2018年03月09日

葛城王朝説について

「日本書紀」には、神武天皇が腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登って国見をした際に述べられたという言葉が記されているという。

あなにえや(研哉)、国之獲矣(くにみえつ)。

内木綿(うちゆう)の真迮国(まさきくに)といえども、なお蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)せる如くあるか。

これによりては始めて秋津洲(あきつしま)の号(な)あり。


これを現代語に訳する事は要らぬ過ちを犯す原因になるので省きますが、「あなにえや」は感嘆の句であり、「まさきくに」は察するに「真幸くに」と推測できる。「あきつのとなめ」とは蜻蛉が尻を舐め合うように交尾している平和な様子の描写。そして、神武天皇は「これによりて初めて秋津洲と名づけた」という感じの言葉を宣(のたま)われたという。

で、問題になるのは、その解釈ではありません。文脈からすると、神武天皇が国見をした丘が重視されるべきである。つまり、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)という場所に立って、国見をしたと記述されているのだから、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)が何処であるのかが重要になるだろう――と。

いきなり、挑発的な冒頭になりましたが、これ、昭和45年刊行の鳥越憲三郎著『神々の天皇の間』朝日新聞社に記されていた内容であったりします。既に絶版になっていると思われますが、何かと鋭すぎる考察だなと驚かされる。

さて、勿体ぶらずに話を進めます。神武が国見をした丘であるという、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)とは何処かという問題に絞られるワケですが、ズバリ、奈良県御所市掖上であると言及している。御所市掖上字柏原は元々は柏原郷と呼ばれており、地理的にも名称としても非常に紛らわしいが奈良県橿原市ではなく、御所市の柏原であり、御所市掖上には字(あざ)本馬(ほんま)があり、どう考えても、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)とは、現在の奈良県御所市掖上字本馬である。よって、神武天皇は掖上本馬の丘から国を眺める犢餮瓩箸い行為をしていたことなる。となると、その丘に立った神武は、蜻蛉が交尾している様子からその地を秋津洲と名付けたことになったと解釈できることになる。(【ほほま】と【ほんま】は違いますが、どう考えたって訛った言葉ですやね。【掖上】と【腋上】の一致の方がヤバいのであって。)

「神武天皇は実在していなかったであろう」という見解が定説化している中にあって、鳥越憲三郎は果敢にも「神武天皇及び欠史八代の天皇は、仮に名付けるなら葛城王朝とでも呼ぶべき、葛城氏の王朝のことである」と提唱してみせた。思うに、何故、これが昭和45年に発刊されていながら、その後も延々と「神武は実在していない」という歴史観が定着してしまったのか、物凄く不思議に感じますかねぇ。神武天皇に関しては、飽くまで九州出身の天皇として哲学者・梅原猛の分厚い文庫本を一冊目にした記憶がありますが、私が思うに鳥越憲三郎の指摘、歴史観はずば抜けているように思える。(既に別件として重要な事柄に気づかされてしまった感慨もさえある。)

更に、話を続けますと、必ずしも神武天皇という人物もしくは神が実在したかどうかも関係ないと鳥越は続けている。日本書紀が記された其の時期に、其の地が初代天皇と深く関与していると感がられていたからこそ、その記述が成立しているのだと指摘するんですね。文献史学を超越した多元的視点で発想されているの、分かりますよね。網野善彦が多元的な視座を持っていない歴史家は大成しないと鶴野俊輔に語っていたようですが、まさしく、その多元的視点を持っていた人物こそが鳥越憲三郎博士であったように思える。

因みに日本書紀には「豊秋日本」と表記して「とよあきつやまと」と読ませたり、古事記にも「大倭豊秋津嶋」、「大日本豊秋津洲」と表記して「おおやまととよあきつしま」と読ませていたりする。皇統を肯定するのであれば、元々の我が国の名称は「ニッポン」でもなく「ヤマト」でもなく、「蜻蛉嶋」、意味合い的には「トンボの郷」であったのかも知れませんやね。別に「とよあしはらみずほのくに」ってのもありますが。

第2代・綏靖天皇について、日本書紀は「葛城に都をつくる。これを高丘(たかおか)宮という」という記述があり、古事記の方にも「葛城高岡(たかおか)宮」の記述があるという。いずれもタカオカですが、これは現在では「高宮」(たかみや)に比定でき、その高宮の地とは葛城山麓にあり、一言主命神社付近であるという。

そして第6代・孝安天皇の時代に「秋津嶋宮に都を移した」旨の記述が日本書紀にあるという。古事記にも同じ事柄の記述と思われる「葛城室之秋津嶋宮」があるという。これは現在の御所市秋津に比定できてしまい、そこには武内宿禰の室大墓があり、ここは御所市秋津大字室という住所になっていると思われる。この【室】とは【牟婁】のことで、岩屋のことであるという。その室大墓というのが前方後円墳で、長さにして約238メートルであるという。

神武が都としていた場所を宮と呼ぶのであれば、それは掖上柏原に王宮があったことになり、第2代・綏靖は高宮、第6代・孝安が秋津嶋宮のように当て嵌めてゆくと、初代から第9代までの天皇(神武+欠史八代)は全て、葛城地域に王宮跡を比定できることとなり、それによって鳥越は(仮称としての)葛城王朝説を展開させていた。

また、綏靖天皇の際に登場した高宮(高丘宮・高岡宮)は、葛城氏の本拠であったという。そして葛城氏として分かり易い人物の筆頭は何といっても葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)でしょう。この葛城襲津彦は「百済記」にも【沙至比跪】とみるのは既に定説化している。おそらく音(おん)は「ソツヒコ」か、もしくは類似した発音なのは自明なのだ。そして、その葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后になっている。

仁徳天皇は磐之媛との間に、第17代・履中天皇、第18代・反正天皇、第19代・弁恭天皇を設けている。しかし、仁徳天皇は磐之媛が留守の間に、別の后を宮殿に迎え入れてしまった為に、磐之媛は宮を出てしまい、仁徳天皇から難波の宮へ帰るように請われるも拒否したという逸話が日本書紀に挿入れている。

で、一代飛ばして、第21代が雄略天皇となる。この雄略天皇は葛城山で一言主と一緒に狩りをしたが不敬があったとして一言主を土佐へ移してしまったという話が「釈日本紀」にある。これに類する逸話が確かありましたよね。また、雄略天皇は皇位継承争いの元になるライバルを次から次に殺害した覇権型の天皇であった事も様々な記述から分かる。更に雄略とは「倭王武」であるという見解は定説化している上に、埼玉稲荷山古墳から出土した鉄銘剣の主・ヲワケが仕えていたのが、ワカタケルであり、つまり、雄略天皇である。

