2018年01月04日

ロシア革命という神話〜12

◆ロマノフ王朝の終焉

2月最後の晩、皇帝ニコライ2世は御召し列車の中にあった。ペトログラードから約150キロほど離れたマラヤ・ヴィシュラ駅という駅に金ピカのバロック風の装飾を誇った御召し列車は停車した。鉄道当局はドゥーマ委員会から皇帝を乗せた御召し列車をペトログラードへ送り返すよう指令を受けていた。また、その線路沿いの駅は既に革命派の部隊によって制圧されていた。

御召し列車はというと、そこからみすみすドゥーマ委員会や革命派の部隊が待ち受けている方向へは向かわなかった。急遽、行き先を変更して北部戦線が展開しているプスコフを目指した。プスコフへ行けば、或いはプスコフを経由してどこかへ逃げていれば、帝政支持の軍隊の支援を受けられるかも知れないとニコライ一行は考えての、行き先変更であったという。

3月2日、午後。プスコフ駅のプラットホームを皇帝ニコライ2世は歩き回っていたという。皇帝の取り巻きの貴族や将軍たちにしても、事態を考慮すると、「最早、帝位を明け渡す以外の選択肢はない」という結論にまで追い込まれていた。将軍たちは臨時政府の行ないを罵ってみせたが、慰めにはならず、最早、現実的な選択肢はなくなりつつあった。

一通りの臨時政府に対しての罵りが終わると、厳かにニコライ2世は語った。

「心を決めた。我が息子の為に、帝位を退く」

と。

つまり、この時点では、血友病の我が子アレクセイに帝位を譲るという心づもりであったのだ。ところが、その後、ニコライ2世は息子のアレクセイではなく、実弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に帝位を継承させるという詔書に署名をする事になる。通説では、この息子ではなく実弟に譲位するとしたニコライ2世の決断を、次のように解釈していた。「病気の我が子に帝位を譲り、その責任を負わせる事をニコライ2世が拒否し、実弟に帝位を譲る決断をした」と。

しかし、事情は少し複雑であり、そのミハイル大公に皇位を継承させるという筋書きは、ドゥーマ委員会内の保守派が画策したシナリオでもある。オクチャブリスト(十月党)にしてドゥーマ議長のロジャンコ、同じくオクチャブリストのグチコフ、シュリギーンは、立憲君主制を前提とした観点からミハイル大公擁立を事前に画策していたのだ。直前まで、息子アレクセイに帝位を継承させると考えていたニコライ2世が、急に実弟のミハイル大公に帝位を継承させるという具合に翻したことになる。

つまり、ニコライ2世の取り巻き、側近はというと当然、ニコライ2世の退位の後はアレクセイが帝位を継承するものと考えていたし、ニコライ2世も、そう考えていたのだ。それが、土壇場で引っ繰り返った事になる。

実際に事実関係を照応すると、プスコフにはドゥーマ委員会からグチコフとシュリギーンとが皇帝に謁見して退位を決断させるという説得役を負っていた。政治思想としては両者共に保守色が強い政治家であったが、現状を踏まえるに帝政を維持する、もしくは立憲君主制へ移行するには、ニコライ2世に退位を促すしかないという状況に追い込まれていたのだ。

そして皇帝ニコライ2世がミハイル大公に帝位を譲ると決断したのは、プスコフにてグチコフとシュリギーンとがニコライ2世と謁見をした後の翻意であった。それを考慮すると、ニコライ2世の意志によって帝位継承者が決定されたのではなく、予め、用意された線に沿っていた事が分かる。ニコライ2世は息子アレクセイと共に帝位から遠のき、ミハイル大公が新皇帝となる事で、なんとか帝政を維持しようとした決断であったのだ。

