2018年03月08日

王朝が重複していた可能性について

網野善彦×鶴野俊輔『歴史の話〜日本史を問い直す』(朝日文庫)には、次のように網野が語っている箇所がありました。

日本では七世紀末に天皇の称号がきまるまえの王を「大王」(おおきみ)といっています。ところが『今昔物語』に、関東のほうに「大君」(おおきみ)といわれている人が出てくるんです。十一〜十二世紀のころにもまだそういう言い方があらわれている。

平将門(平安中期の武将。東国に独立国をつくろうとした)は明らかに王ですし、鎌倉幕府や室町幕府の将軍も王権といってよいと思います。琉球にも独自の王権があり、北海道にも「夷千島王」のように王権らしきものがある。それだけではなくて、九州、四国、東北などの諸地域にもそれぞれ王権ということのできるような犢訛沖瓩いたと思います。


やはり、コレなんですよねぇ。一定の視座から成る史観を踏襲することなく、リアルに日本列島の古代史を考えるとなると、どう考えても現代人が考える日本国の成立は蝦夷との争いが松前藩の時代の頃まで続いている。いやいや、奥州藤原三代とかって、言ってしまえば、日本列島の中に別の国が存在していたという事ですやね。平将門にしても、中央政府の論理からするとクーデター以外のなにものでないのですが、当時は、東国であり、中央政府の統治が曖昧であった事が伺える。「関所の東」だから「関東」だったのだし、また【坂東】にしても「相模国の足柄の坂より東」の意味で「坂東」と呼んでいたことは容易に確認できてしまう。

足柄峠、碓氷峠といった坂の東を指しており、上古では東国は「吾嬬」(あづま)であったという。奈良時代になって「坂東」と呼ぶようになり、鎌倉時代以降になってから「関東」という呼称が一般化したという。

となると、これまた、現代の関東人のアイデンティティーというのは一筋縄ではない事になる。中央政府は、こういう歴史観に対して警戒感を持っているのでしょうけど、事実はどちらにあろうかと考えれば、言わずもがなという事になりそうですかねぇ。

数年前から、幕府の定義が変わりましたよね。幕府とは何ぞやという定義をしてみたところ、戦国時代に足利義昭が織田信長と対峙する過程の中で、広島県の鞆の浦に拠点を構えていた時期があり、それを瑁殍詆椨瓩班集修垢襪茲Δ砲覆辰拭3里に、そういう風に相対的に語るべきものが歴史なのかも知れませんやね。また、鞆幕府の例を挙げるまでもなく、南朝と北朝とに分かれた南北朝時代がある。それらを念頭に置くと、当然、日本列島の古代史で中央集権体制が確立する完成途上には様々な勢力が、指揮系統を一本化されぬまま、その地の王であったという可能性が考慮しなければならないワケですね。つまり、その地では堂々たる王なのですが、日本史を語る場合に使用される中央の視座立った場合から、その地方の王は「在地豪族」のように認識される。奥州藤原三代などは、明らかにこれでしょう。日本列島には堂々、二つの政府が併存していた。これをアタマでは理解できているつもりになっていても、深い考察に、これを用いる事を軽んじていたのではないか――という事もできてしまうワケですね。

で、やはり、鳥越憲三郎や谷川健一らが、それか、それに近いものを示してみせた。鳥越は実在しなかったであろうという欠史八代の天皇を葛城王朝と比定した。これは中々に画期的なんですね。ホントは、そのように考える方が自然のようにも思える。既に古くなってしまった説とも言われますが、鳥越は神武から葛城王朝、崇神天皇からは三輪王朝(イリ王朝)、神功皇后以降を河内王朝のように王朝が交代したという視点をみせた。しかし、これは時間軸を歴代天皇に合致させてタテに並べた場合の話であり、ひょっとしたら時間軸としては並行して王朝があったケースというのも考えられる。

それら先人の功績を偉大な功績であると認めた上で、近年では関裕二さんあたりが色々と説を立ててくれている。鳥越説を関裕二さんに倣って、最新の呼称にアップデートすると、以下のような感じになるんでしょうか。

