◆ニコライ皇太子の憂鬱〜大津事件編

新たに即位した皇帝アレクサンドル3世の時世は、ロシアにとって資本主義への移行期であり、目玉になっていたのは、インフラ整備、その中でも群を抜いて大きな事業はシベリアを横断する鉄道、即ちシベリア鉄道の敷設であった。

アレクサンドル3世の長男はニコライ・アレクサンドロヴィッチであり、ニコライ皇太子であった。このニコライ皇太子は、1891年4月、訪日している。訪日した理由はシベリア鉄道の起工式に出席するにあたり、ギリシャのジョージ親王を伴って国賓として来遊したものであった。

1891年4月21日に長崎に来遊し、鹿児島を経由して神戸を経て、5月9日に京都に到着。同月11日からは接待の責任者であった有栖川宮親王がニコライ露皇太子とジョージ希親王を滋賀県の三井寺に案内するという日程をこなしていた。

滋賀県庁に立ち寄って京都の旅館へ戻る行程で、ニコライ皇太子に、また、当時の日本政府にとって、信じられない出来事が起こってしまう。世に言う、大津事件が発生したのだ。

沿道を警備していた警察官の一人、津田三蔵巡査が乱心。突如として、腰に差していたサーベルを抜いて、人力車に乗っていたニコライ皇太子に斬り掛かるという衝撃的な事件が発生した。

警備体制としては8メートル置きに警官を配置し、沿道の警備にあたっていたが、津田巡査を制止できる警官はなく、津田巡査はサーベルを両手で上段に振り上げて、車上のニコライ皇太子の頭部にサーベルで二度も斬りつけたのだ。ニコライ皇太子は咄嗟に人力車を降りて、人力車の左後方へと逃げた。津田巡査は尚もニコライ皇太子を襲撃せんと追い掛ける素振りを見せたが、車夫と、後続の人力車に乗っていたジョージ親王とが、果敢にも乱心者・津田を制止に入った。ジョージ親王は勇敢にも携帯していた竹鞭で津田を叩き、また、人力車の車夫は津田のサーベルを奪い取り、そのまま津田の首筋と背中とを斬りつける形で、津田三蔵を捕縛した――という。

日本の明治政府は事態に激しく動揺したという。ニコライ皇太子の怪我は命に別状のある状態ではなかったが、国賓として招致した皇太子に警察官が斬り掛かったというのは覆しようのない事実であり、ロシア政府に対して申し開きに苦慮するという事態に陥ったという。(「これは戦争になってしまう」とホントに大慌てするような大事件であったという。)

しかし、当のニコライ皇太子の傷の程度は不明ながら、当時の目撃者証言によると、負傷後にも人力車の車上で、巻煙草を吹かしていた姿が目撃されており、動揺した様子や、激怒している様子は確認できなかったという。

日本中が大津事件でテンテコマイになるが、実はニコライ皇太子は「表情の乏しい人物/感情の起伏に乏しい人物」という評がある。ニコライ皇太子は幼少期から父のアレクサンドル3世から、虐待まがいの厳格な教育を受けていたので、感情を顕わにしないタイプの人物だったらしいのだ。

事件の翌日には明治天皇自らがニコライ皇太子の御見舞いの為に京都へ行幸し、接待の責任者であった有栖川宮は「謝罪使」としてロシアに赴いたという大騒動であった。

外交上の理由から日本政府は、津田三蔵を日本皇族に対しての謀殺未遂と同じように大逆罪として裁き、死刑にし、それでロシア政府からの報復を回避したい、或いは日本政府側としての謝罪するにあたっての申し開きの手土産にしたいという意向があった。その為、明治政府は司法に政治的圧力をかけた。しかし、この大津事件は司法関係者、特に大審院長の児島惟謙(こじまいけん)が、司法の独立を強く打ち出し、政治的圧力を排除して、注目された臨時法廷では通常の刑に適用される謀殺未遂罪とした。(法曹関係者の間では、この大津事件は司法の独立が守られた事例として、重視されているという。)

この大津事件は中谷陽二著『精神鑑定の事件史』(中公新書)で詳しく取り上げられている。津田自身は供述として「戦争の下見をしているのだと思い込み、愛国心に駆られてやった」としている。当時の日本には、ロシアの皇太子が戦争の下見で来日するらしいという風聞が実際に有った事から一定の整合性を持っている。しかし、実は津田巡査には斬り掛かった瞬間や、後に自分が取り押さえられた状況の記憶がすっぽりと抜け落ちており、典型的な猴霓喚瓩任△辰燭箸靴討い襦E時の日本人には【ゼノフォビア】(外人恐怖症)があり、体躯が大きく容貌も異なる異国人が意味もなく斬りつけられる事件が他にも在ったことを指摘している。また、緊張が頂点に達したときに自制心を喪失するという何某かの精神疾患の可能性が見えると言及している。

つまり、津田三蔵は「愛国心に駆られてやった。自刃したい」と供述していたが、そうなっているのは、元薩摩藩士であった自分や自分の身内の名誉の為にそう述べているのであり、愛国心云々も影響はしていただろうが、実際には精神疾患からくる乱心(何しろ、本人に記憶がないのだ)だったであろう事を指摘している。

幸いにも、大津事件は大事になることなく、日本政府はロシア政府から法外な賠償を求められるような事態には到らなかった。しかし、このニコライ皇太子がアレクサンドル3世の次のロシア皇帝である。

アレクサンドル3世は思いの外、早世で在位期間は13年間、西暦1894年に自然死で没し、ニコライ2世がロマノフ王朝最後の皇帝となり、日本とロシアとの間では日露戦争が起こる。