◆日露戦争

帝政ロシアは帝国主義的拡張政策を東方のアジアへと向けていた。トルキスタンとパミール、更には朝鮮半島にも手を伸ばそうとした。ロシアは中国(清王朝)の協力を得てシベリア鉄道の建設を続ける中で、拡張路線にあった日本と衝突する事となる。

ロシアは日本と軍事衝突をしても万に一つも敗戦はないものと感じ取っていたらしく、当時のフォン・ブレーヴェ内務大臣は、「革命の潮流を食い止めるために、ちょっとした勝ち戦が必要だ」と語っていたという。つまり、国内の革命気運を鎮静化する為の勝ち戦をするぐらいのつもりだったのだ。また、皇帝ニコライ2世は、訪日時に津田巡査に襲撃されて頭部を負傷した大津事件の被害者その人であったが、日本人を「猿」と呼んでいたという。

当時の状況を、少しだけ掘り下げてみる。既に中国は欧米列強の分割競争の舞台となっており、1900年に清は義和団運動という民衆蜂起が起こり、その鎮圧にかこつけて日本、ロシアを含む列強8ヵ国が中国に連合軍を派遣し、その鎮圧にあたった。ロシアは満州に大量の鎮圧軍を送り込んだが、鎮圧後も満州に居座り、事実上の占領をしていた。日本は当初、大国ロシアと衝突する事を避けようとするが、1902年に日英同盟を締結させると、次第にロシアと対決する姿勢に変わっていった。(イギリスとアメリカは、ロシアと日本であれば日本に好意的であったという裏事情もありそう。)

1896年、ロシアは中国(清王朝)と対日同盟を結び、シベリア鉄道の敷設権を得て、中国領の満州の一部を路線地の足場として、拠点を形成する。

1898年、ロシアは中国(清王朝)に遼東半島南端の旅順港の租借権を獲得。

1900年、ロシアは義和団の乱の鎮圧軍を満州に送り、そのまま居残り、朝鮮半島に色気を見せる。

1903年、ロシアが満州からの撤兵同意を翻意したのを契機に、日本は対露開戦を決意。

1904年2月8日、日本による仁川沖、旅順港奇襲によって開戦。

1904年2月10日、日本は宣戦布告。以降、日本が苦戦しながらも有利に戦争を進めてゆく。

1904年5月、日本軍が遼東半島に上陸。

1904年8〜9月、遼陽会戦(陸戦)を日本軍が制する。日本軍13万、ロシア軍22万。日本は遼陽占領を果たしたが犠牲者はロシア軍を上回り、以降、補充兵が32歳以上の老兵となる。

1904年10月、沙河(さか)会戦(陸戦)。遼陽の北方の沙河での会戦。消耗の激しい日本軍に対してロシア軍が総攻撃を仕掛けたもの。日本軍は戦線を死守したが2万の死者と弾薬不足が発生。日本軍は苦戦を強いられながらも奉天へと軍を進める。

1905年1月、旅順攻囲戦。ロシア軍が築いていた旅順要塞は太平洋艦隊が常駐し、「東洋一」と評された近代化された軍事要塞であった。日本海軍は当初は狭い港口に閉じ込める作戦を採ったが失敗。援軍に最強と恐れられたバルチック艦隊の到着前に占領が必要となった。乃木希典VSステッセルが衝突したこの旅順攻囲戦は1904年5月から続き、1901年1月1日、ステッセル率いるロシア軍が降伏した。日本軍は勝利したが13万人を動員、死傷者は6万人に達した。

1905年3月、奉天会戦(陸戦)で日本軍25万、ロシア軍32万による決戦が展開される。大山巌VSクロパトキン。同月10日、日本軍25万は総攻撃を仕掛けるがロシア軍の逆襲に遭い、戦線は混乱。日本軍の第一線は潰走したという。ここでも日本軍は奉天の占領に成功するが死傷者7万を出し、本格的に日本軍は戦争継続が危ぶまれる事態へ。補給力が限界に達し、最早、講和工作に期待する状況だったという。(国内では、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を発表。)

