2018年05月16日

穴師坐兵主神社の謎

鳥越憲三郎著『神々と天皇の間』(朝日新聞社刊)を読み終えたものの、昭和45年刊と約半世紀前の著書なので、「今更、参考になる箇所はさすがに少そうだなぁ」という思いで目を通してみたという感じでした。

率直に述べると、大胆すぎて仮説に仮説を重ねてゆく過程というのが多く、正直なところ、「そこで断定的に考えてしまうと、方向性を間違えないだろうか」という感慨を抱く箇所が多かった。しかしながら、それでいて「あ。これは?」と感じさせるようなものもありました。

単純化してしまうと、葛城王朝が有り。そこへ東征してきた神武天皇も有り。欠史八代を葛城王朝として片付けているのが特徴であり、しかも、その葛城王朝は神武以下欠史八代が起こしたとし、葛城王朝の正体を部族国家に求める。葛城王朝は部族国家として大和平定までを行なったものと推定している。第七代の孝霊天皇の頃に大和平定に動き出したとする。その論拠としているのは第7代孝霊天皇以前の天皇は、三輪山周辺のごくごく狭いエリアで婚姻関係をつくっていたものが、外族との婚姻関係をするようなっている事としている。

なので、鳥越説を大枠を今一度、踏襲すると神武天皇&欠史八代は何処かより三輪山にやってきた何かであるとするという意味では、神武天皇実在説になりそう。その後、葛城王朝は大和平定に乗り出すが、そのプロセスの中で崇神天皇が登場し、崇神朝による四道将軍などの覇権を肯定する。

神武と崇神と応神、どれも東征してきた何かであると読むのが、近年の読み方ですが、神武以降の中央集権体制の確立は、少し分かり難かったという印象でしょうか。いやいや、整理すると鳥越説は鳥越説なりに細部にわたる検証が行われている。しかし、関裕二氏らが指摘するように絶望的なまでに出雲王朝の位置づけに問題がある。欠史八代以降の時代になってから出雲王朝がつくられた、或いは記紀編纂後に出雲王朝があったとする幻想が生まれたとしてしまっているのだ。この出雲王朝幻想説というのは絶望的ですかねぇ。その後に加茂岩倉遺跡などが発見されている事からすると、出雲王朝もしくは出雲地方を拠点にした古層があったと考えない事には検証に耐えられない。また、鳥越説は日本神話や新撰姓氏録を疑いながらも、それに沿って編まれている。

その辺りを上手に取り繕っているのが関裕二氏になるのかもね。

とはいえ、目を瞠るものというのも、断片ではあるものの、そこに見つける事が出来たような読後感があるんですよねぇ。

鳥越説というのは、ごくごく小さな三輪山近郊で起こっていた神武&欠史八代の時代、また、そこから大和平定へ乗り出すにあたって、各地の勢力が入り乱れながら「大王」が「天皇」へ、大和朝廷成立の仮説を語ろうとしたものなんですね。ごくごく狭いエリアの物語であったと考えている事が、或る意味では目を瞠るべき仮説だなと感じました。

先ず、これを説明するには、どうすべきか?

大別すると、天津神系と国津神系とに分類すべきか。天津神の祖はニニギである。対して、国津神の祖はアメノホヒである。ニニギは神武の祖であり、葛城王朝及び葛城氏、更には蘇我氏も、実は、その系統である。対して、アメノホヒが国津神系となる。皇別、神別などの概念も入って来るので非常に混乱させられますが、これを「神武系か非神武系か」という風に捉えると少し分かり易くなるかも知れない。

鴨族、これは「加茂」、「賀毛」のような表記も含めて鴨族であるワケですが、この鴨族は神武天皇を熊野から大和への道案内役を果たした八咫烏の子孫であるとする神話要素を、鴨族が神武勢力の道案内役を果たし、後に重鎮になっていった部族とする。

それについては和珥氏についても基本的には同じ扱いをしている。和珥氏は居勢祝(こせのはふり)の部族の後裔としている。

神武に九州地方から帯同してやってきたのが久米氏であり、これが後に大伴氏の祖となる。

神武と対決したナガスネヒコは、やはり物部氏の一首長に当てている。この物部氏の祖はニギハヤヒですね。ここから物部氏と尾張氏は、ニギハヤヒの系譜である事は関裕二氏なども再三指摘している事柄である。

