◆ロシア革命前史〜イワン雷帝からピョートル大帝まで

トロツキーは、「(ロシアとは)ローマ文化の廃墟に住みついた西の蛮族」が作り出した国であるという。トロツキーの言うところの「西の蛮族」が東方の草原地帯の遊牧民と、タタールやビザンチウムと戦いや交易を繰り広げながら長い年月を重ね、16世紀に【雷帝】こと、イワン4世が残忍さを伴う強烈な力で北へ東へと領土を拡大し、全ロシアの皇帝(ツァーリ)となった。イワン4世(生年1530〜1584年)を特に猴訥覘瓩半里垢襦

東ローマ帝国の継承者を名乗ったのはイワン3世であるが、領土を拡大し、且つ、他の大貴族を恐怖政治によって抑え付け、特別に強大な君主を意味する【ツァーリ】もしくは【ツァー】というロシア特有の皇帝の称号を始めた名乗ったのも、このイワン4世である。

この雷帝没後、大ロシアは王朝同士が激しく争い合い、西暦1613年に貴族とローマ正教会の聖職者たちは、ミハイル・ロマノフをツァーリに選出した。これが1917年まで、300年以上も継続するロマノフ王朝であり、政治体制を踏まえた呼称は、帝政ロシアとなる。

ツァーリ(皇帝)の中にはイワン雷帝の他にも、一人だけ、重視されるツァーリが在る。それがピョートル1世であり、このピョートル1世がピョートル大帝(生年1672〜1725年)と呼ばれる。

ピョートル大帝は1682年に即位、1696年にトルコからアゾフ地方を奪い取り、その後も西欧文明の摂取に努めるという方針を採って、バルト海沿岸、カスピ海沿岸にも領土を拡張する。

ピョートル大帝は正教両面での首長となり、中央政府に元老院を置いて行政を監督させ、科学アカデミーを設置するなどしてロシアを一気に西欧化させた人物である。

そのピョートル大帝の功績の一つに、魔都サンクト・ペテルブルクの建設を挙げることが出来る。サンクト・ぺテルグルクは、ペテルブルクとも略されるロシア北西部にある都市で、現在のロシアの版図に於いてもモスクワに次ぐロシア第二の都市である。位置はバルト海の支湾、フィンランド湾の湾奥に流入するネバ川河口の三角州に位置する。

この魔都サンクト・ペテルブルクは、1703年にピョートル大帝がネバ川右岸にペトロパブロフスク要塞を築いたの事に始まる。元々はスウェーデン帝国の領土であったが、大北方戦争にでロシアが奪い取った土地であった。ピョートル大帝は、その地を狹圻瓩板蠅瓠▲團隋璽肇訛臘觴らの守護聖人の名に因んで、その地をサンクト・ペテルブルクと命名した――。

そのサンクト・ペテルブルクは、1712年より、モスクワに代わって帝政ロシアの首都となる。1914年からはロシア語読みのペトログラードとなり、1924年になるとソビエト連邦を創造した男・レーニンに因んでレニングラードに改称され、1991年のソビエト崩壊に伴い、旧称のサンクト・ペテルブルクという呼称が復活、正式に改称される。

ドフトエフスキーはサンクト・ペテルブルクを「地球上で最も抽象的で人工的な都市」と云ったという。ピョートル大帝は、スウェーデンの襲来に備えて要塞を建設したのが事実であり、史実としてはスウェーデンの襲来は起こらず、確かに、最も抽象的な存在である。また、現在もエルミタージュ美術館がサンクト・ペテルブルクに在するように街の設計は慎みのあるバロック様式にして壮麗と評され、実際に人工的な街なのだという。スラヴ的後進性を取り返さんと発想したピョートル大帝は技術の粋を結集してサンクト・ペテルブルクの建設を命じた。

(このスラブ的後進性の克服は、ロシアにとっては宿命であり、19世紀末に始まるシベリア鉄道の敷設は「万里の長城以来の大事業」と呼ばれるほど大掛かりな事業が行なわれる事と関係している。)

そのサンクト・ペテルブルクの建設には何十万人もの農奴や懲役囚に強制労働が課され、実際にばたばたと死んでいったという。その為、サンクト・ペテルブルクの地下には10万の人の死体が埋まっているとされる。或る者は、サンクト・ペテルブルクを「骨の上に建てられた街」と呼ぶという。

まさしく、その地は魔都であり、第二次大戦中には1941年から1944年にかけての29ヶ月間、このレニングラードはナチスドイツ軍に包囲され、激しい戦闘が展開されたが最後の最後まで魔都レニングラードは陥落するは無かった。

その魔の都こそが、ロシア革命の舞台ともなっている。


いやいや、ロシア革命の話というのは、ホントに神話と歴史の間ですかねぇ。幻想の話ようでいて、幻想ではない。ロシア革命そのものが叙事詩なのだ。