2017年09月14日

「中村屋のボース」〜3

1926年8月、第一回全亜細亜民族会議が開催される。主催した全亜細亜協会は政友会幹事長の岩崎勲らによって発足した協会であり、即ち、これは現役の代議士らが狒完〆抂´瓩箸い事を念頭に置いて結成したものであった。その全亜細亜協会が主催した会議が第一回全亜細亜民族会議の意。

全亜細亜協会の設立主旨は「西洋列強の帝国主義の打破とアジアの復興」がメインテーマであった。そこには

「全人類の共存共栄、是れぞ我等人類の究極の理想であります」

或いは

「九億の全亜細亜の天地をして人類共栄の理想郷たらしむ」

等の文言もあった。この会議の開催にビハリ・ボースは精力的に取り組み、晴れて1926年8月に第一回会議が実現した。

しかし、会議は初日から紛糾した。中国代表団から「二十一箇条要求の撤廃を決議すべきだ」という発議が行なわれたのだ。現役代議士らは難色を示した。この全亜細亜協会は有志の代議士らが主催している会議であり、必ずしも日本政府が公的に関与している会議ではなかったので、受け容れようがなかったというのが実情であったよう。(また、著者の中島岳志氏にしても、予め中国代表団による戦略であったと考えるべきだという見解をつけている。)

一日目の会議が頓挫した事から、その晩から日本代表団は中国代表団との折衝を続けたが、主張は平行線をたどり、日本側代表の代議士4名は匙を投げる方向へ傾いた。夜明け近く、午前4時過ぎには日本代表も中国代表も、互いに会議への不参加、脱退をするという、完全に決裂の方向へ傾いたという。しかし、ここでビハリ・ボースが必死の調停に乗り出し、二十一箇条要求撤廃を盛り込んだ決議を、同会議として発表することで決着した。

二日目の会議は一般傍聴を禁止するという措置が取られた。ビハリ・ボースが議長となったこともあって会議は二十一箇条要求を巡る緊張こそあったものの、なんとか無難に進行した。しかし、最終日となる三日目に、波乱が起こった。朝鮮代表として李東雨と姜世馨の二氏を招待していたが、「双方のうち、どちらが真の朝鮮の代表なのか」という問題が起こり、主催者は姜の出席を見合わせるという裁定をしていた。それに檄した姜が大阪の全韓国人連盟会長を伴って抗議を展開し、会議の運営にあたっていた日本人代議士の今里準太郎の胸倉に掴みかかって抗議するという事態に発展。(ああ、なんとなく、想像できてしまう光景かも…。)

ビハリ・ボースが仲裁に入り、最終的には姜世馨を除名するという決定を下した。中々、複雑な問題があったという。初期の段階では、全亜細亜民族会議は朝鮮代表団の枠を設けて居なかった。しかし、民族という単位で全亜細亜民族の会議をするというのであれば、朝鮮民族を固有の民族として扱うべきだという批判が「朝鮮日報」で報じられた。その後に今里らが朝鮮で参政権運動をしていた国民協会所属の李東雨をピックアップしたものであったが、朝鮮では「日本政府に協力的な朝鮮人が朝鮮代表になってしまっている」と猛烈な不満の世論が朝鮮半島にはあったという。

波乱の幕切れとなった全亜細亜民族会議はビハリ・ボースらの裁定が行なわれた。フィリピンやアフガニスタン、トルコ、イラク、ペルシャ、中華民国からは理事及び功労者が選出されたが、朝鮮の名前は除外されている。

更に、もう一つ、この第一回全亜細亜民族会議にはサプライズがあったという。傍聴席から一人のモーニング姿の紳士が壇上に現われ、演説を始めた。会場は何事が起ったのかと、どよめきに包まれたが、直ぐに拍手喝采に変わったという。

壇上に現われた謎の紳士の正体は、フランス統治下のベトナム代表のフエレバー・ロイであった。このロイは元々は日本に留学しながら祖国解放運動をしていた人物であったが、1908年に締結した日仏条約の為に日本居留が認められなくなり、ベトナムに帰国させられた人物であった。その為に主催者側はフエレバー・ロイの参加は難しいと判断し、招待することを遠慮していたのだ。しかし、昔の知人が「今度、日本で全亜細亜民族会議が開催される」という知らせをロイにした為に、ロイは、どうしても参加したいと考え、はるばる海を渡って、再び日本に舞い戻ってきたのだ。

