2018年09月10日

すべては終焉のために〜番外編

池上彰さんを一つの目安にしているのですが、色々と思う事を――。

先ず、池上彰さんと佐藤優さんとの対談らしき内容をインターネット上でチラリと見掛けたのでしたが、その途中でニュースの焦点が絞れないという内容が語られていたのでした。財務省による文書改竄問題という或る意味では非常に大きな問題が露見した。あの問題は掘り下げてしまうと統治そのものの問題になってしまう大問題であった。民主主義の根底が揺らぐという人もある一方、法治主義の根幹とて覆されてしまった問題であったと思う。ウソ、改竄、捏造が公然と行なわれていて、しかも、それを監督する機能も無ければ、まともに処罰する手段もないという現実が露見したワケですよね。

この問題は、その後、障害者雇用促進法に係る公官庁の偽装でも裏付けられることとなった。これが私が思うに、大問題なんですね。公官庁が好きなように数字を改竄したりする状態で、それを批判する力が日本の社会から消えている。

池上彰さんと佐藤優さんの対談で目に止まったのは、財務省の問題が途中からセクハラ問題にすり替わってしまい、結果、「位相が変わってしまった」と指摘している事でした。ああ、やはり、そう感じて物事を見ているのだなと、共感をおぼえました。この「位相が変わってしまった」は重要で、ホントはシリアスな問題だったものが陳腐化、低俗化問題にすり替わってしまった事を指している。統治体制そのものが危機的状態に瀕しているというニュース、その緊張に耐え切れなかったのか、一気に論じ易く、また各自が感情論を振りまわせるセクハラ問題、パワハラ問題になってしまっているんですよね。

いや、これ、マスコミはおかしくないスか? 確かに途中からセクハラ問題になって、その後はパワハラ問題となって、スポーツ界のパワハラ問題に移行して。一応、昨日だか一昨日も池上彰さんはテレビの中で「働き方改革」に言及していましたが、現在の日本だと一つの問題をきちんと片付けることが出来ないのだ。

これは日本だけではないのかもなぁ…。アメリカのドナルド・トランプ政権にしても、まるで思いつきのような行動を取っているように見える。発信される一件のツイートで「世界情勢が変わるのではないか?」となってしまう。他方、当初から指摘されていたように北朝鮮との交渉は何だか中間選挙を意識して進められいるという。中国との間で開始した貿易戦争も似た様相を呈している。アメリカ一国主義がトランプ政権の本質であると指摘する事はできるようになったのは確かですが、落としどころのようなものを計算して、これら一連が行なわれているようにも見えず、不透明感が消えたという感じでもない。「中国の習近平政権にダメージを与えた」、「貿易戦争はアメリカが勝利することにいなる」という予測も目にしましたが、アメリカの分断もそうだし、世界の分断も進行してしまっていて、世界情勢なんてのは不透明感が増したというか、出口のない混乱というトンネルに入ってしまったんじゃないのかなという気さえしてくる。貿易戦争というはいうものの、その実、経済戦争だろうし、マネー戦争であり、利益を巡る争いである事を前提にすれば、確かに世界大戦前夜などに似た収拾不能な状態になっているような気がしないでもない。

地震や集中豪雨といった天変地異を主役にして「世界は終わりに近づいてるんじゃないだろうな」と述べてきたワケですが、天変地異や異常気象だけではなく、国際秩序とか国際政治のバランスも悪い方向へ向かっているか、ひょっとしたら序章に入ってしまっているんじゃないのってぐらい。

深刻であっただろう財務省の文書改竄問題が、いつしか陳腐なセクハラ問題にすり替わってしまったように、既に我々の認識コード、これは広く世間一般の認識コードとしてですが、あまりにも問題が多すぎて、焦点を絞るのが困難になってしまったという事じゃないのかなって考えたりする。

これはどういう事かと改めて考えてみると、既に社会全体は矛盾を抱えたまま、高次化した何かなので、どこもかしこも問題だらけ。右を見ても左を見ても上を向いても下を向いても、どこもかしこも問題だらけ。そういう状況の中で、新しいニュースに飛びつき易いという人々の習性や飽きっぽい人々の習性が加わるから、人々の関心は陳腐化し易いというポピュリズム的な弱点を抱えている。いつの間にか文書改竄問題が、「おっぱいさわっていい?」という、しょうもない中年おやじのセクハラ問題にすり替わってしまったんですね。しかもマスコミや一部の政治家は、それに気付かない。婉曲的に問題を起こした財務省をアシストする形になってしまっている。