前段で、ワケ王朝もしくは河内王朝という分類方法に触れました。諡号で分類が可能なのではないかとする見方ですね。で、第15代・応神天皇はホンダワケという諡号を持ち、第17代の履中天皇はイザホワケであり、第18代の反正天皇はミズハワケである――と。一つだけ飛ばしたのは第16代・仁徳天皇です。仁徳天皇の諡号は「オオサザキ」で【ワケ】が諡号に使用されていない。特異なんですね。で、その仁徳が后として迎えたのは葛城襲津彦の娘の磐之媛であった――と。

(20代・安康天皇を省いた事には深い意味はありませんが、雄略天皇と関係している。安康天皇は讒言を信じて不興を買い、眉輪王に殺害されてしまう。その眉輪王を殺害して皇位についたのが雄略天皇である。)

そして葛城の地には曽我川が流れ、そこが後に悪役として描かれる蘇我氏の出身地でもあると鳥越憲三郎も指摘している。

ussyassya at 13:38│Comments(44)謎解き古代史 

この記事へのコメント

1. Posted by 山童   2018年03月09日 22:49
ぜんぜん勉強が追い付きませんで。
神武天皇の存在否定は皇国史観への反発が戦後の歴史学者にあったからでは?
思うんですね。現実に史学出身で予備校とかで教えている人のサイトでも、良くも悪くも
安倍叩きが好きな人が常連ですもの。
私は別にシンゾー君が好きではないが、何でもかんでも安倍が悪いの人って、なんでもかんでも「シナが悪い」反中の人と同類だと思っいるので。で、話を戻して。
神武以後は8代が厥史ですね。たしか宮を設置した場所と、妃の出自くらいしか記録されてないのでは?一度、日本書紀と古事記はきちんと目を通さないとなぁ…
でも北九州から東征してきて葛城に入ってるのですから、記載しない程に平和に8代が経過したのですかね?不思議に思います。
それと先の継体天皇ですが。
たしか大伴氏に支持されてた人ですよね?
即位したら当然に大伴を柱にした政権になる。で、臣姓の蘇我と連姓の物部がツルんで
大伴落としすると。
継体の後、安閑、宣化、欽明と、やけにバタバタしてません?
幾ら平均寿命が短い時代でも。
擁立に大豪族間の暗闘があって、その時に手を繋いだ蘇我と物部がやがて対立軸になってゆくという事なのですかね?

2. Posted by 山童   2018年03月09日 23:17
もう一つなんですが、継体天皇が19年もうろうろしている時期って、北九州で磐井て豪族が派遣を拡大してますでしょう?
あれ、関門海峡を抑えられると、半島からの鉄器が畿内はアウトすると思うですよ。
鉄器って、最初は加工済みを輸入して、次に鉄塊や古道具古武具を輸入して、鋳潰して再生産する。製錬による鉄製造までは、どこの国でも二番目の屑鉄再生産の次期が長い。
磐井の覇権が鉄資源(スクラップ)輸入を閉ざす可能性が、継体を擁立した?
この大王の婚姻した妃の出身地をしらべてみました。すると、越で倭姫。あと近江、高島、坂田と琵琶湖周辺に北河内の豪族の娘。それと尾張すね。
どこも海運や水運と関係ありそうです。海人族の由来の感じがする。越は九州経由しないで大陸にアクセスする場合の玄関ですし。他は琵琶湖。太平洋に面した尾張もある。
九州に進撃するには必要な水軍と関係?
磐井は新羅とツルんでいたというから、かなり鉄資源を独占したのでは?
それが経済封鎖みたく畿内の豪族を追い詰め、結果として20年もドサ周りしていた継体天皇を一気に押し上げた?
しかし、そうだとすると雄略天皇みたいな独裁型軍人大王は最後で、ここから天皇親政が凋落していったと観るべきすかね?
3. Posted by 山童   2018年03月09日 23:23
あ、つまらない質問なんだすが。
秋津に昔、住んだ事があるんす。トトロの舞台のモデルは東村山の八国山ですけど、この付近には湿地の緑地公園があって、鮎が泳ぐ川も流れてます。宮崎駿監督はこの公園を歩きながら構造を練ったそうです。
蜻蛉が沢山飛んできて、和やかですよ。
秋津って地名に関係あるかも知れません。
4. Posted by 山童   2018年03月09日 23:40
私はメロンぱんち様の「たたら」の分布のご意見に賛成なので、すでに鞴を利用した鉄を鋳潰す技術はあったと思うです。
ただ、それでは鋳鉄しか作れない。砂鉄での鋳鉄はノミや剣にはむきません。
鉄鉱石を製錬し鍛鉄は飛鳥あたりまでは無理だと思うのですよ。中国ですら秦は青銅剣で
(但し強度は高い)、鉄剣や武器が完全に入れ替わるのは前漢からなんですね。
やはりスクラップを輸入して鋳直していた。或いは叩いて鍛えた。と思うですが。
すると輸入で、水運水軍と湊って話しになると思うんですよ。
5. Posted by メロンぱんち   2018年03月10日 00:50
山童さん>
大伴、物部、蘇我の関係の基本線は、そんな感じになりますよね。

蜻蛉については鳥越憲三郎も論考していて、農耕民は蛇を信仰したり、農耕にとっての利害関係でトーテムにしていて、トンボもそれに当て嵌まる。秋の実りの豊かなイメージのようですね。

継体天皇については私もまだ熱心に見ていませんが、鉄器の出土の話で、『弥生時代鉄器総覧』という資料があるそうです。

”毀世ら1世紀中頃まで

■雲さ後半〜2世紀

3世紀初期〜中期

という時代区分で出土した鉄器の数量を著した図が作れるそうなのですが、全ての時期に於いて北九州が断トツで、それに次ぐのが九州の西側、それに次ぐのが九州の東側。

東海地方はゼロに近く、畿内も総じて低調、中国地方でようやく北九州の3割から2割5分ぐらい。で、これは越になるんでしょうか敦賀付近、ヾも期もごくごく僅かなのですが、4になると北九州、九州西側に次いで、急に第3位に躍り出ています。何か、急激な鉄器に関する変化が読み取れそうですかね。その他では現在の岡山県、兵庫県あたりの鉄器出土数が山口県あたりと逆転します。また、これも不思議なんですが、大阪は3世紀に入ると鉄器が出土しなくなるのですが、少し内陸に入った奈良県の西部か中央部あたりで鉄器出土数が増えています。その特殊な増え方は、敦賀あたりと似ていますかね。
6. Posted by 山童   2018年03月18日 21:08
実はメロンぱんち様の推薦図書も全ては読めてないのですが、あー、取り敢えずアレコレ読んで勉強した事がメロンぱんち様の見識に合致してるか尋ねたいのすが。
問題点を明記しておきますと、あたいは古代史がひとつづりの物語になってません。
こう記伝体なんすね。編年体な年表的な流になってないのが問題点なのです。マダラだし
物によっては前後関係が不明だたりする。
そこでスゴく平たく書きます。