どよめきの中、登場したフレエバ―・ロイは

「安南(ベトナム)は多年保護政府の横暴手段に苦しめられたが、(現在も)獣形的文明人の圧迫を受けつつあり、諸君には既に安南(べとなむ)のこの苦しい立場を諒解して貰へることと思ふ」

と、演説したという。当時の大阪朝日新聞によれば、このロイは広東の隠れ家から香港、上海を経由して日本にやってきたらしく、身の危険を冒しての来日であったという。また、その演説を終えると直ぐにロイは姿を消して帰国の途についたというから、まさしく命懸けのサプライズ演説であったらしく、ロイが姿を消してからも、しばらく場内はどよめきが続いたという。

また、二十一箇条要求の撤廃について、日本側は「不平等条約の廃止に努力をする」というニュアンスで何とか乗り切ったという。それでも場内からは「日支間、何の不平等条約があるか!」という怒号が飛び、その怒号に中国代表らが怪訝な顔をするなどする光景があったという。

一つにまとまることが出来ぬアジア。しかし、心情という部分では、一つにまとまろうとしていた何かも感じ取れますかねぇ。

ussyassya at 11:51│Comments(4)TrackBack(0)歴史関連 

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この記事へのコメント

1. Posted by 雨亭   2017年09月14日 16:38
この会議1926年とありますね。てことは…
孫文死去の翌年で、
南京に国民政府が生まれる前年。

26年は第一次国共合作で蒋介石が第一次北伐を開始してる。軍閥時代末期。
北京政府は軍閥有力者(段なんとか)が実権を争っていて、もうまともな政府じゃない!
張作霖は直隷派を制し、奉天軍閥の頭に過ぎぬ彼が中華民国総統?を自称した。
ある意味で三大軍閥の抗争に決着がつき、北伐により軍閥割拠時代が終焉する過渡期?
国共合作で北伐開始とはいえ、未だ南京にきちんとした政権が成立してない!
張作霖を初めとする軍閥も、彼らへ北伐を開始した蒋介石も日本軍の出方にピリピリしていた。東三省に関東軍、北京に太平天国乱いらいの駐屯軍を日本橋持つから!
このデリケートな時期に、日本を逆撫でするような21ヶ条拒否を言い出すのってバカなのか頭数でっかちとしか思えない。ほんとうに中国を代表していたのですか?
2. Posted by 雨亭   2017年09月14日 16:46
割と軍閥時代の中国史は好きなのきです。マイナーですけど。歴史がもう冒険小説そのものでしょう(笑)
雨亭は実は張作霖の字(あざな)から取ったハンドルネームでして。
しかし北京政府と張作霖(直隷派は既に第二次奉直戦争で瓦解している)、北伐を指揮する蒋介石と南京。いずれも日本軍介入を怖れているはずで、この時期に日本を怒らせる言葉は避けると思うのですが。
3. Posted by 雨亭   2017年09月14日 17:08
まとめ)
朧気な記憶で悪いのですが…
三大軍閥とは安徽派、直隷派、奉天派。

直隷派を張作霖が倒し、安徽派が北京から張作霖を追い出していた。張作霖は東北で勝手に民国の総統を名乗る!
こうした軍閥時代を終焉させる為に、国共合作して蒋介石が北伐を開始する。
軟禁の亡命政権はまとまりがない。
↑の状況説明で正解なら、ゲームを御破算しかねないジョーカーは「日本軍」。
北京、南京、奉天…どこから考えても、敵正面である軍閥(または北伐軍)を撃退するまでは、正面から日本を逆撫でするとは思えないんですよね。てことは、底に何らかの勢力と政治的な意図があったと思うのですね。
理想だけでモノを申すほど、中国人はウブな民族じゃありませんよ。孫子の国ですから。


4. Posted by メロンぱんち   2017年09月14日 23:39
雨亭さん>
この軍閥時代の中国史、物凄く厄介ですよね。どういう勢力がどういう風に動いたのか目まぐるしく…。

中国の代表団は、今里準太郎が実際に中国に渡って探して来た相手なのですが、公的な権限があった代表団ではないと記されています。中国代表団は「亜細亜民族大同盟」なる組織であったそうです。

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