◆ボルシェビキとメンシェビキ

1903年にロシア社会民主労働党はレーニン派とマルトフ派とに分裂した。レーニン派をボルシェビキ(ボリシェヴィキ)、マルトフ派をメンシェビキ(メンシェヴィキ)といい、ボルシェビキの方では、特に分裂した1903年以来のボルシェビキのメンバーを「オールド・ボルシェビキ」と呼んだ。ロシア革命以降、1918年にはボルシェビキが「ロシア共産党」となる。ボルシェビキという言葉には多数派の意味があり、対してメンシェビキは少数派の意である。

マルクス主義の生みの親であるカール・マルクス(生年1818〜1883年)は1883年に没しており、ロシアに於けるマルクス主義は既に拡大解釈も為される時代になっていたとされる。ナロードニキは少なくとも自分たちはマルクス主義の影響を受けていると考えていたし、また、ナロードニキを批判する中でロシア・マルクス主義が登場する。また、これも複雑な事に1900年代に入ると「マルクス主義は時代遅れだから改良する必要がある」のような気風となり、「合法マルクス主義或いは改良マルクス主義」も登場。この合法マルクス主義は折衷案であり、自由主義ブルジョア陣営と共同して一先ずはブルジョア革命を遂げてから漸次の変遷を遂げて社会主義革命とすべきだという主張であったが、レーニンはというと、これまた頑なに警戒したという。「妥協になってしまう」といのがレーニンの見解だったよう。

とはいうものの、実は生前のカール・マルクスはロシアでナロードニキ運動が起こっている事に対して、本物の革命になるのではないかと興味津々だったというから、どれが正統のマルクス主義なのかも実は分かり難い。しかし、一般論としてはマルクス主義の継承者として正統派とされていたのはドイツ社会民主党の指導者にして第二インターナショナルの指導者でもあったカウツキー(生年1854〜1938年)であった。(後述のローザ・ルクセンブルクがドイツ社会民主党の急進左派であったのに対して、カウツキーは中央派というポジションをとった。)


◆ロシアの資本主義の進捗度
十月詔書以降、ドゥーマと呼ばれる議会がまがりなりにも設置され、自由主義陣営、社会主義陣営、それと帝政保守陣営が登場して、ロシアの命運を語るイデオロギー対決になったときに、ロシアに於ける資本主義の進捗度というものが重要になってきそうですかね。ロシアはというと大きな流れで語れば、西洋の近代化に遅れを取っており、帝政ロシアは帝政ロシアなりに近代化を急いでいた。冒頭にてピョートル大帝が魔都サンクトペテルブルクを建設したのも、元々はロシアのスラヴ的後進性を払拭して近代化を急いでいたからであったと考えられる。

そして近代化を遂げるにあたり、その原動力となったのが資本主義原理であり、もう一つは附随してか膨張主義(覇権主義・帝国主義)であった。

資本主義によって市民ブルジョア層を厚くしてから、社会主義に移行するプロセスを踏むことが、一般的には正統とされるマルクス主義の思考であり、通説であった。従がって、ストルイピンの農業改革(1907〜1915年)にしても必要なプロセスであり、上手く移行する事が出来た可能性があるのではないかという指摘もある。実際に多くの歴史的見解は意外と肯定的であるという。

しかし、それに対しても全く別の見解があるよう。帝政ロシアは近代化を遂げていたし、それによって資本主義はとっくに根ついていたとも言えてしまう。帝政ロシアは近代化を急務とした頃からフランスを筆頭に外国資本を流入させていたというのが正しい。1915年には借款などでロシア国内の鉱山の90%、化学産業の50%、機械工場の40%、銀行の株式の42%は、西欧の外国資本が占めていたという。そして隣国にはドイツがあったのが現実であるという。

歴史学者の多くは今日的な価値観から眺めるので急進勢力のエスエルやボリシェビキを割り引いて語ってしまっている可能性がありそうですかねぇ。レーニンは、確かに1899年に『ロシアにおける資本主義の発展』を出版し、そこでは統計資料にあたっていたという。ロシアの実情とは、帝政ロシアという体制はしっかりして既に大国と見做されていたものの、国内の事情はガタガタだったようにも見える。

「自由主義陣営と組んで帝政打倒を果たせばいい」という論陣をレーニンは「自由主義ブルジョアジーを支えるだけのものだ」と批判した。更に、レーニンは「もし経済闘争がそれ自身完璧なものと見做されるなら、その中に社会主義的なものは何も無いだろう」と指摘した。

そこを考慮すると、複雑なレーニンな思想が少し見えてきますかね。1903年の第2回ロシア社会民主労働党大会に於いてボルシェビキとメンシェビキとが分派した。レーニンは「党員は綱領を承認し、党の財政を支え、その組織に所属すべきだ」とした。それに対してマルトフは「党員は党組織に所属する必要はないが組織の指導下で活動できる」とで決裂したのだ。マルトフに欠点はないようにも思えるし、実際にトロツキーもマルトフを支持してメンシェビキとなる。しかし、改めて、レーニンを検証すると【帰属性】と【責任】を上手く集約しているようにも見える。「党員には党を支える責任と責務がある」という考え方ですね。確かに共産主義思想原理の真髄を突いていたようにも見える。(今日的な日本の姿などは「無責任体制だ」と批判されますが、帰属を明確にして責務を負うというそれを蔑ろにしているのかも知れませんしね。)