あー一万年くらい縄文時代があったと。恐らくは氷河期が終わり始める1万2000年前から、地球の気象条件が安定する8000年前くらいまでには開始してる。
んで縄文人も別にボケー(゜ρ゜)と一万年を生きてた訳でなく、土器による加熱調理や、栗の木を栽培したり稗やアワの雑穀、場合によっては稲作も始まっていた。
んで最大BC1000〜BC300年間の何れかに、金属器を使用して、大規模に稲作する弥生人が大陸や半島からやってくる。
その頃に恐らく縄文人は最盛期の4分の1まで人口が縮小していた。
で出自はとまかく100以上の小国に分かれた。中国の前漢時代AD50年頃に朝貢に来ていると。その後も後漢朝の創立者の光武帝の時にも来てる。その後、中国は後漢末から三國志の混乱期で通信途絶える。続く


7. Posted by 山童   2018年03月18日 21:20
して3世紀。200年代に倭国大乱!
20年〜 半世紀くらい動乱。邪馬台国の卑弥呼なる女シャーマンを王とする事で連合国家が成立して乱世は収まる。卑弥呼は魏に朝貢しておると。コレが倭人伝。
で、娘の台与が地位を継いだ。これは魏朝の後継者である西晋へ台与が使者を出してるので記録されてる。
それで彼女の在命中か以後か?だが、女王なよる神権政治では収まらない、軍事や政治のリアル化が行われ、邪馬台国は北九州から東に撰進する。邪馬台国が仮に畿内でおれば、
それ以外の勢力が東に向かった。どったにしても北九州から河内平野方向に権力と技術の移動があった。続く
8. Posted by 山童   2018年03月18日 21:31
ここまでが3世紀末。台与の大陸での記録が3世紀末だから。
で、西晋の記録に何もないので、邪馬台国か他の国かとにかく東進の後に神武天皇現る。
邪馬台国または別納勢力の後に、おそらく4世紀に神武が東征して畿内に入る。
これが周辺各地を併合したり冊封体制に入れてヤマト王権が起きる。その間か後か知らんけど、出雲の国譲りだか強奪だか起きる。
おそらくは広域連合国家であった出雲王朝を与しく事で、ヤマト王権は強大になり、大王は次第に権力を増してゆく。しかし、仔細は皆目わからない。4世紀に文献なし。
5世紀になり、ヤマト王権に冊封するフランチャイズとして、各地の王だか士豪だかが古墳を作るようなる。以上、今日はここまで。
これまでの所、問題はないすか?
合致してまっか?
9. Posted by 山童   2018年03月18日 21:48
あー、国譲りは神武後に思うてます。
神武東征も中国の記録なないから邪馬台国もしくはXの東撰以後。
そして定説ではないがメロンぱんち様と合意してあるのが、神武以前に出雲を中心とした連合王権が存在した。出雲後にそれらに属した国や、出雲から派遣または認知された行政官や軍団長が、ヤマト王権に冊封する。
これによってヤマト王権は急速に拡大し、大王の権利は巨大になる。
山童的には、西ローマ妨害後にフランク王国が出来る過程と似ている。
つまり出雲国譲り後、出雲の地方自治体や属国は、知事の下で当地自衛隊で地方軍閥化していた。これをヤマト王権の下に冊封してゆくのが大王の戦い。おさらく出雲を別格な扱いとせねばならなかったのは初期フランク王国が、イタリア半島先端に残った法王を利用して、他のゲルマン諸族を束ねていったのと同じでは? つまり権力と権威を分離するやり方は、武士の登場以前からある日本の特徴なのでおると。これが山童説の部分です。
10. Posted by 山童   2018年03月18日 22:20
補記2
現状ででの話ですが(入力少な過ぎで)、
九州説にせよ畿内説にせよ、邪馬台国が発展してヤマト王権になったとは思ってません。
神武東征を邪馬台国東へ(もしくはX国東へ)の後と捉えるか、否かで話が変わ気がします。
しかしですね、漢朝から使節を送ってるって事は、最低限でも20人くらいが漕走できる構造船があった事です。少なくとも朝鮮半島にゆける。で、当たり前ですが文明国として認めて欲しいんだから、外交文書は粗末でも作成したでしょう。読み書きできる倭人もしくは帰化人がいたはず。
て、ことはすね、皇帝側も対応する通訳や地理天文専門官がおったはずです!
あからさまな嘘は皇帝につけないはず。
聞かれれば答えねばならない。そして皇帝の下の官僚は質問するっしょ?
とすると、西晋の記録に神武東征やら、古代日本の民族大移動が記録させるはずなんす。
そうはなってない。
朝鮮半島から文献が出ると良いのだけど。
全く米軍が遺跡を爆撃しやがるから!
遺跡を避けて戦争やれボケ!
11. Posted by 山童   2018年03月18日 22:33
あ、最後に定説に拘るより「メロンぱんち様の見解」が優先ね!
そもそも貴兄の説がワクワクして入ってきてるから。最近、高校の教科書検定が変わり、
それは「歴史問題」ではなく、検証によると。信玄と謙信なんかは地方政権の戦いだから学ぶ必要なしと。
歴史は楽しいかどうかではない!だとさ。
ボケが!
そもそも人文科学で「つまらん!」という事自体が害悪でしょうが!!
それじゃ誰が歴史なんか学ぶもんか!
12. Posted by メロンぱんち   2018年03月19日 01:13
山童さん>
記紀の編纂にしても、古い伝承の断片を編纂をして時系列で書こうとしたものなので、どの逸話がどの順番になるのか、誰がどの天皇になるのか等の部分で、パズルが複雑であるというのが大前提なので、実は私も私なりに組み立てられていないんですよ。

