2018年01月12日

戦後の大衆運動〜全共闘編

60年安保の後、全学連は弱体化、分裂する。

1961年4月、革共同(革命的共産主義同盟)の系統からマルクス主義学生同盟(以降、マル学同)が誕生する。これはマル学同全学連とも呼ばれるという。

1961年7月、マル学同に対して、反マル学同という対立軸が生まれる。この反マル学同には、社学同、革共同関西派、社青同。

上記のうちの【社学同】とは「社会主義学生同盟」であり、日本共産党中央が掲げていた共産主義革命に対して、敢えて社会主義革命を掲げていたグループ。また、この社学同の前身は、反戦・反米・平和擁護・全面講和獲得闘争をしていた反戦学生同盟である。

【革共同関西派】は前出の革共同(革命的共産主義同盟)の中でも関西地方、京都大学を中心とした学生グループが、反マル学同となった勢力。

【社青同】とは、社会党の青年団グループであったが、この頃から政党としての社会党から距離を置くようになる。この社青同が反日共中央の軸となり、社学同と構造改革派と連携を取るようになる。これは日共中央が全学連を指導していたが犢渋げ革派瓩登場、日共中央から離反した事を意味している。

激しい分裂が起こっていて、混乱必死ですが分裂が起これば、またセクト争いも激化するというのがサヨク史の特徴という感じでしょうか。しかし、もう少しだけ辛抱して、この流れを追ってみる。


マル学同は、二派に分裂する。一つが【革マル派】であり、もう一つが【中核派】。この二系統は現在でも稀に名称を目にする事がありますやね。因みに中核派の方は、マル学同からワンクッションあって「革共同・中核派」を経て「中核派」に到っている。

日共中央は学生活動家から離反されていますが、一方で伝統的な【民青】は純然たる日本共産党の下部組織である。正式名称は日本民主青年同盟で原則的に15〜25歳までの青年が参加する全国的組織であるという。日本民主青年同盟は1956年に、その名称が始まるが、それ以前の名称は日本民主青年団、日本青年共産同盟、更にこの共産党の下部組織の起源は戦前にまで遡り、母体は1923年に始まる日本共産主義青年同盟である。

これで、マル学同と民青というグループの説明が終わりましたが、マル学同に対して反マル学同という選択を採った社青同、社学同、構造改革派によって【三派連合】という勢力が生まれる。そして、この三派連合に後に中核派が加わって【四派連合】へと発展する。

これで一応の再編成はおしまいです。

学生運動に於ける勢力図は、日本共産党下部組織の民青のグループがあり、これが学生団体の中では右派、オトナのコントールが効いている最右翼のグループ。(勿論、右翼じゃないですよ。)

中間が四派連合の勢力(社青同、社学同、中核派、構造改革派)となる。しかし、この中から構造改革派は脱退し、新三派連合になる。新三派連合は(社青同解放派、社学同、中核派)によって構成されている。

そして、最左翼が革マル派。正式名称は、かなり長く、「日本マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派」であるという。ブリタニカ国際大百科事典に拠れば、「革マル派は排他的で閉鎖性が強く、思想学習や組織論を重視、大衆運動重視の中核派とことごとく対立している」と記されている。少し誤読できてしまう説明文なので言い換えてしまいますが、中核派が大衆運動重視であるのに対して、革マル派は思想学習と組織論を重視しているの意。


全学連と全共闘の違いは、「ノンセクト」と呼ばれる党派に属さない一般学生が結集したことによる。この全共闘運動も主体となっているのは全学連であり、学生自治会であったが、一般学生の共鳴を集めた大学紛争の意味合いが強いという。

全共闘は1968年に日本大学と東京大学で全共闘が結成されたことによる。有名な東京大学・安田講堂立てこも事件、あの、バリケードが張られ、機動隊の放水攻撃に遭ってている有名な映像は1969年ですね。因みに、この全共闘運動には全国の大学の8割が参加していたという。熱かったらしいのだ。


◆日大全共闘

1968年2月、国税庁が日大の使途不明金20億円を摘発する。学生運動は大学自治権を巡るものでもあったワケですが、この日大の使途不明金20億円を巡って、学生らが大学側に乱脈経営と管理体制に抗議活動を展開。

同年5月21日、日大では討論集会が開かれ、翌22日、学生らは学側への抗議文を提示の上、突き付けた。それに対して大学側は抗議文を破棄するという対応を取った。翌23日、約2千名の学生が二百メートル程度のデモ行進を行なった。

