◆「解放皇帝」暗殺事件

ザスーリチによるペテルブルク警察署長暗殺未遂事件の後、ナロードニキ及び結社「土地と自由」ではテロ行為の是非を巡って穏健派と急進派の対立が明確になってくる。急進派は帝政打倒の為のテロを頻発させるようになる。

1879年にソロビヨフによる皇帝暗殺未遂事件が発生。

皇帝暗殺事件を受けて、「土地と自由」から「人民の意志」が分派する。穏健派が「土地と自由」であり、急進派が「人民の意志」である。この頃から【結社】ではなく、「土地と自由(党)」、「人民の意志(党)」という【党】という記述が増えてゆく。この頃より中央執行委員会による決定が絶対視されるような集権体制となり、故に【党】という風に記述されていると推定。

分派後も、人民の意志(党)によるテロ事件として、1879年11月、皇帝列車に爆薬を仕掛けられる。

そして、1881年3月を迎える。

テロリストたちの標的となったのは、農奴解放に踏み切った事から「解放皇帝」の異名も持つ、皇帝アレクサンドル二世(生年1818〜1881年/在位1855〜1881年)であった。

このアレクサンドル2世は、農奴解放を実行したように必ずしも圧政を布いていた訳ではなかった。父ニコライ1世がクリミヤ戦争で敗北、絶望のうちに急死したのを受けて1855年に即位。即位後の1856年にはパリ講和条約で戦争の後始末をし、国内改革に取り掛かった。その大きな目玉の一つが1861年の農奴解放と、【ゼムストボ】と呼ばれる地方自治組織を設置しての上からの行政改革であった。しかし、それは「上からの改革」であり、「中央集権ツァーリズムが、その上からの目線で地方に課した行政改革」であった為に、より行政組織や地主階級との間での癒着が巧妙化し、結局は民衆の不満を逆に高めることになってしまったという。

1881年3月の第一日曜日、皇帝は馬車に乗ってペテルブルクの乗馬学校へ向かっていた。その途中、群衆を掻き分けるようにして、人民の意志党の若き活動家ニコライ・ルイサコフが現われ、ハンカチに包んだ爆弾を皇帝の馬車へと投げつけた。激しい爆発であったらしく、見物人たちの中にも負傷者があり、また、不意の爆発によって大きな悲鳴が一帯に響き渡った。

皇帝を乗せた馬車はよろよろと停車し、その馬車から、皇帝アレクサンドル2世が、やはり、よろよろと姿を現した。人民の意志党の若きテロリストたちは入念であった。今度は、ルイサコフの同志でのイグナツィ・フリニェヴィツキが二個目となる爆弾を皇帝アレクサンドル2世に投げつけた。

再びの大爆発。雪煙の中に、残骸と血が飛び散った。皇帝アレクサンドル2世は、衣服、肩章、サーベルの断片、それと、血まみれの肉塊とになっていた。

この皇帝暗殺が、ナロードニキ運動の最盛期とされる。皇帝の暗殺に成功したものの、それは急進派の勝利とはならなかった。何故なら、アレクサンドル2世の暗殺を受けて新皇帝になったアレクサンドル3世は、苛烈な政治体制を敷き、人民の意志党員らに対しても処刑にするなどの徹底した対抗措置をとった為であった。新皇帝アレクサンドル3世は、ロシアにあった【オフラナ】と呼ばれる政治警察を再編成し、苛烈な弾圧を行なったという。

【ポグロム】と呼ばれるユダヤ人を標的とした組織的な暴動と殺戮が起こったという。少数民族であるユダヤ人に対しては伝統的に差別的な扱いがロシアにはあり、居住区が法律的に制限されていた等の下地があったが、何か国家の危機のような出来事が発生すると、何もかもをユダヤ人の仕業にしようとする屈折が世俗社会と統治体制との間にあったという。平たく言えば、ガス抜きの為のスケープゴートにされていたのがユダヤ人であり、不都合があれば、なにもかもをユダヤ人の所為だという風に片付けようとするものであるという。


そんな新皇帝アレクサンドル3世に対しても、尚も、襲撃計画を練ったナロードニキ分子があった。

1887年3月、ペテルブルク警察は新皇帝暗殺を画策していたとして5名の学生活動家を逮捕、最終的に絞首刑に処した。

その処刑された5人の学生の中にアレクサンドル・ウリヤノフという一人の学生が在った。そのアレクサンドル・ウリヤノフには弟があり、その弟の名はウラジーミル・ウリヤノフと云った。

ウラジーミル・ウリヤノフ。

ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。

その名は、レーニンの本名であった。

レーニンの誕生年は1870年なので、この実兄が処刑された1887年にレーニンは16〜17歳であったことになる。レーニンはというと、17歳の頃から革命運動に参加するようになったとされる。

ウラジミール・イリイチ・レーニン(1870〜1924)