2018年05月15日

自由と教育と意志

多少、情緒的にウツ気分ながら、【自由】と【教育】、それと【意志】について。

大杉栄の『意志の教育』から少し引用します。

現実主義は一切の抽象を嫌って、抽象が生命や自由の仇敵であるかの如く信ずる。けれども生命や自由は、却って此の抽象の中に在るのだ。一切の物質を滅却して、それを精神化する抽象こそ、本当の解放者なのだ。自由人とは、一切の現実に超越して、有らゆる知識を自我の統一の中に帰せしめたものを云うのだ。

されば科学は、其の科学としての存在を断ち、単純な本能に帰し、即ち意志となって復活して始めて完成される。この意志になり終るまでに純化されない科学、全く吾々の中に溶解し終らないで単に吾々の一所有物になっているに過ぎない科学、自我を思うままに活躍させないで却って其の重荷となっている科学、更に換言すれば、人格的になり終らない科学は、人の生活を準備するものとはならない。

真理は自我の発現に在る。然るに従来の学校は、斯くの如き自由人をも造らんともせず、又造り得なかった。学校は吾々を事物の主人にした。吾々自身の謂わゆる性質の主人にした。しかし本当に自由な性質の主人にしたのではない。吾々が学校に学んだ科学は、思想や意志の最大の屈辱と妥協する。現実主義者は、生徒が其の教わった事物に就いてよく理解し、よく適用する事を要求する。けれども其の生徒に教える事物は、要するに或る与えられたる一事物に過ぎない。そして更に其の事物を超越して、精神的に活動する新しき人格的知識を得ることを教えない。斯くして教育学に於いても、他のあらゆる科学に於けるのと同じく、屈従と卑劣とが支配している。


今回の引用から、所謂、旧かな遣いを修正しての引用ですが、この部分、「大杉栄」という人物が思いの外、先進的な境地に立っていたのではないかと思わされる部分でした。

大杉栄の場合、いわゆるマルクス主義批判をしていたアナキストであったワケですが、今日的状況を語ろうとしたときに、非常に興味深い視点を有していたと思う。細かな事情が分からないという人が大多数であろうとは思いますが、「大杉栄」の視座、或いは「アナーキズム」の視座というのは、実は自由主義なんですね。実際に歴史的経緯としても自由主義の落とし子でもある。

「何故、人間社会の問題なのに、そこから人間中心主義を排除して合理的に社会システムを造れると考えてしまっているのか?」

という、その問題に真正面から向き合っている。科学万能主義のような流れ、つい先日も、或るサルから摘出した子宮を、別のサルに移植させ、そのサルを妊娠させることに成功したという報道がありました。免疫抑制剤を打ち続けて経過をみるというものの、一応、ヒトでの臨床研究の重要なステップであるという。また、倫理的な問題を残していると報じられているものの、おそらく、倫理的な問題は恣意的に、「善悪はない」という風に合理的に片付けられるであろうから、きっと、そうなってゆくのでしょう。(Aというサルから子宮を取り出し、Bのサルに子宮を移植し、Bのサルを妊娠させる実験に事に成功したという。Aのサルはどうなったのかも気になりますが、それ以上に、将来的に「そのAのサルの役目」を負わされるのが、どういう人たちを想定しているのか気になりますが、そういう事にはタッチしない事になっている。)

現在進行形ですね。旧優生保護法(1948〜1996年)の下、この日本でも「優生手術」と呼んで知的障害者や精神障害者らへの強制不妊手術をしていた実態が明らかとなり、記録を確認できるだけで日本全国で1万6千人前後あるといい、どうも国家賠償請求訴訟が起こっている。

誤解のないように述べておくと、渡部昇一の「神聖な義務」論と紛らわしいものの、神聖な義務論が強制性ではなく「自主的な断種を心掛けてきたのが文明というものである」という文脈であった事に対して、明らかになった強制赴任手術の問題は、それが自主的に行われたのではなく、法治国家、国家という統治機構によって強制的に、その者たちに不妊手術が行われていたという事実が明らかになりつつあるという問題なんですね。統治機構にとっては非常に都合の悪い話であろうと思う。

今、日本は何でも強制化しようとしたり、ルール化しようとしている。法治主義の名の下に。また、科学主義の名の下に。しかし、いつも間違いを犯すのは、そちらの人たちなのだ。何故かというと、そこに人間中心主義がないから。そして、また、人間中心主義を蔑ろにしたまま、意思などと言い出し、自由ではなく隷属なのに気付くこともなく率先して自由意思などを強調するという奇妙な方向へ舵を切ろうとしている。

また、先に引用した大杉栄の文章の中には、実は教育が教育という名称の権威・権力となり、権威・権力は相対的に並び立つものではないから、権威の中に権威がつくられてしまい、最終的には独占的な権威体系に基づいて、狎気靴い隼廚錣譴覿軌藺侶廊瓩形成されてしまうという事にも触れている。確かに、出題され、その正答を当てに行くという教育の多くは、洗脳的といえば洗脳的であり、しかも権威を権威たらしめる為の何かであり、家元制度に似ていますやね。

「こういう場合には、こういう風に考える事が正しいのですよ」という家元が存在し、その家元が門下生を多く輩出すれば、正しいとされる価値体系が構築されてしまう。ホントは、それだけの事でしかない。だから強制性というものに対しての警戒心は絶対に必要だし、好き勝手に強制させない為の自由主義の精神というものは自由主義の双子の弟であるアナキズム体系にこそ、いきいきと存在している。

