◆ニコライ2世の憂鬱〜怪僧ラスプーチン編

アレクサンドル3世の外交政策は当初はドイツ、オーストリアと三帝同盟と呼ばれる同盟関係を構築するが、後にフランスへと接近していき、1891年から1894年の間は露仏同盟を結んでいる。その間に、皇太子のニコライ・アレクサンドロヴィッチに、インド、中国、そして日本を歴訪させていたという事になる。(大津事件は1891年である。)

ニコライ2世は1894年、父のアレクサンドル3世の急逝後に急いで婚姻し、后を迎えた。后となったのはドイツ帝国の領邦国(半自立国)であったヘッセン大公国の大公の末娘のアレクサンドラ・フョードロヴナ、通称アリックスであった。アリックスは血統的には英ヴィクトリア女王の孫娘にあたり、幼少期から英ヴィクトリア女王の元で育ったという血筋であった。

ニコライ二世とアリックスとの間には、4人の娘と1人の息子が誕生した。息子はアレクセイといい、次代のロマノフ王朝の継承者となる事が期待された。しかし、一人息子のアレクセイは血友病に罹患しており、それがニコライ2世を憂鬱にさせていた。アリックスはというと、更に憂鬱になっていた。

そんな中、ロシア史の隙間に登場したのが、怪僧ラスプーチン(生年1864/1865〜1916年)であった。ラスプーチンはシベリア地方の農民の子として生まれ、キリスト教の一分派であるという「鞭打ち教」に加わり、放蕩を尽した人物であるという。1902年頃から「聖僧」、「預言者」と噂されるようになり、1904年頃からペテルブルクの社交界に顔を出すようになったという。その後、皇太子アレクセイの血友病に悩んでいたアリックス皇后に近づいた。アレクセイ皇太子は出血すると出血が止まらなくなるという症状を抱えていたが、ラスプーチンは催眠療法らしきものを施して、アレクセイ皇太子の出血を何度か止めてみせたという。

やがて、アリックス皇后はラスプーチンに深く心酔するようになり、また、ニコライ2世もラスプーチンを心酔するようになったという。


◆マルクス思想の伝播

ニコライ2世が皇帝に即位した後も国内情勢は不満が蓄積してゆく。外交策として帝国主義路線に舵を切っていた。それはロシアに限った事ではなかったが西洋諸国の間で植民地主義が競い合われていた時代であった。それらは飢饉とも重なって、少数派の犠牲の上に実現している帝国主義的繁栄として人々の目に映り出していた。よって、この機のイデオロギーは、単純に社会主義思想の盛り上がりだけではなく、民族主義者をも含めたものとなってゆく。ナロードニキ運動にしても、農奴解放思想からスタートしており、実は犲民族中心主義瓩般接に関係している。で、これは国家という統治機構を持ち上げる牋国主義瓩箸六ているが実は本質的な差異がある。

ロシアに起こったナロードニキ運動は徐々に進化してゆく。

1901年、社会改革党(通称エスエル)が発足する。このエスエルは【SR】と表記して「エスエル」と読む。このエスエルはナロードニキ思想の伝統を継承して誕生した政党であり、農民労働者階級を中心に形成され、そこに急進的な学生、更には急進的なインテリゲンチャが参加していた。急進派と穏健派とに分派し、急進派が「人民の意志」、穏健派が「土地と自由」になっていたが、このエスエルの中核となる政治理念は倏清伴匆饉腟銑瓩任△辰拭L渭澄△なりの急進派である。(政治思想、理念としては明らかにマルクス主義ではないが、当事者たちの中にはマルクス主義のつもりである者も含まれていたという。)


ロシアのマルクス主義者たちは――実兄を処刑されたウラジーミル・ウリヤノフこと、レーニンはというと、既に闘争の火花を散らしていた。

先ず、ナロードニキの急進的な動きに嫌気を指していたプレハーノフが、1880年にロシアを脱出。1882年(一説に1883年)、スイスはジュネーブでザスーリチと共に労働解放団を結成。この労働解放団はマルクス&エンゲルスの翻訳を手掛け、またマルクスやエンゲルスとも交信を取るようになり、ロシア・マルクス主義の先駆的存在とになっていた。


1895年、ロシア国内都市、モスクワ、キエフ、エカテリノスラフ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、そしてペテルブルクといった各都市で、労働者階級解放闘争同盟(余りにも長いので労働者解放同盟に略されている場合が多い。)が立ち上がった。立ち上げたのは、熱意溢れる二人の若者であった。

一人はユダヤ系ロシア人のユーリー・ツェデルバウムで、もう一人はウラジーミル・ウリヤノフ。これは、順番通りに並べると「マルトフ」と「レーニン」の二人である。マルトフ、或いはレーニンといった呼称は元々はペンネームだという。この時代、政治活動をするにはペンネームが必須だったのだ。

マルトフ(1873〜1923)はコンスタンチノープル生まれ。大物ユダヤ人出版社の孫という素姓を持ち、学生時代からペテルブルクの革命運動に参加。1890年代にユダヤ系社会主義政党ブントの立ち上げの中心的役割を果たしたという。また、このマルトフは1893〜1895年まではシベリアに流刑されている。そのマルトフと一緒に労働者解放同盟を各地につくったのが、かのレーニンであった。

