◆血の日曜日

ロシア革命には第一次ロシア革命として1905年に民衆の抗議運動によって皇帝ニコライ2世から「十月詔書」を勝ち取ったという段階があり、その後の1917年を第二次ロシア革命(これにも二月革命と十月革命の二つがある)があって、こちらは二月革命によって帝政に終焉をもららせ、十月革命によって社会主義革命へと移行するという複雑な経過を辿る。古くは第一次ロシア革命と第二次ロシア革命と分けていたようですが、最近はロシア革命というと、主に1917年を指しているようですかね。

日露の戦争の最中、第一次ロシア革命を惹き起こす発端になったのは「血の日曜日」事件(【Bloody-Sunday】)と呼ばれる騒動に始まった。

これを惹き起こしたことにはゲオルギー・ガポン神父(生年1870〜1906年)が深く関係している。ガポン神父はロシア正教会の修道士であったが、政府の秘密警察と連携し、警察社会主義組合という性格の労働者団体を首都ペテルブルクで組織していた。労働者団体でありながら官許の労働者団体であり、しっかりと秘密警察に繋がっていたという。

実に些細な事が血の日曜日という惨劇を惹き起こしている。

とある金属機械工場で4名の労働者が解雇されたという事態が発生、同僚たちが不当解雇だと会合をしていうところに、ガポン神父が首を突っ込んだところから始まる。ガポン神父は、その席で労働者たちの間に「帝政打倒」を呼び掛けるビラを見つけ、それをびりびりに破り捨てる。しかし、労働者団体である手前、解雇された4人の労働者の復職を求めるという請願書をガポン神父は引き受けることになる。請願書の本旨は解雇された4名の復職を求めるものであったが、その請願書には他にも色々な内容が書き足されることになる。ガポン神父が書き足したのは賃上げ要求、衛生面の改善、労働時間8時間制であった。しかし、更に左派の連中が労働団体に存在し、集会と出版の自由、日露戦争の終結、憲法制定会議といった要求を書き足したという。

そして1905年1月3日、ペテルブルク全市でストライキが宣言された。すると、10万から15万の群衆が街頭に出てきて、デモ行進を始めた。

1月9日、当時のロシア暦では日曜日であったという、その日、労働者らのグループは皇帝の在する冬宮(とうきゅう)へ行進を始めた。このペテルブルクの冬宮はロシア・バロック建築の最大の建造物であり、歴代皇帝が住んだ宮殿であり、且つ、現在は一部がエルミタージュ美術館になっているという。

デモ行進は、皇帝に請願書を届ける、つまり、「直訴」という意味合いであったという。このデモ行進はガポン神父を先頭にして行われた。

なんなく鎮圧できたものと考えられるが、当局は実力行使で、このデモ行進に対応した。

コサック兵――この「コサック」とは農民ではなく、タタールの末裔とされる馬術に優れた南部ロシア、ポーランド、ウクライナ地方にいた人々であり、独自の軍事共同体を組織し、政権下では傭兵団として特別な扱いを受けていた人々であった。そのコサックが冬宮前広場でデモ隊を蹴散らさんと、サーベルを抜き、鞭を振るって、デモを鎮圧にかかった。

結果、冬宮前広場には、1500体の遺体が雪の中に横たわる惨劇となった。これを「血の日曜日」事件と呼ぶ。この「血の日曜日」事件はペテルブルクだけではなく、ロシア全土に拡散し、ロシア全土でゼネストが繰り広げられるという展開を見せる。


◆第一次ロシア革命

1905年は6月14日にはロシアの黒海艦隊の新鋭艦であったポチョムキン号で腐った肉のスープに抗議した水兵が将校に射殺された為に、水兵らが一斉蜂起し、他の将校らを監禁するというポチョムキン号の反乱事件が起こる。ポチョムキン号は赤旗を掲げてゼネストの行なわれていたオデッサ港に入港。水雷艇、監視船、戦艦などがポチョムキン号の反乱に応じるまでの騒ぎが拡大する。

ゼネストが各地で展開される事態に体制側も必死になったが、それは強烈なサディズムとなって表出する。国家に公認された伝統主義的なサディズムが疼くものらしく、何故か残虐なポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生する。これは警察が止める事もなく、いわば容認されているていユダヤ人に対しての集団リンチであり、キシニョフでは500人規模の被害者を出した虐殺事件であるという。また、そのキシニョフの虐殺では幼児の舌を切り取った等の残虐行為もみられたという。

この体制派、権威主義的な怒りの中から、ファシズムの原型とも言われるものが生まれたという。それは犢百人組瓩噺討个譴詁逝里涼里譴覆げ燭、伝統的・権威主義的な怒りが生み出す超反動的な各種のグループの総称であるという。

8月、ロシアは日露戦争中であったが国内も大混乱状態。皇帝ニコライ2世は妥協点を見い出さんと「ドゥーマ」と呼ばれる諮問議会の招集を発表する。この【ドゥーマ】とは、現代風に言い換えると上院と下院の下院にあたるという説明もある。しかし、選挙という代議制を用いようとした部分で新しいものであったが選挙制度は有産階級に有利なものであり、大衆の怒りを沈めることはできなかったという。

10月、モスクワの植字工の報酬は一文字につき賃金が設定されていたが、句読点も一文字にカウントすべきだと要求した小さな抗議活動が起こったが、これにパン焼き職人らが同情してストを起こすと、鉄道労働者から銀行員までもがストライキをし、更に波及して帝室バレエ団までもが講演を拒否、弁護士は公判を拒み、裁判官も審理を拒否するという大きなうねりとなったという。

10月13日、メンシェビキの画策によって、サンクトペテルブルク工科学校に、労働者の代表、エスエル、メンシェビキ、ボルシェビキが集結する。労働者は500人につき一人の代表を選出すべし――この集まりこそが「評議会」という意味で【ソビエト】なのだ。

10月17日、動乱の中、皇帝ニコライ2世は、ついに十月詔書を交付する。

人格の不可侵、思想・言論・集会・結社の自由、及びドゥーマ(議会)の開設と、ドゥーマの立法権を認める宣言した。もっとも、代議制が導入される事で自由主義者たちを喜ばせたが、その選挙権は都市部の男性労働者に対して限定的に認められたという。

また、この10月、オデッサでは超反動組織を意味するという黒百人組がポグロムを敢行し、400人を超えるユダヤ人が虐殺に遭ったという。

11月初旬、急進的な農民たちによる略奪や焼き討ちがロシア各地で起こる。ソビエト(評議会)は次から次へと形成されてゆく。

12月、モスクワで起こったゼネストはエスエルとボルシェビキのバックアップを受けて、都市反乱に発展。労働者たちは街頭にバリケードを張り巡らせる。

1906年1月、近衛連隊がペテルブルクから到着すると、革命分子が拠点としていた織物工を砲撃。蜂起派、250名が死亡する。これにより蜂起派は壊滅となり、実質的には第一次ロシア革命の終結に当たるという。

しかし、完全に火が消えることはなかった。

同じく1月、エスエル党員のマリア・スピリドーノヴァという21歳の女性が農民を酷く抑圧していた地元の治安責任者を射殺し、死刑宣告を受ける。この女テロリストであるスピリドーノヴァはシベリアの流刑地まで列車で移送されたが、列車が停車する度に群衆から歓声を浴びたという。

第一次ロシア革命では、死者は1万5千人、そして7万9千人が投獄または流刑に処されたという。また、米国ユダヤ人委員会によると、この1906年1月に人種差別による暴力で命を落とした者が4千人程度あったと証拠を揃えているともいう。