歴代天皇には和風諡号(わふうしごう)があり、その和風諡号の中にあるワードで推理する事が可能になる。

◆イリ王朝(三輪王朝)
これは第10代の崇神天皇の諡号がミマキイリヒコであり、第11代の垂仁の諡号がイクメイリビコのように【イリ】がある。歴代天皇に充てると、第10代と第11代。

◆タラシ王朝(河内王朝?)
第12代の景行天皇はオオタラシヒコ、第13代はワカタラシヒコのように【タラシ】がある。鳥を追ったヤマトタケルは、オオタラシヒコ(景行天皇)の子である。また、応神天皇を生んだとされる神功皇后の諡号はオキナガタラシヒメである。歴代天皇に充てると第12代から第14代まで。因みに第14代は仲哀天皇(タラシナカツヒコ)である。

◆ワケ王朝(応神朝、河内王朝?)
御存知第15代応神天皇はホンダワケ。第16代の仁徳を飛ばして第17代履中はイザホワケであり、第18代反正はミズハワケである。

神功皇后(もしくは住吉大神)によって「新羅を授ける」という御宣託が出るもタラシナツヒコは従わず、神罰に触れて没したとされる。このタラシナカツヒコ(仲哀)はヤマトタケル(日本武尊)の子である。つまり、この後に、神功皇后の子である応神天皇の時代が始まっている。

応神天皇については、なんとなくイメージできるところでしょう。最後に九州地方から東征して畿内に入った有力者。神功皇后のクダリがあるので、どことなく日本古代史に当て嵌まる箇所を見つけられそうですかね。

こうしたときに、どれが出雲王朝で、どれが仮称するところの物部王朝にあたるのか、これまた、厄介にも感じる事になりますが。また、これに対して、時間軸をタテにして王位(皇位)は常に一つであったという風に並べるよりも、適度に併存していた可能性をも考慮してゆく必要性があるかも知れないませんやね。以降、歴代天皇の諡号は、色々と混雑しはじめるように見える。

ussyassya at 11:59│Comments(13)謎解き古代史 

この記事へのコメント

1. Posted by 山童   2018年03月08日 14:30
納得です。メロンぱんち様が仰るのは、
ここまでイリ朝。あそこからワケ朝…みたく、一本のテープにパチンパチンとハサミを入れるような切り方はしないって話ですよね。むしろパラレルに王朝が存在していた。
日本は中国みたく広くはないけど、真ん中を山脈が走り、場所によっては北南中央アルプスみたく山脈が平行して地域を寸断してる。
山や谷を越えたら実行支配が及ばないなんて場所はざらですよね。中央政府機関がなくても生活はあるんですから、統治して祭を仕切ったり警察するボスは必要です。
日本全体をガチっと治めてゆくのは徳川からだと思うすよね。ならば中央集権体制が確率するまでは、地方ごとに実質王朝があったとされるメロンぱんち説が正しいですよ。
現に応仁の乱から信長の天下一統までの100年がまさにそういう時代だった訳だし。続く
2. Posted by 山童   2018年03月08日 14:45
なんでそう思うかと言うと、継体天皇なんですよ。応神天皇子孫の何たら王の子供で、母方の近江で育てられて近江を統治してたと。
……先ず変でしょう。
古代中国がそうすけど「王」って強い王朝が成立した時に、朝廷の統治圏の外側に、皇帝の外戚を王として封国し、中央を護らせるシステムですよね。徳川御三家みたいな。
父の統治地域ならともかく、勝手に母方の近江を統治してましたって、それ王権と切れてる勢力て事ですよね?
さらにこの人、なんで即位してから大和に入るのに20年も掛かってるわけ?
ヤマト王権に逆らいこそせぬでも、言いなりにはならない非ヤマト政権が各地にあった。
ヤマトも無視できない力があった?
力が一元的なら、とっとと大和国にはいってもすよね?
彼らを意見調整して、時には腕力でぶちのめし、時には賄賂で懐柔して、そうしないとヤマト王権の首長たるを認められない。
そういう事情だったのでは?
だったのでとすると、メロンぱんち様が仰るように、事実上の王朝権力がパラレルに存在した。彼らは単なる豪族ではない。って話しになりますよね?
3. Posted by 山童   2018年03月08日 15:37
盲説) 20年あまりかかった……

継体天皇、実は地方政権の事実上の王だと。
で実は大和に攻め上って天皇の地位を簒奪した王であったなら?
Webで調べると現天皇家と繋がりが認められる最古の天皇ですって。てことは、彼以前には万世一系ではない。極端に言えば力のある奴が天皇になった。
まだ朝廷ではなくヤマト王権の長で、鎌倉幕府の将軍みたいなものだった訳でしょう?