実際、分裂劇の前年となる1902年にレーニンは『何をなすべきか?』を出版している。これはナロードニキ運動の発端にもなったチェルヌイシェフスキーの著書と全く同一のタイトルであり、既にレーニンの腹は決まっていたように見える。レーニンは自著『何をなすべきか?』の中で、「党はプロレタリアートの前衛として、出来る限り組織化されるべきだ」――と。

レーニンの複雑さ、それは両義的な信念であり、「全党員は党に対して責任を持ち、党は党員すべてに対して責任を負っている」という思考法になっている事に気づかされる。(実際にレーニンはスターリンと異なり、個人崇拝そのものを拒否していたし、反証にしても論理的な反証を許していた。スターリンになると反対者を粛正してしまう。偏えに「共産主義者」や「共産主義」と言いますが、実際にスターリンを支持していますという人は稀有ですやね。実際に歴史に登場した諸々の共産主義政権は独裁制になってしまっているというだけの話で。


◆第一次世界大戦の衝撃

1912年5月、シベリアのイルクーツクでイギリスが出資している広大な金鉱では劣悪な労働環境にさらされていた坑夫たちがストライキを展開する。坑夫たちは賃金の増額と、憎み切れない現場監督の解雇、一日八時間労働などを要求していた。しかし、そのストライキには軍が動員され、会社の容認の下に派遣された部隊が発砲するという騒ぎにまで拡大する。ストライキ参加者の中から270人もの死者を出す大惨事となり、これを「レナの虐殺」と呼ぶという。

レナの虐殺は大いにロシアの民衆の同情と怒りを買い、ペテルブルクとモスクワを揺るがし、大規模なストライキが繰り返し発生するようになる。

皇帝ニコライ2世は不人気であり、更に輪をかけて皇后アレクサンドラ(アリックス)は不人気であった。アリックスは英国ヴィクトリア女王の孫娘であり、しかもドイツ帝国の領邦国であったヘッセン大公国からロマノフ家に嫁いできたという経歴もロシアの民衆は気に入らない。更に、このアリックスは或る時期から怪僧ラスプーチンの提言に従って政治を動かして出していた。ラスプーチンは大酒飲みで好色であったという噂が巷間に伝わっていた。そんなラスプーチンを崇拝しているのがアリックスであり、それを許容してしまっているのが皇帝ニコライ2世だったのだ。

ロシアは大混乱の中で、第一次世界大戦を迎えようとしていた。

1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がボスニアで暗殺されるというサラエボ事件が発生。オーストリアは、この頃、オーストリア=ハンガリー帝国であり、ドイツ帝国と同盟関係を構築して欧州に覇権主義的帝国主義による緊張の渦中にあり、時の帝政ロシア政府はというとイギリス、フランスと三国協商という陣営を形成して、ドイツと敵対していた。皇太子夫妻を暗殺されたオーストリアがセルビアに最後通牒を突き付けたのが同年7月23日(26日という表記も)であった。ドイツら同盟国陣営は汎ゲルマン主義を掲げていた事もあり、その緊張はロシアの危機感を煽る事になった。

俄かにロシア国内にも「戦争が起こりそうだ」という空気が漂い始めたのが同月23日であり、28日になるとオーストリアがセルビアに宣戦布告。ロシアはセルビアを守らんと総動員令をかけた。

多くのロシアの民衆は戦争なんてものに巻き込まれたくないという状況であったが、事態は緊張していたし、混乱していた。

その混乱の中、エスエル穏健派、トルドビキの中から華麗さを持つ一人の弁護士、アレクサンドル・ケレンスキー(生年1881〜1970年)が登場する。1912年に弁護士から政治家に転身したばかりであったが、ケレンスキーは民衆から人気があったという。このケレンスキーの生い立ちはカザン大学の学長の息子であった。レーニンがカザン大学に在学中の学長の息子が、このケレンスキーであった。

ケレンスキーは農民や労働者たちに訴えかけた。

「我々の国を守り、しかる後に解放しよう」

と。それは戦争を肯定する事を意味していたが、現実的な提言でもあったと理解された。世界的な規模でアナーキズムの頂点に立った、かのピョートル・クロポトキンでさえもでさえ、第一次世界大戦を容認していたのが当時のロシア情勢であった。

ナロードニキ運動の継承者であるエスエルは、ケレンスキーの登場によって二分されたという。活動家と呼ばれた革命家の多くは戦争反対を主張したが、多くの知識人は戦争参加を支持していたという。

また、この頃はドイツ社会民主党が中心となったマルクス主義者たちによる国際大会を開催していた連合組織「第二インターナショナル」が続いていたが、やはり、この第一次世界大戦を巡って、戦争支持派、和平派、革命派などに分裂、崩壊した。

レーニンは、この頃、亡命中であり、ドイツ社会民主党を信じていたのでドイツ社会民主党が戦争支持を打ち出したという報告を受けると、当初、その報告は嘘だという思い込みにしがみついたという。また、急進派として名高いドイツ社会民主党の女傑ローザ・ルクセンブルク(生年1870〜1919年)は、党の決定に失望し、自殺をも考えたという。

ドゥーマ内では、ケレンスキーの登場によってエスエルが戦争支持に回り、ボルシェビキとメンシェビキが反対をして席を立ったという。



アレクサンドル・フュードロヴィッチ・ケレンスキー(1881〜1970)

カール・カウツキー(1854〜1938)

ローザ・ルクセンブルク(1870〜1919)