揺り籠から墓場まで――。

いやいや、新しい生命をつくるところから、その産まれてくる者の死ぬまでを、設計図に従がってコントロールしようという非アナキズム的な自由主義が、現行では狎気靴せ瓩反じられ、また解釈されているのだと思いますが、多分、それは人格と乖離した科学主義であり、結局、人々は解放される自由を手に入れることはなく、隷属的な道を犖朕佑琉媚岫瓩任呂覆、狒澗里琉媚廰瓩箸いΩ斥佞貌匹澳垢┐徳択させられてしまってゆく気がしますかねぇ。

ussyassya at 04:16│Comments(6)世迷い言 

この記事へのコメント

1. Posted by てらもっち   2018年05月15日 06:51
個人の意思と個人に保存される知識。社会の意思と社会に保存される知識。そのバランスについては難しいですね。

自分も、色々試してみて、今も諦めてはいないのですが、自分の意思、理解、いわゆる「気づき」「意思の自主性」の重要性について気づく人は気づくし、気づかない人は、いつまでも気づかないで、隷属的であり続ける。一方で隷属的な人々がいることで、この社会が成立している。

社会というものが、学校教育という、社会に保存された知識の一方向的な学習で基礎が成立しているという一面もある。

ただ、日本は文明開化以降、その傾向、国家主導の一方向教育が強すぎて、全体主義や執着的気質につながっている。時代から突出しすぎたクリエイティブな気質を持つ個人は潰されてきた。

新規分野であるITや経営の中では、どちらかといえば、クリエイティブな気質が重宝されていますが、それでも隷属的気質は繰り返し作業が必要とされる限り、社会に必要とも言えるかもしれない。

今の日本は、まだ全体主義的傾向が強すぎるとは思いますし、そこからの脱却に大賛成ですが、でも、一定数の隷属的な気質を持つ人々は残る気がします。人が人であるがために。
2. Posted by メロンぱんち   2018年05月15日 11:17
てらもっちさん>
どこかで「参加者全員の利益を調和すべき」というポイントが出て来てもよさそうなのですが、現状、ひたすらに成功者の功績を褒め称えるべきという体系なので、社会は助け合いであるという考え方は、どの道、行き詰まることになってしまいそうに見えてしまうんですよね。

大杉栄にしても、「教育というのは二つの矛盾原理から出来ている」と述べてあり、まさしく、その問題ですよね。もしかしたら特に日本人気質というものは、そこら辺で脆いのかも。。。




3. Posted by てらもっち   2018年05月15日 22:47
少し話題から外れるかもしれませんが、

利益調和、創発vs隷属、成功の指数関数傾向などは、根本的問題が学習や教育ではない気がしています。

OSは「資本主義」だと思っています。民主主義ではなく。。。

いつも通りの主張ですが、利子の社会構造に対する指数関数的な広がり、時間的な膨張(成長への期待)が、大体のことを決めている気がします。

学習や教育はOSではなくて、あくまでもその上にあルような。誰もが均等な機会を与えられるような社会であれば、それに応じて、チャンスを生かすような創発的教育が主になる気もします。

鶏、卵ですが。。。
4. Posted by メロンぱんち   2018年05月16日 10:35
てらもっちさん>
実践的な学習と、教養科目との差異がありますが、現在、前者は奨励されているが後者はお荷物になりつつあるのが現在の潮流のように思えますね。

しかし、空理としてではなく【実際家】として、物事を認識するには一見すると役立たずな教養科目の方にも目を向けないと難しいのでしょうけど、そういう回路は既に飲み込まれてしまっているように思えるんですよね。
5. Posted by てらもっち   2018年05月17日 07:11
実践的な学習だけでなく、教養科目や、実際の社会や、社会以外での経験を積んでこそ、広い視野を持つ自律、自我の発現に繋がると思っています。
 社会の問題に共通する深い問題に至った時、空理に陥らず、現実の社会に通じる問題提起をする時、広い視野だけでなく、そういった教養科目や実務経験こそが、解決策の具体性、そして、その人、その人の言葉に重みを与えるのだと思います。

必要悪を認めるか。必要悪を矛盾として捉え、矛盾を超えた解決に導けるか。

 前者は隷属的で、ある意味、宗教的。後者の洞察と「展開」の力を持つ人材育成には確かに教養が不可欠と思います。
6. Posted by メロンぱんち   2018年05月17日 11:06
てらもっちさん>
ごくごく最近の傾向としてですが、若年層を巡る二項対立も目立っていますが、何だか考えさせられてしまいます。世代間での対立を煽ってしまい対立構図だけを深めてしまうと結局、解決の糸口を失ってしまいそうなんですよね。なんだかんだいって、一定以上のリアリズムの中から改善策というものを見つけ出すしかないんだと思うんですが、既に二項対決構図でしか物事を語れない風潮になってしまっているよな、と。

女性議員を男性議員と同等数にしたいという発想は結構なのですが、あれを具体的な数値目標にしてしまい、粗悪品濫造に繋がられければいいのですが、多分、現実に即さぬままに数値目標だけを設定しまえば、なんとかチルドレンや、なんとかガールズを生み出して数字の辻褄合わせになってしまう気がしています。これ、平成20年以降になって社会保障政策として似たようなことをやりまくっていて、多分、持たなくなる気もするんですよね。実際、政治家のセンセたちにしても年金未納が沢山あったように、不可能なことを可能なことと仮定して政策を推し進めてしまっているという愚があると言いますか…

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