2018年06月11日

「憐れみ・慈悲・覚醒」への対処

先日、普段は視聴しているとも限らないフジテレビにチャンネルが合っていた為、そのまま、「ザ・ノンフィクション」の放送が始まってしまい、それで同番組が取り上げた「犬猫の向こう側〜前編」を視聴したのでした。なんだったかな、ハライチ澤部さんが出演している旅番組を視聴していたら、勝手に始まってしまった感じだったのかな。

で、相応に感銘を受けたのでしたが、その後、同僚の50代女性も「視た!」と言い、更にはオフクロも「視ていた!」と言い、そのオフクロの知り合いも「視ていた!」となりました。どれだけ視聴率高いんだろって冷静に考えたくなるような話でもあるのですが、まぁ、偶然なんでしょうねぇ。私自身もブログで取り上げたし、その後、ライブドアのトップページでも同番組についての記事を見掛けた記憶がある。おそらく視聴したなら、何某かの感銘を受けることになるものでしょうが、そもそも日曜の昼間に用事もなく、家に居て、偶然にも地上波のフジテレビにチャンネルを合わせているというのが不思議な気もしました。

さて、昨日、録画しておいた「犬猫の向こう側〜後編」を視聴しました。

ホント、映画「赤ひげ」に似ていると私が評したところで、これを理解してもらえるとは実は思っていない。しかし、ホントに似ているんですよねぇ。

東日本大震災の後に、飼い主と離れ離れになったチビという一匹の中型犬が紹介された。飼い主と離れて暮らすようになって以降、そのチビというオス犬は何やら人間で言うところの精神疾患になってしまったという。「うぅぅぅ」と唸る、唸り癖。その唸り癖に加えて、自分の尻尾に自分で噛み付こうとしてグルグルと独楽のように回転してしまう奇行が起こってしまったという。その為、尻尾を切断するも、その奇行は収まらず、チビは自分のお尻に齧りつこうと、グルグルと回転する奇行を辞められない。当代人気の漫才師じゃないけど「癖がすごいんじゃ」状態。精神的ストレスが、そういう奇行を招いてるとして、チビのストレスを軽減させる為の策をほどこし、なんとか手なづかせて面倒をみている。

そして、そのチビをはるばる広島から福島の飼い主に逢わせに行く。本来の飼い主は80代の夫妻であり、体調を崩すようになっていてチビを引き取る事ができないので、会わせるのだという。不思議なもので、チビは飼い主を忘れていない。病院の敷地内にチビを連れてゆくと、そこへ車椅子に乗った飼い主の男性が現われる。その膝の上にチビは攀(よ)じ登ろうとし、やや苦戦しながらも攀じ登る。老犬を膝に抱く老人の笑顔――。そして、それを見守るボランティアの人々のやさしい眼差しと充実感に満ちた顔。これを、私は「ああ、なんだか黒澤映画みたいだ」と改めて感じることとなりました。

黒澤明監督の映画「赤ひげ」には虐待によって雑巾掛けだけを一心不乱に行なう精神を病んだ少女が登場する。「赤ひげ」の舞台は江戸時代の医者であり、公儀からカネをもらって医院を営んでいるが、既に精神療養の必要性などにも気付いていて、厄介な精神疾患を持つ者たちの面倒をみている。「何故、そんな事までをするのか?」と言われても、おそらくは理由はない。それは仁術なのでしょう。

人間の在り方、もしくは社会の在り方とは、そういったものでもいいのではないのか?