一点、卑弥呼と台与との関係についてですが、この箇所は魏志倭人伝に【宗女】と記してあり、これは「一族の女」(直系)の意味で確定的と思われます。そこには勿論、「娘」も含まれますが敢えて【宗女】と表記がしてある事を考慮すると卑弥呼と台与は母と娘に限定しない方が自然なのかな、と。

倭国は3世紀、共立して邪馬台国の女王卑弥呼を建てたものの、南にある【狗奴国の男王】と相争っていた。3世紀半ばに卑弥呼が死んで、その後に台与に継承した。

ここに登場する「邪馬台国」は神話でいうところの出雲なのかヤマトなのかという問題がある訳ですが、語感からすると圧倒的に後者なのですが、実は出雲王朝が畿内に都を定めていた可能性もあるんですよねえ。そう言われると、その可能性が排除できなくなってくる。青銅器の時代に栄えていた出雲王朝は北九州から中国地方、畿内、北陸、尾張に既に勢力を張っており、且つ、東国にも進出を果たしていた。北九州にあったのは【一大卒】であり、大宰府と同じで都は畿内に置いて、一大卒を北九州に構えていたのではないか――と。吉野ケ里遺跡が出て邪馬台国論争は九州説で決着かと思いきや、やはり、畿内から遺跡が出てくるんですよねぇ。

で、【台与】は「とよ」と読む可能性がありますが、関裕二氏は、これは豊前、豊後という場合の「豊」ではないのかという。まあ、これは【壱与】で「いよ」と読む説もあるので何とも悩ましいところですが…。
13. Posted by メロンぱんち   2018年03月19日 01:39
また、卑弥呼以前に、後漢書で、「東夷の倭の奴国王」が西暦57年に朝貢した記録があり、また、西暦107年には「倭国王帥升」か「倭国王使帥升」、【帥升】については「すいしょう」と読むべきか「すし」と読む説もありますが「すいしょう」が一般的。倭国王の帥升だったとしたら、色々と覆えされてしまう。ですが、この部分、結構、論じられていないんですよね。それから約150年後に、卑弥呼が死ぬという出来事が起こっている。出雲王朝を念頭に置くと、組み立てることそのものが難しくなってくるんですね。

第15代の応神天皇(ホンダワケ)の箇所は分かり易くて、なにがしか九州地方に大勢力が登場している。この応神を神武と混合しているか、或いは崇神と混合しているか、それとも神武、崇神、応神といずれも九州勢であり、九州勢による東征&畿内入りが3回あったと考えるべきかで、悩むことになる。ただ、どれも逸話が似ているんですよねぇ。崇神が一番古くて、その次に神武で、その次が応神という風に並べると私としてはしっくりするんですけどね。
14. Posted by メロンぱんち   2018年03月19日 01:52
神武が築いたものは葛城王朝であり、崇神は三輪王朝と考えてゆくと、実は神武と崇神は併存していたとも考えることが出来てしまう。故に組み立てるのに難義させられる。

その後に河内王朝(タラシ王朝)、その後に応神朝(ワケ王朝)。

白鳥伝説はタラシ王朝? 「ひのもと」は日下なので、タラシ王朝は応神に敗れ、東方へ追われた。そうなると「ナガスネヒコは神武に討たれた」のではなく、「応神に討たれた」とすると合点がゆく。

とまぁ、グダグダです。4世紀以降の流れは私も同じです。応神を最後にして旧体制は冊封に組み入れられてゆく――と。


15. Posted by 山童   2018年03月19日 21:34
その後漢書のAD57と107の生口を朝貢した記録なんですけどね、疑ってはいないのですが、ちと不思議ではあるす。
漢書はAD80年代の成立ですよね。
で、次に編纂された正史は三國志ですね。これはAD220年(後漢滅亡)後に編纂が始まる。
後漢書は南朝の宋代のもので5世紀です。
つまり三國志は当時の「現代史」として書かれています。で、そこには57と107の倭の逸話は書かれてない。そこ気になりません?
確か魏の継承国家である西晋の命令で書き上げられたはず。で、西晋の司馬氏は魏帝から
禅譲で国譲りされてる。元は魏王朝の官僚!
しかも半島の公孫氏を派遣軍大将の司馬氏が滅ぼした事が、倭人が朝貢に来た直接的な原因であります。
朝貢の数の多少は、その王朝の正統性評価に直結します。しかも魏に倭人はかかわり深いのは、西晋王朝の司馬氏の功績であると。
実際、著者の陳寿は高句麗だの半島より多く
字数を費やしています。明らかに西晋の司馬王朝を讃える目的がある。
なのに倭人の57、107は後漢書の東夷伝のみの記載で書かれてない。どっから出てきた?
と思わないでもないです。
漢末は6000万人弱いた中国人が、おそらくは9割が死亡した乱世です。あ、この数字は後の随の統一後の人口統計から類推されるものですが、2世紀以上を過ぎているのに、半分の3000万人にも達してない。ペストと百年戦争で人口が半減したフランスでも、1世紀で元にもどってますからね。それだけトンデモな内乱だった訳で、資料や取材が不足したと言われればそこまでなんですが。
しかし倭人と魏に関わりが出来るのは、司馬一族の功績(公孫一族の滅亡)によるんで、
南北朝の宋の編纂まで出て来ないのが謎。
続く
16. Posted by 山童   2018年03月19日 21:50
そして「一大率」なんですが。魏使は伊都国まで行っていて、そこに一大率が置かれているのを記録してます。これ考えようでは卑弥呼に接見してない可能性もある?
そして一大率が、諸国を検察する役目の官職である旨です。検察してたということは、まぁ邪馬台国が国司というか、総督を派遣して直接統治をしてないから検察する訳すよね?
つまり、かなりユルユルした倭人連合であったと推測して良いですね。
で、卑弥呼は倭王として倭人伝に書かれています。中国で「王」の意味を捉えると気になる事があるす。中国て分裂期でも建前は中央集権国家ですよね。王とは、実は諸侯です。
王朝交代時の功臣や、皇帝の外戚を王として
封じて王朝の潘塀となす。ここは始皇帝以後は春秋戦国とは王の意味が変わります。
てことは、倭王って、倭人すべての統率者とは認めてないんでは?
狗邦国でしたっけ? 邪馬台国と衝突する強国があるから、箔付けや、皇帝に支援して欲しくて貢してるんだし。続く
17. Posted by 山童   2018年03月19日 22:19
倭人を中国サイドから定義すると、稲作民族で倭語を話す一群の総称ですよね。
中国側がそのように弥生人を観ていたのは違いないと思うのです。東夷伝に倭人条の他に伝を立ててないから。
すると私の疑いは否定させるのですが……
「評価が変わる」って事はあるでしょう?
卑弥呼を倭王として認定した。
しかしメロンぱんち様が指摘されるように、
台与が娘でなく、一族の一人であると。シャーマンだから簡単には資格が得られない。
で、卑弥呼の死亡から台与の即位までに、かなりなブランクと内戦があったなら?
それが為に卑弥呼にあたえた倭王認定が宙に浮いたらとしたら?
先に申したように、三國志は当時の現代史なんですね。記録されてなくても、当時のせいじてき理由で書けなかった事はあると。
邪馬台国が九州にあったにせよ、畿内にあったにせよ、それに並ぶ勢力が倭人社会にあった。内戦でどちらを立てるか静観せざる獲なくなったと。その内戦が九州から畿内への何らかの勢力の移動を則していたと。
ヤマトとヤマタイの音が似てるので、なんとなく連続性を感じますが。実はそうではなくて、出雲などかなり文明度が高い王朝が他にも存在して並立してたと。その中でヤマトなる一群が勝者となっていったと。
つまり邪馬台国とヤマト王権は連続性を持たないという考えですが。
そもそも57年の記録は奴国だし、107年の倭国王のスイショウはも何処の国だか判別出来ない。パタパタと倭人社会で統率者や覇権国が代わっていた証拠だと思うのですね。
朝貢してきて魏使まで送ってやった。でも、その評価が変わるかもしれない。
そんな何かが卑弥呼の死後に生じていたような気がするんですね。