つまり、グチコフとシュリギーンが到着したときには既にニコライ2世は心変わりしていたのか、それともグチコフとシュリギーンとが到着した後にニコライ2世が心変わりをしたのかによって、この細部の解釈は二通りあるのだ。前者であれば、ニコライ2世の我が子を愛する気持ちによって翻意が起こり、説得役となったグチコフとシュリギーンにしても、泣く泣く、その翻意を受け入れたとなる。しかし、後者であれば、皇帝も皇帝側近もその気はなかったがグチコフとシュリギーンがプスコフにやってきて謁見した後に、ニコライ2世は翻意した事になり、ドゥーマの意向が強く影響した決断であった事になる。

最終的には詔書文面は、

「我らの愛する息子から引き離されることを望まないが故に、我らは帝位を我らの愛する弟・ミハイル・アレクサンドヴィチ大公に継承させるものとする」

となり、それにニコライ2世は署名した。

グチコフとシュリギーン、保守派の二人は、これであれば帝政(君主制)は維持できると思い、ペトログラードへと戻ることにした。帰途の列車では新皇帝としてミハイル大公が即位することになった事を広める為に演説をし、演説の最後には

「ミハイル三世、万歳!」

と締めくくった。

しかし、保守派勢力の野望は果たされなかった。どんでん返しが待っていたのだ。

3月3日、グチコフとシュリギーンとがペトログラードに戻って来た時には、既にケレンスキーがミハイル大公に向かって、

「もし即位されるのであれば、殿下の御命は保障できません」

と。

ペトログラードでは何が起こっていたのか? ドゥーマ内でも、カデット(立憲民主党)の創設者であるミリュコーフが、君主制・帝政の存続に賛成の立場となっていたが、ペトログラードの群衆は帝政打倒!」と「共和国万歳!」とを叫んでおり、最早、君主制の維持は不可能であろうという状況にまでなっていたという。また、面白い事にロジャンコは立憲君主制を提唱するオクチャブリスト(十月党)であったが、こちらは逆に共和制支持者になっていたという。(立憲民主主義を看板にしてた政党の創設者が君主制存続を支持し、立憲君主主義者だった議長が君主制廃止を支持している。)

そして、その情勢を敏感に読んで、ロマノフ王朝史に終止符を打ったのが、トルドビキ(勤労党)に所属していたケレンスキーの「御命は保障できません」という冷徹な言葉であった。

ミハイル大公は、リヴォフ公(無所属)とロジャンコ(十月党)とに問いただした。

「私が帝位に就いた場合、身の安全は保障されるのかね?」

その質問にリヴォフ公とロジャンコとは明確な返答が出来ずにいた。すると、ミハイル大公は

「そうした状況では、私は帝位に就く事は出来ない…」

と言った。すると、これまたケレンスキーが椅子から立ち上がって、

「殿下! あなたはなんと気高いお方だ!」

と発言し、そのまま、ロマノフ王朝の歴史は終焉した。

ussyassya at 01:29│Comments(2)TrackBack(0)ロシア革命史 

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この記事へのコメント

1. Posted by 山童   2018年01月05日 12:14
なんと言うのか、あっけない終わりかたですねえ。勿論、皇位を継ぐ者がいなくなれば終わりなのですけど。実にあっけなく。
ても、日本も鳥羽伏見から江戸城無血開城まで3ヶ月もかかってないんですよね。
将軍が降参してるし。将棋隊なんか瞬殺。
むしろ奥州とか北海道の後始末の方が手こずった感が……。
やはり何代も固まってきた支配機構というのは、倒れるまでが長いけど、倒れる時は一瞬なんですかね?
2. Posted by メロンぱんち   2018年01月05日 14:13
山童さん>
ロシア革命のケースだと、やはり、軍隊が革命派に統合されたのが大きいようですね。最後まで皇帝の側近になっていた将軍たちもいたようですが、大勢は決してしまったので、こうなったら退位して帝位を…と忠告した、と。すかさず、ケレンスキーらが後継予定だったミハイル大公に恫喝的手法で終わらせていますが、ケレンスキー、実はイギリスやアメリカから秘密裡に資金援助を受けていたらしいんですよね。

なので、米英(フリーメーソン)がバックについているケレンスキーと、ボルシェビキが裏では諜報戦をしていたのだそうです。

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