また、この1895年、プレハーノフはレーニンと初めて出会う。

レーニンの方はというと、1897〜1900年までの間、シベリア流刑に遭っている。

レーニンが流刑中の1898年、マルトフ、そしてプレハーノフ、流刑地のレーニンまでもが参加する形で、ロシア社会民主労働党を創設する。

1902年、ロンドンにてレオン・トロツキーがレーニンと初めて出会う。このトロツキーはロシア社会民主労働党に属することなく、反戦派の社会主義者の集まりに参加していた。また、このトロツキーも1900年からシベリア流刑を食らっていたが、1902年に脱走し、ロンドンのレーニンに会いに行った。「トロツキー」は通称だが、これはペンネームではなく、この脱走したときに名乗る偽名が必要となり、咄嗟に看守の名前「トロツキー」を使用した事により、以降、トロツキーが通称となる。

レーニンはトロツキーにロンドン市内の案内をするなどしている。レーニンはトロツキーの高い能力に魅了され、ロシア社会民主労働党の機関紙「イスクラ」の編集に加えたがるが、その要求はプレハーノフによって断られてしまう。(この機関紙「イスクラ」は「火花」の意で、この党機関紙は大きな影響力を持っていたとされる。)

このロシア社会民主労働党こそが後のソビエト共産党の母体となっている。しかし、このロシア社会民主労働党も、1903年、レーニンのボルシェビキと、マルトフのメンシェビキとに分派してゆく。


(ようやく、プレハーノフ、ザスーリチ、レーニン、マルトフ、トロツキーといった面々が出揃いました。よくよく主張を並べてみると純正マルクス主義、もしくは王道としてのマルクス主義はプレハーノフあたりで、レーニン&トロツキーの方には、ややトリックスター的な立ち位置に見えますかねぇ。)


急に登場人物が増えましたが、マルトフは、本名をユーリー・オシポヴィッチ・ツェデルバウムという。静かなカフェが好きで入り浸っていたといい、よく喋る人物であったが演説はからっきし苦手であったという。人に好かれ、また、組織内で起こる陰謀めいた覇権争いとは無縁で、いつも、労働者のような疲れた服装を着ていたという。ひょろりとした体系で、鼻眼鏡がトレードマーク。

レーニンは、若禿げで、子供好き、猫好き、大声で笑うといった情報が差し障りのないところでしょうが、実際には「会う人誰もが魅了されてしまう人物」であったという。

ジャイルズ・ミルトン著・築地誠子訳『レーニン対イギリス秘密情報部』(原書房)では、MI−6の前身であるイギリス情報部がレーニンを調べていたメモが明かされている。それによると、

「人並み以下の身長に、短剣のような細い目をした醜い禿げの男は、何とも形容しがたい、尊大な主人のような眼差しで集まっていた人々を見た」

「アジア人の風貌をした小男で」


といったような具合で、特異なカリスマ性を持った人物であることが逆に読み取れてしまう。そんなに長身ではなく、禿げ頭。アジア人のような、また、短剣のような細い目。また、特徴的な尖った顎。しかし、そんなレーニンは、群衆を熱狂に包んでしまう不思議な、カリスマ性を持っていた。

メモは続けて、

「一言も発しないうちに、この見るからに貧相な小男は、これまでに聴衆が経験したこともないような方法で自分の存在を印象づけたのである」

「この男の正体が何であれ、私は彼が超人や怪物のように見えた」

「あたりには怖ろしい不吉な気配が漂っていたが、人々は彼に魅了されていた」


敵対関係にあったイギリス人スパイからしても、レーニンとは、そのように見えたという事なのだ。

レーニンは、活字や演説では人々を圧倒して釘付けにしてしまう、不思議な力があったという。内気ところがあるが陽気で、よく大声で笑う。怪物的であり、悪魔的であり、崇拝者からすると「神の如き天才」となる。そして、血や骨の髄に到るまで政治の事以外には何もないような人物であった――と。


最後にトロツキー。本名はレフ・ダヴィドヴィッチ・ブロンシュタインで、ユダヤ人農家の出身である。容姿も非常に特徴的で、モジャモジャ頭にモジャモジャの髭がトレードマーク。気難しいところがあったのか、知識に関しては頑固であり、短気であり、威張って見えるような事があったという。また、空気が読めなかったのか、熱心なマルクス主義者の前で、「全てのマルクス主義者に災いあれ!」という掛け声で乾杯の音頭をとって場の空気を凍らせてしまうような、やや知識偏重傾向というかカタブツの人物像が浮かび上がりそう。レーニンがトロツキーを重用する時期があり、その頃には周囲はトロツキーの事を「レーニンの棍棒」と陰口を叩いていたともいう。

レーニンが世に出たのは、マルトフと共に労働者階級解放同盟を各地で旗揚げした事に拠り、つまり、マルトフを相棒にして歴史舞台に登場した。しかし、ロシア系のマルクス主義者が結集したロシア社会民主労働党を旗揚げした後はトロツキーを相棒にしているという流れが、怪物レーニン並びにボルシェビキの歩みという感じ。


ニコライ2世(1865〜1918)

怪僧ラスプーチン(1864 or 1865〜1916)

ユーリー・オシポヴィッチ・マルトフ(1873〜1923)

レオン・トロツキー(1879〜1940)