18. Posted by メロンぱんち   2018年03月19日 22:57
魏使は卑弥呼に接見してない、邪馬台国にも行ってみていないのではないか――は、やはり、私が目にした著書の中でも指摘があったと思います。伝聞を聴いても倭人の情勢に詳しい者から話を聞いて、それを資料としたという可能性がありますよね。

最も極端な話だと、卑弥呼が打倒された後に台与が担ぎ出されたという可能性もあり、確か関裕二氏か梅原猛氏か、卑弥呼を討った勢力こそが台与の勢力ではないのかという仮説を立てていたような。何故か九州にはヒメゴソ信仰があり、おそらくはシャーマンか巫女を崇める何かだったと思うんですが、似たようなヒメの伝承があちらこちらにありますね。確か、台与を【とよ】と発音するのであれば、豊玉姫が引っ掛かりますね…。

あ。豊玉姫を育てたのは玉依姫で、これは神武天皇の母だから、卑弥呼の正体は竜宮族の玉依姫であり、卑弥呼に「男弟アリ」とは即ち神武天皇の事に比定できそう。そして台与(豊玉姫)は豊玉彦の娘で「彦ホホデミ」の后となる。きっと記紀編纂者も、この辺りの事を意識しながら編纂したか、或いはホントにそうであったのかも…。どれも九州であり、なんだか海の神が多いあたり怪しいですね。
19. Posted by 山童   2018年03月19日 23:02
おしまい)
少なくとも南北朝の宋での編纂の後漢書に
奴国やスイショウなる倭王が書き足された経緯は何となく解るんです。
劉姓の将軍が現れて、一時的に酪陽を奪回したり、華北の国を滅ぼしたりして、それまで比較的に良好であった北魏との対決路線が招じたからと。北魏は仏教国で朝鮮半島の根本付近まで統治してました。それが仏教伝来する原因にもなるし。
で、それまでヤマト王権はしつこく中華皇帝に朝鮮半島の軍事権を与えろと恃んでますね。宋代にやっと許されたはず。
それは北魏への圧力に倭人が期待されたからでしょう? 鉄資源を求めて半島に上陸していた訳だし倭人は。
その軍事権を与えるに当たって、倭人との付き合いが中華として古い事を、書き足す必要が生じたからと思うのですね。
ただ三國志で削除されてる理由は?ですね。
やはり中国サイドとして引っ掛かるような原因…つまり王朝交代か、それに近い同伴があったとしか…。
20. Posted by メロンぱんち   2018年03月19日 23:08
三国志中の魏志倭人伝の成立の方が早く、後漢書の方が成立が遅い。後漢書の方は編纂に時間がかかっている。おおよそ内容は似ているんですが、完全に一致しているワケでもないようですね。
21. Posted by 山童   2018年03月19日 23:24
竜宮族。それは面白い!
いや、その。諸星大二郎に「海神記」って
漫画あるんすよ。
空白の4世紀に海人族が九州地方から大移動してゆく話なんですが。
例えば息長を百済の将軍にしてるし。隼人族も出てくる。
海底火山文化をとか、そうした災害でバラバラだった海人族が移動が始める。そこに百済から来た息長とか、やはり移動してきた隼人が関わりあって、常世を求める運動になってゆく。海童ミケツと彼の保護者となる巫女オオタラシが海人を率いて九州を出エジプトする処で終わってます。が、作者は彼らが吉備を経由して瀬戸内海を渡り、畿内な達する想定らしい。
たしかにオオタラシにしてもオキナガタラシにしても神功皇后に繋がる話には、海人族がチラチラと現れる。
それを思いだしました。
22. Posted by メロンぱんち   2018年03月20日 09:56
やはり、そんな事を仮定して描かれた漫画があるんですね。確か九州地方にはヒメがやたらと登場するんでしたよねぇ。

宇佐八幡にしても元々はヒメコソ信仰だったような。朝鮮半島とも関係して。豊前・豊後は、いわば豊(ぶ)の国ですが、これってトヨとも読めるんですよね。元々はヒメコソが進行されていた。渡来系の人々の。

海神というのも宗像神社の奥の…。これをどうやって整理していけば整合性が取れるのかと悩ましい問題ですね。急に神話系の話と混じってしまうんですが、やはり、何か痕跡らしいものはありそうですね。。。
23. Posted by 山童   2018年03月20日 19:23
これ手短に)
近所の弁護士さんに「河童アジア考」て本を貰いました。で、これ河童の起源をTVプロデューサーが追跡した本なんすが、どうも中国江南の蚤民(船で暮らす水上生活者)に起源を求めてるらしい。彼らはマーツォ(マーは女へんに馬。ツォは祖)て女神を信仰してる。
マーツォは天后とも書いて、実は天照に似てるらしいんすよ。逸話に神功皇后みたいな伝説もあるし。これ、じっくり読んで何か出て来たらレポートします。
24. Posted by メロンぱんち   2018年03月20日 22:35
おお、意外なところに。