東洋哲学の大家であった中村元の解説に則って、過去に慈悲(アヒンサー)について考えたことがありました。それはブッダが戦乱や暴力で死にゆく人を様子を見て、まるで水を失った魚が陸上でぱたぱたとのたうっているようであったという。ブッダは、それを「怖ろしい」と感じ取り、そこから命の大切さ、また、憐れみなどを感じ取る。憐れみは慈悲(アヒンサー)に直結しており、実は実体験として何かが苦しんでいる様子を見たり、あるいは誰も死にたくないであろうに死ぬことの恐怖に怯え、不安に苦しむ事から救われる方法はないだろうかと思案する中で、東洋に産み落とされる。

中村元は、

「西洋にはアヒンサーに相当する思想は中々、発生しなかった。ルネサンス以後になって西洋で動物愛護の精神が起こったが、歴史そのものは東洋思想の方が遥かに古い」

と述べている。そう。命が惜しいのはニンゲンだけとは限らず、動物も同じであろうとまで展開させていたのは、実は西洋ではなく、東洋の方がずっとずっと歴史が古いのだ。

また、鈴木大拙は確かに、日本人が精神を覚醒させたのは鎌倉時代の熊谷直実に求めている。武士として人殺しを生業として生きてきた熊谷直実であったが、さぁ、これから敵将の首級を切り取ろうとしたときに、その敵将が思いの外、若く、年齢的には愛息子ぐらいでしかない。直実は憐憫を知る。憐憫を知って覚醒する。これが日本人の精神の覚醒であるとしている。精神の覚醒とは、それを指しているのだ。

この一連が「犬猫の向こう側」というドキュメント番組の中には、すっぽりと入ってしまっているように見えるんですね。経済合理性とは全く関係のない何かが人々の心を動かす。現代人にとっては犬猫などは恰好の材料である。

多頭飼育崩壊の現場のようなものを当代流行の論調なのかマスメディアは、叩きたがるんですね。レッテル貼りとも関係していそうだし、実害を伴う迷惑行為でもあるから当然といば当然に起こる問題でもある。して、その対処法として、何かしらの強制的な決断を下すことが正しいかのように日々、擦り込まれている。つまり、害悪を除去して幸福を実現しようとする。

しかし、思えば奇行を伴うような何かというのは精神的な病理から生じており、しかも現代社会というのは権威者の判断を仰ぐまでもなく、当たり前にストレス社会であり、それをもたらせているのは現代社会である。経済的困窮にも要因を見い出せますが、おそらくは断絶的環境の中で孤立・孤独があり、そうした環境の中で、ペットにしか心を開けない人が増加しているという事だろうと考えると、色々と辻褄が合う。

ホントは猫ブームというのは誤まりで「現在は空前の猫ブームで…」というフレーズは、歴史学者の秦郁彦さんの著書の余談などでは、既に20年以上前から当たり前に見つけ出せてしまう。ああ、野坂昭如も「吾輩はねこが好き」なんていう書籍を猫ブームの中で書いたとしているから、ブームと呼ぶには既に長すぎるんですね。ホントは、行き場を失った現代人の孤独がペットブームを恒常的なものにしてして、ごくごく近年のブームはネット動画等、それらの環境が整ったことや、ペットに関する市場が拡大された事と関係していて、その奥底に横たわっているのは「現代人の孤独」が、それらのニーズを支えているんだろうなって思う。

多頭飼育崩壊は迷惑行為であり、且つ、そこから近隣とのトラブルを更に抱え込むことになる。しかし、この多頭飼育崩壊はゴミ屋敷問題とほぼ同根であり、人間関係の不健全性、孤独、精神不調などにあり、心の中ではフツウの社会生活をしたいが、精神的不調を克服できず、更には負のスパイラルとしての経済的困窮を誘発してしまう。不遇なシングルマザーが頼れる人間関係を持っていないことでアレコレと問題を独りで抱え込んで、ずるずると経済的困窮と孤独に戦っている中で精神を病んでしまったのだろうな的な話にも通じている気がしますかねぇ。

根拠はないのだけれども、そのように組み立ててみると、どれもこれもスンナリと理解できる気もしますかね。

「犬猫の向こう側」の取材対象となっている人たちの凄いところは、そこを見抜いているかのような対応で物事を解決している。人の目線で人を見、動物の目線で物事を考え、最善を尽くすワケですが、その対処は何かを処罰するとか断行するという発想ではなく、当事者たる犬猫と、その飼い主の社会復帰をも視野に入れて行動されているところでしょう。一見、口が悪く見えたりするのかも知れませんが、当たり前の介入をすることで、おそらくは孤立している飼い主もまた救われているように見える。