穂積、志貴、三輪氏の祖は、大和地方に存在していた土豪とする。これは広い意味では和珥氏と似ている。葛城王朝によって平らげられていった何かであり、帰順した何か。

そして問題の【穴師】ですが、これが非常に難解で新撰姓氏録に記されている祖はアメノホキ(天富貴)と記されているが、それは和泉国の兵主神社の話であり、本家本元であった筈の穴師坐兵主神社についての詳細は不明であるという。しかし、この穴師には穴師兵主神社というものが古い時代から高い社格を与えられ、且つ、大和、和泉、参河、近江、丹波、但馬、因幡、播磨などが延喜式で確認できるという。また、この兵主神社(ひょうずじんじゃ)の謂われもミステリーであり、

「一書にいわく、天皇のはじめて天降り来るましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう」

とあり、鳥越説では神宝である八咫鏡との関連性を推測した上で、崇神天皇を守護する神社であったのではないかと推測している。

何故、この穴師邑(あなしむら)の穴師坐兵主神社を分社したと思われる【兵主神社】(ひょうずじんじゃ)が全国各地に広がっていたのか。また、その猜室膈瓩箸いμ松里浪燭魄嫐しているのかについては諸説あるという。その一つに「史記」の「兵主、蚩尤(しゆう)を祠る」から【兵主】を執ったものであり、帰化人の秦氏が広めたとする説があったという。


しかし、これは鳥越説の方が説得力がありそう。つまり、崇神天皇の軍事面をサポートする部局、部曲のような、そういうものであったのではないか。天皇家の出自が謎に包まれているという問題、これは日本の天皇家には姓が存在しないという問題があるワケですが、それに似ていて穴師坐兵主神社の正体も全く不明であるという共通した謎に気づかされる。

鳥越憲三郎を無視して、想像を逞しくしてしまうと、オオナムチとは【大己貴】と表記したり、或いは【大穴牟遅】、【大穴持】と表記されるケースもあるんですよね。つまり、穴師邑の武装軍団を有していたのがオオナムチの正体であり、オオナムチとは崇神天皇の事を指していたのではないかなんて考えたくなってしまいました。いやいや、崇神天皇には不思議な逸話があり、三輪山の大物主を祀る為に大田田根子を捜し出して、その大田田根子に大物主を祀らせる事で世を収めたとされる天皇なのだ。

崇神天皇は三輪山の麓、磯城(しき)瑞籬(みずがき)に宮を建てたとされている。鳥越は素直に、崇神天皇の出自を磯城(志貴)ではないのかと疑問符を付けて記している。そして、この穴師兵主神社については崇神天皇が初めて祀ったのではなく、それ以前に祀られていた神社であろうとしている。

因みに『神社辞典』(東京堂出版)に拠れば、この穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の祭神は大兵主神であり、各地の兵主神社の祭神は兵主神であると記されている。鳥越に拠れば穴師坐兵主神社の祭神については、大国主とするもの、八千鉾神とするもの、大己貴とするもの、経津主神、建御雷神とするものもあり、そこに全く統一性が見られない謎だらけの神社であるとしている。しかしながら『大倭社注進状裏書』には、上社の祭神が御食津神(みけつかみ)、下社の祭神が天鈿女(アメノウズメ)と記してあり、更には両社ともに御神体は猝鍬瓩筏されているという。これだけ謎めいているというのも珍しい気がしますかねぇ。古層の何かであるのは確かだから、崇神が初めて祀った訳ではなく、それよりも古くからあった何かであろうとしている。

鳥越が出雲王朝を否定しまっているのが何とも皮肉ですが、それこそ「大穴持」を当て嵌めたくなるのが人情でしょう。いやいや、ホントは大物主にしても、大己貴・大穴持にしても、関裕二氏が展開させている通り、それらを古層の出雲系の何かだとして、それらを当て嵌まれば、整合性の取れる仮説を立てられそうな話なのだ。

ussyassya at 11:59│Comments(2)謎解き古代史 

この記事へのコメント

1. Posted by omachi   2018年05月19日 18:44
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)

政治家は今も昔も同じですね。
読み通すのは一頑張りが必要かも。
2. Posted by メロンぱんち   2018年05月19日 23:24
omachiさん>
歴史探偵気分を味わうという感覚は楽しいもんですよね。自分の中で組み立てる事ができるというのは魅力で、また、日々、発見のニュースと答え合わせが出来ますし、実際、読み物も豊富で飽きませんよね。

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