海神の娘である豊玉姫は、ホオリ命の后になる。出産をするが夫のホオリに「出産する姿は絶対に見てはいけません」と豊玉姫は言って出産にのぞむ。しかし、ホオリは禁を破って、覗き見してしまう。すると豊玉姫はヤヒロワニの姿で出産している。ヤヒロワニの姿をホオリに見られてしまった豊玉姫は怒り、また恥じて海中に去ってしまう――。

これは神話の類型だと、東アジア、インドシナに広く分布している説話型伝承なのだとか…。
25. Posted by 山童   2018年03月24日 00:11
中間報告)
「河童アジア考」なんですが、ざっと目を通してみて「難物」です。学術書でも研究者が書いた一般書でもなくルポなんすよ。TVディレクターの書いた。
勿論に検証はしてるけど、彼らは「絵」を求めて、後付けで理屈するでしょう?
ミステリーで言えば情報を分析して、推論を実証する為に動くホームズ型でなく、動きながら考えるルパン型なんすよね。それはトラベローグな広さがあるんだけど、一つ一つの
推論に飛躍があって組み立てが浅い。
広く空間的な繋がりは面白いんですが、時間的な隔たりの継承が甘い。
だから自分で書籍でも複数を当たらないと、なんとも言いかねるんです。うーん……。
俺自身がメロンぱんち様のような一つ一つ組み立てるアームチェア・ディティクティブ型でなく、突撃型だから好印象なんすけどね。
でも、こいつは受験に例えると、問題集になるが、参考書や教科書にならん!て感じ。
で、まず水木しげる先生の事から。河童のTV 番組を作る過程でやはりインタビューしる。
これが深いんです。
「河童の正体は解らない。だが、その解らない中に河童の本質がある」と。でも、編集されてしまうの覚悟で「河童は存在した」と断言する辺り、やっぱ水木しげる先生って偉大なマンガ家だよな!って。
編集されていいようにマスコミに利用される事を怖れてないんだよね!
やっぱ水木先生は太人であると。それが言いたいのですよ!!
26. Posted by 山童   2018年03月24日 00:39
今からは信じられぬけど、20年前までの
中国は、貨物コンテナに隠れて酸欠や水死ふる中国らの不法入国者が後を絶たず、EUから日本まで悲劇が沢山あった。
つい20年前なのに「海猿」とか海上保安官を題材にした劇画や、EUのマフィアを追った
ルポを詠むと解る。「蛇頭」の時代すね。
その密入国ルートを古代の渡来ルートに比定するとか、それは学者にない知見と思う。
ただ……う〜ん😓なんすね。
先ずマーツォ(まそ)が天照に似てる事ですが。一応、南宋起源なんすね。天照=マーツォな神社が台湾にあるんすけど、Wikipediaによると日本の統治を起源とするみたい。
神功皇后的な「卵信仰」が皆無。
それとワダツミを中国南部から朝鮮半島、九州に至る倭族に求めてゆくのは賛成すが……
問題は常陸を開拓した水利技術を持った渡来人とするのはどんなもんか?
山と海民が繋がるのは解るんす。材木を海まで運ぶのは河川に生きたワタリだから。
水利と土木技術はやはり陸の農耕民のもので、輸送技術とは別物だと想うんすよね!
ただ…将門を倒した俵藤太の伝説あるすね?
あれ大百足🐛と大蛇🐍の戦いです。関東にも大蛇🐍に頼まれた猿彦なる弓の達人が大百足を射止めて、大蛇を助けた伝説がある。
あれを川で砂鉄を取るワタリと、山で鉱山を掘る金属民との戦いと想定すると一概に否定も出来ない。むーん!


27. Posted by 山童   2018年03月24日 00:52
「知中論」て本で、閔(実際には門の中は虫です)つまり福建省てすが。海岸が複雑なリアス式海岸で、クリークが多くて日本軍も難儀した地域。その難儀な地域ゆえに、王朝から独立した海民が多くて、実は日本人と組んだ和寇の基地になった地域なんだと。
彼らには「機闘」という、村落や町レベルで
実力行使で決着を着ける伝統があって、その伝統が北京政府に利用されているが、そもそもは国家意識とは関係がない。
尖閣諸島も「海に生きてる海民の、誰にも属さない場所である!」意識が、海上保安庁への反発となってないか?と。
実はこれ、倭寇研究してる学者も認めてる。
じゃあ、それが福建省の元倭寇の子孫たる彼等が「倭族」の子孫かってーと、私は否定します。あり得ん!
ただちりてき要因や海流は変わらない!
続く
28. Posted by 山童   2018年03月24日 01:10
松本人志氏が司会者の「クレイジージャーニー」て深夜番組で度々に出演する佐藤氏って
カメラマンがいて、「世界奇怪遺産」て減んな物を撮影して歩いてる。彼の写真の中に、
雲南だか福建省だかの奥地に、岸壁に杭を打ち込み棺を乗せる遺跡があった。でも、その儀式をやっていた民族だか氏族だかは消息不明で、18世紀に現在の住民が入植した時には
きえていた。なので解らない…とあった。
それは前に大陸で鬼火だか人魂を見た祖父の友人が遭遇してる話に似てる。あれも鬼火が出た谷の遺跡は、当時の住民と歴史が断絶していて解らなかったと言う。
大陸では日本と違って、このように断絶して
辿れない遺産が少なくない。ただ地理的な条件は変わらない訳でしょ?
倭族と倭寇の子孫には、医学的な血の繋がりはないと想うす。ただ伝説や地理的な行動様式は似たり継承される可能性はある。
大事なのは、九州、沖縄、台湾、中国南岸…と海流で繋がれて、そこで国家意識の前から
往来する文明圏が存在した事ですね。
福建省から朝鮮半島や沖縄、九州に至る海の文化圏が王朝に関係なく存在したと。
そこで活躍した民が、和国大乱からヤマト王権の設立までに、海から川への水軍の勢力となって、河童伝説の原型を成した……てのは、
うがち過ぎですかね?
29. Posted by 山童   2018年03月24日 01:41
どうも歴史で板東武者の子孫が武士天下を取るせいか、古代を忘れますが、白村江を観ても軍事の主力は水軍ですよね?
古代においては海から川へが、つまり海軍でなく水軍が移動を担ってる。平家までは。
海の民が果たした役割って少なくないと思うのですね。
それが河童に起源となってる?
九州の八代市の河童祭りを観ると、全身に隈取りしたペイントして氏子が祀ります。
あれって「文身」ではないか?
実際に縄文土器みたいな、南洋のトライバル模様のようなペイントをしてる。
閔(ビン=門の中は虫)とされる中国南岸の古代人が文身と言われるタトゥーを彫っていたの史記に観られます。
古代に倭人族が中国南岸から朝鮮半島南部、さらに九州を行き来していたのでは?
河童てのは、その海流に乗って東アジアを移動していた民族の伝説なんでは?
30. Posted by メロンぱんち   2018年03月24日 01:54
「俵藤太=藤原秀郷」で、東武日光線の合戦場(かっせんば)で、ムカデ退治の逸話が残っていますね。どこでどうなったのか、あの山裾から大ムカデが現われて――という具合に細かく語り継がれていたりする。ムカデではなく、何かしらの合戦の伝承の痕跡かと解するとしっくりするかも知れませんね。