その前の何たら天皇ってサイコな訳すよね。
妊婦のお腹を割いたとか……
実際に危ない君であらされたのかも知れませんが、入京に19年もかか天皇の直前がサイコ野郎って話が出来すぎてません?
武力で強引に地位についた簒奪者なら、その程度の捏造はする。
それに武力でヤマト王権を奪った人なら、
「征服に19年かかった!」と考えれば、
論理的破綻はないと存じますが。暴走妄想かなぁ?
4. Posted by メロンぱんち   2018年03月09日 01:23
武烈天皇と継体天皇との間は、かなり昔から不審と指摘されていたようですね。武烈天皇のエピソードが酷すぎて、継体天皇の断裂を埋め合わせる為に故意に作られたエピソードなのでは――と。妊婦の腹を裂いたの記述内容も、中国の古典から流用したのではないか――と。

そもそも【継体】と名前を当てていますし、畿内に入るまでに時間もかかっていますよね。

ただ、継体は「越」、北陸の方からやってきたことになっていますが、ちょっと引っ掛かるのは出雲系との関係でしょうか。四隅突出型古墳の分布も気になりますが、勢力図としては、畿内が混乱する以前から越と尾張は国津神系で古い勢力であった。畿内が混乱したので、招聘された可能性は有り得るのかなと。

前期とは全く違うのが関裕二氏で、雄略天皇以降、5世紀末の前方後円墳は畿内と関東地方がずば抜けてている。継体天皇は后は尾張出身であり、全体的には西日本ではなく東日本の何かだというんですね。継体天皇が抑えていた越や近江は畿内以上に栄えていたと思われる王冠なども見つかていて最先端であったのでは、という。そう考えると東国が西国を捩じ伏せた何かだったのではないかと述べていますね。
5. Posted by 山童   2018年03月09日 01:58
あ、四隅突出方墳て四角のヒトデみたいなやつですよね? 異様な形のやつ。
あれの分布て気になりますね。
出雲は前方後円墳より前方後方墳が多いようですね。円が四角な訳で。
関係があるのですかね?
それとやはり異質な形態ですよね?
あそこに半島とかから来た渡来人の文学とか…。四隅突出方墳はヒトデの触手にあたる部分が東南西北を表していて、これに中を入れると五行すね。で、中国人て四角フェチなんですよ。都市計画は必ず方形にする。
城塞都市から発展してるからなんでしょうが。日本人は吉野ヶ里から戦国まで「壕」ですからね。空壕か水濠の差はあるけど。
中国てか大陸は壁にしますよね?
だから四国フェチなんでしょう。あの四角てのが気になりますね。
朝鮮半島に四隅突出方墳はないのかなぁ?
こういうのを言うのは、我々はついつい幕末の黒船以後で考えるとから「表日本」を太平洋側と考えるでないすか?
でも古代は大陸や半島との関係から、日本海庄や側が表日本なんすよね?
ただし出雲は別で。九州に到達以後は、河内平野の方向から瀬戸内海を船で来るから、日本到達後は出雲は側は大事でおるとり

6. Posted by 山童   2018年03月09日 02:08
そう言われれば尾張とか、あの辺は坂東じゃないけど東国なんですね古代人にしてみれば。私はヤマト王権より先に東に向かった勢力があるのでは?というメロンぱんち様に同意なので、継体天皇が西征した説は頷ける気がします。
7. Posted by 山童   2018年03月09日 02:54
四角フェチ話。
壁で覆うとすると立体ですから、経済的に最短を結ぶ直線になりますよね。
城塞上を兵士や物質が移動するから直線フォルムの方が防衛的でもある。
でも壕とかは長い溝ですから、曲がっても困らない。壁と違って壕の中に兵士を置かないから歪曲がある方が、内側からの防衛にはてきしていると。
塹壕は中に兵士を入れる溝ですけど、あれは近代戦の産物ですから度外視してよしと。
その辺の曲がりくねる壕と、直線の壁の違いが両者に美学の差を産んだとしたら、
あの四隅突出は大陸または半島の美学な気がするんですよねえ。
8. Posted by メロンぱんち   2018年03月09日 04:42
まだまだ確認しなければならない話も残しているのですが、確か四隅突出方墳は次第に前方後円墳に駆逐されてゆくんですね。単純にそれを読むのであれば「ああ。出雲王朝が衰退して、ヤマト王朝の前方後円墳が主導権を握ったのだろう」と考えることになる。

