吉でも文明度が高いのが西洋で、日本は中間ぐらい、それ以外のアジア諸国は低いと分析していたところから近代が始まっていたように思います。

ただ、後述すると、このビハリ・ボースは、亜細亜が精神文化によって西洋の物質文化を駆逐して、次の世界秩序をつくべきだとまで展開させていて、「ああ、この時代には、ホントにそこまで語り合われていたのだなぁ」と驚かされました。西洋にはないものが東洋にはあるという考え方ですね。しかし、このビハリ・ボースはガンジーを宗教的指導者として尊敬するが政治家としては評価しない等の態度も取っていますね。出身が急進派なので、銃を取らないで戦える筈がないという革命家らしい一面もあったりして。

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