茨城県なんですが偽書として名高い竹内文書も茨城なんですよね。鹿島神宮に香取神宮もある。また、竹内文書の信憑性は一枚も二枚も三枚も割引く必要がありますが、あれって【天津教】を名乗っており、皮肉にも、国津神に対して天津神の系統である事を自称してくれていますよね。つまり、鹿島・香取など常陸地方に入った古代の神は紛れもなく海の民だったのでしょう。で、その人たちとは別の経路で関東平野、武蔵野、或いは両毛(群馬&栃木)ですが、そちらは違う経路のようにも思えるんですよねぇ。いや、同じという事はあるかな。いや、やはり無いと思いますよ。埼玉あたりでさえ、縄文時代の貝塚ありますし。
31. Posted by メロンぱんち   2018年03月24日 02:02
倭族論としても遺伝子的な繋がりで語ろうという文脈と、文化の継承者という繋がりで語ることができますが、稲作水稲文化&高床式住居を基盤にしていますね。海の民に限定してないというか、途中から海洋技術を身に着けた倭寇の祖が交易や海戦技術で勢力を拡大させていったであろうことは、やはり、想像に無理がないと思いますよね。

文身についても鳥越は着目していますね。基本的には南方の海洋民族にみられるような顔への入墨で。更に、貫頭衣という装束にしても南方系を匂わせますし、実は類似した習俗が少ないのではなかったかなぁ。
32. Posted by 山童   2018年03月25日 18:00
報告)
河童の起源が蚤民(中国の船上生活者)に由来し、彼等がマーツォ(ま祖)という女神を信仰すると書きました。マーツォは天照に似ているとも。そして天后と名乗る。マーツォ信仰の起源は南宋であると。とまで。
さて「天后」なんですが、なーにか引っかかってました。何だっけ?
これ「則天武后」の事なんすよ唐朝の。唯一の女帝。持統天皇と治世が重なる。
つまりもっと起源が古い。彼女は帝位を奪い、周(武周)朝を一時的に立てたりしてるんで、近現代の江青のような悪評の人です。が、貴族層に不人気だった故に、科挙出身の官僚を重用した。故に門閥貴族が衰退し官僚制度が整った。国は近代化したと。
で、彼女は日本で出産したて伝説が道教にはあるんですよ。子供は日本に置いてきたろしいんだけど。で、天皇が道教用語であり、天武朝の産物と考えると、河童とは別にクサくないですか?
持統て天武の息子でしたよね?
ただですね……。
武則天は太宗の愛人から高宗の愛人二代で女帝まで上り詰めたです。太宗崩御の後に一時的に出家していて、その時は道教で出家した。でも高宗の愛人として政界に復帰すると
仏教に加担するんすよ。それまで唐朝は
道先仏後だったのが逆転する。そこんとこが
引っ掛かるんですがねぇ。いちお報告。
33. Posted by 山童   2018年03月25日 18:05
間違えた。息子じゃないや、息子を産んだ女性だ。天武の后すね。
とはいえ中国で則天武后が李氏の唐朝を牛耳り、一時的にも周朝とした時期に、日本でも娘くらいの持統が現れるって?
しかも道教では武則天が日本で子供を産んで置いてきた…という。
考えすぎですかね?
34. Posted by 山童   2018年03月25日 18:08
時期的に両国で異例の「実権力を持つ女帝の出現」時期が同時に近いってのは…
やはり偶然かなぁ?
35. Posted by 山童   2018年03月25日 18:17
たださぁ……メロンぱんち様は前に「持統天皇はアマテラスか」て書いてるんだよね。
まだ記事は未読なんどけど。
で、武則天と持統は多少のズレを無視すれば
おさまる時系列なんすよ。
で、実際に母娘である必要はなくて、ただ宗族であっても良い。
武則天が子供を日本でも産んで…。唐の時代で日本と行き来があだた時に。そして両国で
空絶な女帝が登場してるてのは…二人とも人形の女帝じゃないすからねー。
なんか河童があっちに行ってしまった(笑)
36. Posted by 山童   2018年03月25日 18:25
二人の年齢差21歳で武則天が年上。
どちらも690年からの治世で、その終わりは数年の差しかない。ほぼ在位時間は一致する。う〜ん。
メロンぱんち様の意見を聞きたいですねぇ!
37. Posted by 山童   2018年03月25日 18:44
女性を息子とか初歩的てよりショボすぎなミスしてますがご容赦。
てか最初は気にしてなかったんすよ。
天后だからアマテラスなんだろ…くらいで。
でも海洋民族なんだら太陽でなく星崇拝なんすよね。普通は。天測は星が基本だから。
じゃあ何だっけ?
考えでるうちに則天武后を思い出したんす。
で、今日、法事だったんで、引退した前住職がオフクロの幼友達なんで、話してみたと。
明治まで神仏でやっていた寺だから詳しい。
で、コーフンして報告しとるのです。
しかし、どーなんでしょね?
38. Posted by 山童   2018年03月25日 19:32
えーまたまた多重投稿すまぬすまぬで御座いますが。やっぱり面白話なんで追記。
母方の菩提寺なんすが。隠居した元住職、実はその親父つまり先々代住職は私の祖父の大陸仲間。祖父と一時期に大陸で一緒してた。
祖父はハルピン育ちで満洲の人なんですが、
日中戦争のある時期、先々代住職と福建省の調査に派遣された。
幾ら大陸育ちでも江南と塞外では言語が違う。それが南に派遣されたのは、柳田国男著作集を宝にしてたから(笑)
何を考えているのか日本陸軍?
いい加減にも程がある。しかしメロンぱんち様ならピン!と来ませんか?
そう、マーツォ=天照説の探索だった(笑)
続く
39. Posted by 山童   2018年03月25日 20:01
祖父は経歴は強面ですが実は軍人大嫌いの文人。世界一やる気のないスパイでした。
だいたい阿片窟調査とか義経の北騎行伝説の調査とか変な事ばかりしていた。
で、マーツォを崇める蚤民を始め、長江領域の青幇とかはマーツォ信仰があるす。
青幇は水運からの結社ですしね。
それが天照信仰に似てるから利用できると上は考えたんでないすか?
で、色々と調べたと。軍の予算で物見遊山を二人はしていたと。道教の伝説を元に持統天皇と武則天は関係あるかも?とか。
で、ですね。報告書を上げると即日、二人は呼び出され、文章に「極秘!」の印が押されていて、
「以下は口外を許さぬ」とのお達し。
どうも報告書を読んだ上官が「これは面倒な事になるかも?」と判断したらしい。
利用できるかもしれないけど危ないネタと感じたらしいんですね。
ただ諜報員と言え、素人学者の弥次喜多道中ですよ。そんなに重要性のある事を書いてはいない!では?
実はもっと本格的な調査を陸軍はやっていて、「何か」掴んだのでないか?
祖父らはその調査を誤魔化す為の囮だったのでないか?
いや誤魔化すてのは対中国ではなくて、
本土の大本営や宮内庁などに対してです。
その何かは国体を揺るがす何かだったのでは?てのが隠居した住職の弁ですけどね。
確かに日中戦争が泥沼化する中で、危険を伴うとはいえ、素人学者を派遣するの変でしょう?
じゃあ真打ちの調査隊が掴んだネタって何なのでしょうね?
まぁ与太話ですが。
40. Posted by 山童   2018年03月26日 02:28
もう一つロマンの無い方の仮説を。
祖父と先々代の珍道中ですけどね。
「囮」であったのは間違いとする。すると本土の日本軍はマーツォに関わる天照…伝説や
武則天と持統天皇のラインを追ってたか?
うーむ前コメントまで酒席にいて聞いてきた話で興奮してましたが、夜中に目覚めてみると難しいなと。
長江は日中戦争前夜から軍閥だ匪族だ河賊だで不穏化はしていました。
で、祖父らがあちこちの調査やっている時期は援蒋ルートが仏印ルートも米軍によるビルマルートも健在だったのですね。
ルートそのものは空撮されているから、実態として運ばれてくる物質が、中流域以降にどのように抗日側に流れてるのか調査していたのでは?
別チームでですけどね。その為の煙幕として、素人学者の珍道中させたのでは? 目立つでしょう?
これも穴がありますが、そんな処な気がしてきました。うーむ。
41. Posted by 山童   2018年03月26日 03:23
無論、福建省は長江とも援蒋ルートとも放れているのですが、江蘇省、浙江省、福建省の海岸線は複雑で、倭寇時代から長江の水運と
沿岸の水運業界や水上民はツーツーなんですね。内陸の道路と鉄道を押さえられると、
海岸線からになる。
青幇も元が南宋を滅ぼした時に、南宋の残存勢力がこの辺に逃れて海賊やっていたのが起源とされる。それが長江の水運と繋がって、
元の輸送下請けするようになり、その利益で
明清朝に長江沿岸が開発させる時、船着き場周辺の土地を買い漁ったのが巨大結社になった由来とされてる。
そして倭寇と倭族の繋がりで書いたように、
台湾から出発して黒潮に乗るルートの起点は
この辺です。祖父らの探索が何だったかは別として、この沿岸の連中にマーツォ信仰がずっと継続して残っていたのは、なんか繋がりを感じるのですがねぇ。
日本古代史だと半島経由で対馬ばかり注目されますよね?でも昨年の国立民族博物チームによる葦船実験でも使われたのは台湾から黒潮に乗るルートでした。
もう少し中国南岸と日本の関係は洗われても良いのではないですかねぇ?