同月25日、日大はデモを首謀していたと思われる学生15名に処分を課した。しかし、この大学側の対応が学生らの不興を買い、27日には1万人もの学生が集まって決起集会を開いた。これが全学共闘会議、略して全共闘の始まりとなった。

大学側は体育会系の学生を使って全共闘派学生への恫喝(暴力も?)を展開する。対して、全共闘派はバリケード闘争を展開する。

この闘争は延々と続き、9月30日に大学当局は全共闘派学生との団体交渉に応じることとなり、日本大学は全理事の退任などの学生の要求を飲むという経緯を辿る。

しかし、この日大全共闘の団体交渉の結果に、当時の総理大臣である佐藤栄作が懸念を示す。反動保守団体も呼応する姿勢となり、日本大学側は10月3日、団体交渉の確認事項を破棄。更に、日大キャンパス内に凶器を手にした右翼団体構成員が乱入して全共闘襲撃を行なうという展開へ。対抗する学生らの装備がヘルメットやゲバ棒としてシンボルになる。

ノンセクトの学生を含む全共闘がどの程度、凶暴であったのかはさだかではないんですが、このキャンパス内の武力衝突には機動隊も介入。全共闘は機動隊の登場に、「オレ達を助けに来てくれた」と思ったが、そうではなく、機動隊は右翼学生の援護に回ったという。

連鎖反応が起こり、全国的に学生運動が隆盛となる。1968〜1969年にかけて最盛期となり、全国165の大学で紛争となり、そのうち70校ではバリケード封鎖が行なわれた。この中枢に存在していたのは全共闘であった。また、この全共闘には革マル派のみ不参加であった。

1969年1月、日大に続いて東京大学でも医学部インターン問題に端を発して東京大学全共闘が結成れ、バリケードで封鎖、占拠するというバリケード闘争を続けていたが、大学当局が機動隊の投入を決断、東大全共闘の砦になっていた安田講堂が陥落する。この安田講堂陥落を契機にして学生運動は沈静化していった。

1970年2月25日、日本大学商学部の男子学生一名がビラ配布中に体育会系の右翼学生の襲撃を受けて撲殺されるという事件が起こっている。

以降、大衆運動であった学生運動は、急進派による武装化が進み、過激派闘争という舞台へ、学生運動そのものも破滅へと突入してゆく。

ussyassya at 01:13│Comments(3)TrackBack(0)政治史など 

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この記事へのコメント

1. Posted by 山童   2018年01月12日 01:51
相変わらずメロンぱんち様の記事は面白い。
ただ……バクーニンやレーニンの話に比べて、
なんか読者的に⤵️なのは何故でしょう?
私が年甲斐もなく血の気が多いって事か?
そうではないと反論したいですけどね。
テルアビブ空港のような惨劇を期待する気持ちはないが、海を超えた連中に比べて、こいつら本気でなく、時代のファッションだったんでねーか?て疑念が尽きない!
本気で国家と対峙する覚悟があるならば、
東京湾で原油タンカーをジャックして、原油をブチ撒いてやるぞとか、原発を占拠するとか、戦い方はあったはず!
結局、オウムと同じで本気でなかったんでしょう?
レーニンやバクーニンに比べて、メロンぱんち様の筆力でも、伝わってきませんね。
2. Posted by 山童   2018年01月12日 01:53
あ、言っておきますが、解放されるチャンスに接しながら、敢えて拒否して服役した人は
別として頂きます。
3. Posted by メロンぱんち   2018年01月12日 09:59
山童さん>
戦後日本の大衆運動の主人公は特権階級である学生が主役の学生運動なんですね。労組との連携も模索しているものの、主役は大学生であるというところに非力さがあるのかも知れませんね。50年代はエリート候補生による叛逆という感じでバンカラですが実は凶暴ではない。60年代になると日本に限らずベトナム戦争の影響で全世界的に反米ムードとなっていたのでノンセクトの一般学生を取り込むことに成功した。70年代まで学生運動は続きますが、春名幹男さんが米国機密文書を調べたところだと沖縄返還などは日本国内の世論が左傾化している事を危惧して返還に踏み切ることになったとしているので、多少は影響力があったのかも知れませんね。実際、当時は中道左が唯一の正義だったでしょうし。

と言いながら、80年代になると「なんとなくクリスタル」のようなトレンド、大学生の知的好奇心はそういうトレンドに流れてゆき、ノンセクトどころかノンポリ全盛になってゆきます。カッコイイかカッコワルイかが価値基準になってゆく。

どこか裕福というか、ギラギラとするものを失っているというか、そんな風にも感じられますかねぇ。

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