◆ロシアの自由主義・保守陣営

1905年の第一次ロシア革命とも呼ばれる革命運動の結果、皇帝ニコライ2世は十月詔書を交付。その十月詔書によって代議員選挙によって議員を選出させる議会「ドゥーマ」の設置が約束された。また、そのドゥーマには立法権も付与される事となった。

そのロシア政府の対応に応じる形で、ロシアに自由主義政党が登場する。

1.カデット(立憲民主党)
カデットは著名な歴史家であったというパヴェル・ミリュコーフ(生年1859〜1943年)を党首として形成された自由主義政党。このカデットは、都市ブルジョアと農村の進歩的中小地主、及び、自由職の穏健分子を支持基盤とした政党。党員はおよそ10万あり、その大半は中流の専門職であったされる。公民権、男性の普通選挙権、国内に於ける少数民族の一定の自治、穏健な土地改革と労働改革とを、党是として掲げた。

2.オクチャブリスト(十月党)
こちらはニコライ2世の十月詔書を支持する形で発足した政党で、政党の理念は立憲君主主義の確立を掲げる。大商工ブルジョア、地主層を支持基盤とする。規模はカデットの5分の1程度。政治イデオロギーでカデットと区別する為には、このオクチャブリストは「保守的な自由主義」であり、カデットが掲げている普通選挙には反対の立場である。(既得権益と直結しているから普通選挙では困るワケで、故に政治体制としての立憲制を維持して欲しいという。改めて、立憲君主主義。)大富豪のグチコフ(生年1862〜1936年)らが主要メンバー。

十月詔書が交付された後も、エスエルやボルシェビキの急進派は「(詔書を受け入れることは)現状追認になる!」として抵抗を呼び掛け、マリア・スピリドーノヴァのようなテロ活動は続いたが、また、混乱を収拾すべきという反動保守が猛威を振るい、革命支持者への弾圧が強まってゆく。

反動保守による革命分子弾圧の風の中で、世に台頭したのが、ストルイピン(生年1862〜1911年)であった。ピョートル・ストルイピンは、元々はサラトラ県の一知事であったが農民反乱の鎮圧の功によって頭角を現したという。このストルイピンは絞首刑を沢山行なったので、巷間では、首吊り用の縄に対して「ストルイピンのネクタイ」という隠語が生まれたという。

十月詔書に基づいて、その後、ドゥーマという議会が帝政ロシア政府内に生まれたものの、首相は皇帝による任命制で、当初はウィッテ(ヴィッテ)が首相に任命されていたが、その次には反動保守色の強いストルイピンが首相に任命される。

革命勢力への厳しい弾圧が始まり、ロシア社会民主労働党は最盛期には10万の党員を擁していたが、党員数は数千人単位にまで激減。(ボルシェビキの幹部になっていたレーニンは、最初はジュネーブへ、そこからパリへと亡命を続ける。)


◆議会ドゥーマの実態
十月詔書は空手形になるもなく、実際に1906年4月から二院制の議会が設置された。しかし、これは西洋国をはじめ、日本の議会導入と比較しても16年遅れのものであった。上院は国家評議会といい、これは以前にあった諮問議会を格下げしたもので、議員の半数までは身分制機関や帝国の統治を支える種々の団体が選出し、それを皇帝が任じるものであった。下院は新設された議会で、ここには政府に批判的な勢力が進出し、土地改革と諸民族の平等を強く訴えるようになった。しかし、このドゥーマは発足から三ヵ月後の1906年7月、皇帝ニコライ2世によって解散が命じられた。1906年4月から7月にかけてのドゥーマを第一ドゥーマと呼ぶ。

1907年2月から第二ドゥーマが開かれたが、こちらは更に政府に批判的な方向へ向かった為、首相になっていたストルイピンによって6月に解散、更に選挙法を大地主や都市富裕層に有利な制度に変更するという策を弄した。議会の承認なしに首相が選挙法を変えることは憲法違反であったが、このストルイピンの奇策によって1907年11月に召集された第三ドゥーマは親政府的な議会となった。

ボルシェビキ(ロシア社会民主労働党から分裂)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党から分裂)、エスエル(社会革命党/ナロードニキから発足)の上記3党は、しばしば選挙をボイコットしたという。エスエルは第二ドゥーマの選挙にしか参加しなかったという。

十月詔書が公布された後、新たにトルドビキという政党が発足していた。トルドビキとは【勤労者】を意味する言葉であり、語感はボルシェビキ、メンシェビキと似ているがロシア系マルクス主義の祖となるロシア社会民主労働党からの分派した政党ではない。飽くまで十月詔書によって設置されたドゥーマ(議会)で活躍する目的で発足した農村志向の政党で、第一ドゥーマ、第二ドゥーマでは活躍したという。

トルドビキと並んでドゥーマの主要勢力となったのは前出のカデット(立憲民主党)であった。著名な歴史学者であったミリュコーフを党首に沿え、大学講師や弁護士、更には改革派の貴族政治家も在籍しており、このカデットはイギリスを模した議会政治と立憲君主制の実現を訴えていた。

最後にオクチャブリスト(十月党)になりますが、こちらは現状維持派、帝政支持派の政党であった為に第一ドゥーマと第二ドゥーマでは議席数の獲得も少なかったが、ストルイピンの強引な選挙法改変によって、第三ドゥーマでは議席を伸ばしたという。この事は裏返すと第三ドゥーマに於いては、カデットとトルドビキが大きく議席を減少させた事を同時に意味している。このオクチャブリストの指導者としてロジャンコ(生年1859〜1924年)が台頭し、第三ドゥーマでは議長を務めるまでになる。

ストルイピン首相は第二ドゥーマを強引に解散、そして選挙法を改変した際、併せて社会主義者に対しての取り締まりをも強化し、容赦なく流刑に処していた事もあり、ボルシェビキ、メンシェビキ、エスエルの三党に対しては打撃となっていた。ボルシェビキの党員が10万から数千に激減した事とも関係しており、密告者に怯えるが余り、精神を病むものも多かったという。

更にストルイピン首相は「ミール」と呼ばれるロシアにあった伝統的な農村共同体の解散させ、小規模の自作農をつくりだそうとする。農民たちの間に私有権の喚起を促がして政府に親和的な階層を形成しようとしたともいう。

ストルイピンの農地改革は遅々としながらも動いていたはいたが、議会運営の中でオクチャブリストとの間で対立が発生。元々、体制支持派のオクチャブリストとストルイピンとは友好的な関係にあったが、首相を議会が任命する議員内閣制ではなく、皇帝が首相を指名するシステムであった為にオクチャブリストとストルイピンの対立が激化。1911年、ストルイピンはキエフで観劇中、二重スパイによって狙撃されて死亡する。

P.A.ストルイピン(1962〜1911)

アレクサンドル・グチコフ(1862〜1936)

ミハイル・ロジャンコ(1859〜1924)