1905年5月27〜28日、日本海海戦。ロシア軍が誇るバルチック艦隊を日本連合艦隊が破る歴史的会戦。東郷平八郎VSロジェストヴェンスキー。バルチック艦隊は戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻、装甲海防艦3隻を基幹とする38隻から構成され、旗艦は「スオロフ」。日本連合艦隊は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦12隻、装甲海防観を基幹とする108隻から構成され旗艦は「三笠」。

バルチック艦隊は遥か喜望峰を迂回するというルートで日本海へ向かいウラジオストックを目指してが、これを日本連合艦隊が対馬沖で撃破した文字通り世界の海戦史に残る大海戦であった。予測ではバルチック艦隊が日本連合艦隊を圧倒すると思われたが、東郷平八郎率いる日本連合艦隊は敵の進行方向を塞ぐ敵前回頭(東郷ターン、もしくは丁字作戦)を敢行、日本連合艦隊の圧勝に終わった。被害状況はロシア側、戦艦8隻中6隻が撃沈、2隻を捕獲を含め、撃沈19隻、捕獲5隻、逃走沈没&自爆2隻、抑留8隻という壊滅的打撃を与えた。これによってロシアは有していた全ての海軍力を一時的に喪失するという衝撃的な敗北であったという。日本側の被害は水雷艇3隻が沈没のみであった。

(記憶では3〜4年前にもNHK制作の番組「その時、歴史が動いた」あたりで「丁字作戦」が取り上げられているのを視聴しましたが、丁字作戦が事実なのかには意見があるのだそうな。よう分からん。また、日本艦隊の速力が15キロノットであったのに対して、ロシア艦隊は9〜11キロノットであったという。)

おおよその日露戦争のあらましは上記のような感じですが、どんな事を思われたでしょ? 犠牲者出しながらも占領しているあたり、近代戦の割には精神力でフォローしたのかな的な…。とはいえ、どの戦闘でも日本が占領を果たしているから有利に進めていたんだよなって思うかも知れない。

しかし、これなんですが「安倍総理の先生」と呼ばれた岡崎久彦氏の著書『百年の遺産』(扶桑社文庫)では、やはり、日本海海戦までは勝敗は分からなかったとしている。日本海海戦前の段階でも、遼陽、旅順、奉天と手に入れているので有利に進めていたのように見えるんですが、日本軍は兵站が伸びきってしまっていて、戦争継続が危ぶまれたという状況に追い込まれていた事を指摘する。バルチック艦隊が日本海の制海権をとったら、日本軍は完全に補給路を断たれていたというのが、実相であるという。

ロシアの戦略は、伝統的なものであり、損害も少ないまま後退して、敵の兵站が伸び切らせてから、壊滅状態に追い込むものだという。この戦法はロシアの御家芸であり、ヒトラーのナチスドイツがこれでやられたのは有名ですが、そればかりではなく、かのナポレオン1世も、モスクワ遠征で同じようにロシアに敗れ、その敗北を契機にナポレオン時代を終わらせているという。

1812年、ナポレオンは61万2千という大軍勢でロシアへ攻め込み、そのままモスクワまで到達し、モスクワを炎上させることに成功。しかし、なんと、そこから長い長い敗走劇となって、潰滅。国境まで戻ってこられた軍勢は僅かに11万2千であったという。おそロシア。

また、岡崎久彦は日露戦争の舞台裏として、米英の支援を挙げている。イギリスがロシアが入手しようとしていた戦艦を日本に売るように仕向けていた事、更には、日本が戦費調達できたのは米英両国が戦時債を引き受けてくれた事が大きく、何故、米英が戦時債を引き受けてくれたのかというと、実はユダヤ系資本が関係しているという。帝政時代のロシアはポグロム(ユダヤ人迫害)を放置したり、利用していた節がある事からユダヤ系資本の怒りを買っており、それが関係して日本は戦費調達が出来たとしている。