42. Posted by メロンぱんち   2018年03月26日 13:41
媽祖(パソコン一発変換?!)とアマテラスが似ているというのは、アマテラス=持統天皇説と、そんなに矛盾はしないかも。

古代史と神話とを比定しようとしたときに絶対に躓くのが「アマテラスは何者か?」なんですよね。しかし、そもそもアマテラスというのは実在した何かではなく、古事記を編纂する時代の世相が反映されたものと考えられると思うんです。既に伝承化していたものを編纂したとしても、古事記編纂年前後の価値観が反映されているだろう、と。

で、アマテラス=持統論ですが、これも持統天皇をぼやかすことなく描こうとするのであれば、その時代には書く事もできたのだと思うんですね。しかし、そうしてしまうと皇統の正統性を蒸し返されてしまう必要性があった。なので、媽祖信仰、おそらく、これヒメコソ信仰とも無縁ではないと思いますが、そういった古い宗教観も織り交ぜて、爛▲泪謄薀好瓩箸いαをつくりあげていったのではないかという風に感じました。

アマテラスの弟がツキヨミとスサノオでと語られる「三貴子」は、擦り合わせに思えるんですよね。スサノオは国津神であり、出雲であり、オオナムチの祖である。そちらの方が古いのがみえみえになってしまうと不味いので、持統天皇の事ではなく、ずっとずっと古いオオナムチ、そのオオナムチよりも古いスサノオの姉にあたるのがアマテラスであるぞよ、と、そう説明しないと信仰対象としては弱いんですよね。
43. Posted by メロンぱんち   2018年03月26日 13:45
三貴子よりも古いとされる天御中主神、これが古事記や神道でも宇宙を主宰する神に充てられていますが、なんのことはない、これ、道教ですね。【天帝】の観念ですもんね。また、イザナギが鬼から逃げるときに桃を放り投げますが、あれも道教。

古事記の編纂年の時代、その編纂者たちは道教の影響を受けている。道教の要素を、日本化させているという事だと思うんですよね。
44. Posted by メロンぱんち   2018年03月26日 13:55
面白い情報を提供していただいたので、こちらからも、情報提供です。

持統天皇が建設した藤原京は「中国式であった」そうです。

持統天皇の母親は「蘇我倉山田石川麻呂」そうです。これは蘇我氏の本家だったか有力家であったか…。

うーむ。問題を余計に難問にしてしまいそうですけどね(笑

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