しかし、この継体天皇は、越から畿内に迎え入れられており、且つ、近江にも支配権を持っていた。確か近江には安曇氏であるとかの痕跡がある事、また、元々は出雲と繋がりが強かった国津神系が越であり、尾張なんですよね。

ひょっとしたら、神功皇后&応神といった九州勢が畿内を支配した後に、東国に避難していた旧出雲の勢力が巻き返しているようにも疑える気もするんですね。応神の6代孫が担ぎ出されたというのは不自然ですが、当然、応神の血縁、6代孫か否かはあまり関係なく、旧支配者層としての東国が再び九州勢から畿内を奪還したと考えるべきではないのか――等と思案中です。
9. Posted by メロンぱんち   2018年03月09日 04:43
あ。安曇氏って、音は「あずま」ですね。安曇野って近江でしたっけ? 2〜3年前に北魏の装飾様式をした環状ナントカ太刀が発見されて騒ぎがあったような。
10. Posted by 山童   2018年03月09日 10:51
うーんと、令制時代の安曇郡だと、越中、越後、飛騨の国境に位置するようで、美濃には被らないかなぁ…ですね。
近江には飛騨と美濃が間に入りますね。
11. Posted by 山童   2018年03月09日 11:08
しかし継体天皇が越の王であると。これ越中にほぼ安曇郡は接してます。で、近江にも支配地を持ってると。
近江ったら琵琶湖な訳で。
安曇は確かに「あづま」にも似てるし、安曇氏て宗像みたいな海人族のですよね。
古代の日本は表日本は対外的には日本海側でしたと。そして日本海側を海流を利用して、
青森あたりまで弥生人は行ってます。稲が出てるんですよね。
越に向かう制海権 、琵琶湖の制海権、尾張や美濃平野。この一帯で勢力を持つ国津神系がいたら、かなりな通商権と富を握るでしょうね。後世の本願寺とかが勢力が巨大だったのも、滋賀県の琵琶湖の通行と関所を握り、
河内長野平野経由の瀬戸内海との連絡路を握っていたからでしょう?
尾張の米が取れず養蚕(絹)に頼っていた信長ば、だから京都市場と畿内の通商路を握るでしょうね。為に本願寺を叩いた。
継体天皇が越と近江を持ってるなら、軍資金と機動力、それに水軍は持ってるから、充分に畿内を狙えますね?
12. Posted by 山童   2018年03月09日 11:19
安曇や宗像の海人族がどっから来たのかは解らないのですが、近江の琵琶湖にしても、
越の日本海にしても、海や河川を行き来する
能力が統治に関係あると思うんですね。
物流や物流経路を握るてのは、やはり地方権力でも天下を狙える下地になりますから。
国津神が天孫に追われて、そっちに逃げていたのが地力をつけて、奪回したのが継体天皇と眷族…とメロンぱんち様のコメントで妄想を拡げてるんですが。
13. Posted by メロンぱんち   2018年03月09日 13:53
安曇氏の箇所は明らかに検証不足なんですが地理的に飛騨と越であれば、言わんとした事からは外れない事に成りますかね。私が「近江」と言ってしまったのが誤まりで。

要は琵琶湖方面からだと畿内への侵入もできただろう、と。で、実は、これ、関裕二氏の説ですね。安曇は違いますが、5〜6世紀は東国に勢いがあったと見るべきで、それが継体天皇で証明できる、と。

安曇氏らは難波から日本各地に広がっていた豪族として語られていますね。海人族です。が、それ以前に「越」というのはヒスイが出る関係で出雲勢力と関係が深かったとされていますね。畿内に入ってきた何かに対して、再び東国の逆襲があったのではないか、と。

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