言わざるを得ない厳しい事も、小言として発しているが、その小言が的確なのは誰にも明らかなのだ。その上で「それではあんたも大変でしょう?」と話を進めていくことが肝要なのに、テレビが取り扱うゴミ屋敷問題やホームレス、或いは精神的に健全性を失っている暴走老人などに対しては存在そのものを牾屋瓩箸靴得擇蠎茲蝓△修粒化辰鯆┐蕕靴瓩燭るばかりですやね。救う気というのが乏しく、その害悪を征伐する事のヒロイズムに酔ってしまっている。

憐れみや慈悲は、情緒的なもの、精神的なものであり、ホントは割り切れないものでもある。そこを割り切ることが合理的思考だと捉えられているワケですが、その合理的思考には、多くのケースで、あるものが無い。そこに無いものってのは、人が人として物事を考えるときに当たり前の沸き起こる感情であり、精神作用でしょう。目の前でもがき苦しんでいる動物の姿を見ても何も感じないとか、目の前で困窮している人を見ても、無感動を是として物事を処理する事が優れているとする無機的な社会の方にあるんじゃないのって強く考えさせられる。

非情であること、冷徹な決断を下せることがクールであり、ビジネスライクであり、ひょっとしたらデキる人間であるかのような価値観があるのでしょう。それが勝ち続けるセオリーであったり、競争の中で生き抜くセオリーであるかも知れない。そういう競争原理を腹の奥底には抱える精神環境の中で人々は互いに蔑み合い、憎み合う。反目するワケですね。で、いつしか断絶し、孤独が現代人の精神を蝕んでゆく。しかし、その一方で、人を動かす事、心を動かす事、時代を動かす事、或いは何かに精神が覚醒するとか、そういうものってのは確かに精神的な作用であり、それと関係しているんでしょうねぇ。

目の前の他者の不幸にも何の感慨を抱かぬ無感動社会ってのは、ホントはそんなに幸福でもないのかもよ。スーパースターの飛び抜けた能力に心酔するのも感動だし幸福の断片なのでしょうけど、身近なところにある生きものを愛でることで得られる幸福、または、その境地の者になるという事は凡人が凡人として辿り着くには手頃な事なのかもね。人助けなんてのは経済的には「骨折り損の草臥れ儲け」ですが、それに勝るとも劣らない平穏な境地を手に入れられるかも知れない。

ussyassya at 11:10│Comments(2)雑記 

この記事へのコメント

1. Posted by rakitarou   2018年06月11日 14:26
少しスレッド違いかも知れないのですが、「現代はストレスが多い」と良く言われますが「ストレス」自体は昔からあったと思います。では何が昔と違うかというと「現代は終わりがない(見えない)」という所ではないかと。つまり人も犬猫も長生きになって、生きている間は何らかのストレスを積もらせて行く他ないからストレスが多い時代になると思うのです。

人生50年の時代や犬猫も普通に3−5年で死んでいた時代ならば、生きることに精一杯でその短い中で大きな悲しみや喜びがあって、喜怒哀楽がはっきりしていた。しかし長寿社会になって取りあえず「生きる」ことがいくらでも可能になってくると、そんなに悲しい事や嬉しい事もありませんから種々の葛藤やストレスだけが蓄積してしまうのかなと思います。そういったストレスを楽しみながら長く生きるという工夫が求められているのかも知れません。
2. Posted by メロンぱんち   2018年06月11日 16:43
rakitarouさん>
人もペットも長寿が実現しているので、それに対応する何かというのが出来ていませんね。ひょっとしたら生命を維持することに執心して、その人生を浪費しているなんて事も云えてしまうかも知れず…。ホントは生きている間にアレコレと歓びを感じたりする人生の方がシアワセなのかも知れませんしね。

確かに「人生百年プラン」と言われてしまうと、「それだと不安だらけ」と感じることになりそうですし。

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