日大アメフト部の悪質タックル問題にしても、なんとかっていう理事長にこそ問題があると大騒ぎしていたのに、人の噂も七十五日ってやつで、ホントに先方の狙い通り、見事に関心が失せ、忘れてくれる。カリスマ山根問題もしかり。女子アマレスの問題もしかり。暴力体操コーチ問題も、いずれそうなるのでしょう。

こりゃ、世も末って事なんじゃないのかなぁ…。そりゃ、手応えからして、スポーツ界なんて最近まで狂信的な上下関係・師弟関係を美徳としていた世界なんだから、どこもかしこも問題だらけだろって。日大の問題にしても、金儲けの上手な実力者が実力者として独裁的な体制の組織運営をしているというところまで行き着いても、そこから改善しようという行動が起こらないし、意見も登場しない。マスコミ的にはキャンペーンをやっているつもりなんでしょうけど、多分、キリが無くなるような気がする。

池上彰ウォッチャーとしては、例の27時間テレビでは「ああ…」と感じた事もありましたかね。細かい事から入ると、「(日本の)初代将軍が徳川家康である」かのように聞こえる日光東照宮について米国が作成していたニュース映像にツッコミを入れなかった事と、ホントにどうでもいい部分。徳川の初代将軍だけど、征夷大将軍という意味だともっと古い年代の名前でしたやね。まぁ、微々たることですが、終盤に子供の質問に答えるという企画があって、そこで色々と池上解説を視ているうちに、子供相手にまとまった見解に着地させる池上彰さんを目撃してしまった。ああするのが正解なのだけど「上手に一つの見解にまとめ過ぎているよな」と感じたのでした。大人向けだと毒があるのに、やはり子供向けの解説となると、毒までは消化し切れないだろうとして妥当な解説になってしまっているよな、と。

池上彰さんの「こどもニュース」の時代を知っていて、分かり易さの中にも複雑なニュアンスを落とし込んでいた記憶があって「AがBだと言われていますが、Cの要素やDの要素も関係しているのです」という解説をされていた記憶があったのですが、さすがに今時の子供の対しては「A=Bなのです。きっと皆さんの時代には、よりよい世界になる筈です」のような応答になってしまっていたなと感じたの意です。全面的に子供を押し出す子供たちを目の前に「池上解説」も篭絡されたな、と。

世界情勢なんてのはトランプ大統領に問題があるので、世界がグラついているのですという解説は間違いではないのですが、何故、トランプ大統領になってしまったのかというと、やはり、それまでのリベラル思想であるとか国際秩序が展開させてきた普遍主義への反発でしょうからねぇ。


「賛成か反対かハッキリしろ!」とか「YES or NOで答えろ!」という言辞が幅を利かせている。しかし、その二元論は既に破綻していると実感できるし、現在のような状況はおそろしく多元的に構成されているので「賛成か反対か明確にせよ」という二元からなる二元論ほど実情に即していないものはない。

実は、フランス革命にしてもロシア革命にも同じ事を感じるんですね。いやいや東洋でも百家争鳴の時代というのがあったという。仮にAからZまでの26段階に強硬派か穏健派でAの強硬派からZの穏健派までを序列として並べる事はできる。しかし、意見というのは多種多様であるのが真実であり、尺度は「強硬⇔穏健」という尺度だけでは測りようがないんですよね。多種多様ということは直線図に置き換えられないどころか平面的な座標で表現することも難しく、立体的な座標でもなければきちんと分けることは出来ないのが真理であるよな――、と。

「こういう制度が望ましい」という者、「こういう社会が望ましい」という者とでは少し温度差がある。偶々、何々主義とか何々党という一つの旗の下に結集したり、離反したりしているが、怖ろしいまでにイデオロギーの細部には差異があるんですね。当たり前だけれども。なので、一応は誰々を支持するとか何々党を支持するという態度をとる。で、それらの民意の集積というのかな、多くの者からの支持を集めた勢力が実権を掌握するのが民主的ではないかという事になっている。しかし、前提からして、それらを純粋な民意の結晶といるのかどうかさえ、実は微妙なんですよね…。ロシア革命では最初に民主ロシアが第一次革命として帝政ロシアを倒した後に、ボルシェビキによる第二次革命が起こる。二段階なんですね。フランス革命にしても革命の後にナポレオン時代を招いてしまうというプロセスが入りますが、おそらくは「反動」のように見えるんですね。何が言いたいのかというと、元々からして「意見の集約」とか「民意の集約」というのは物凄く無理がある。これだけの多種多様な意見とか民意を、集約できるものであると思い込んでいる事にこそ、誤解があるのではないだろか。

労働基準法というのはよく出来ているなと感じた事がありました。何故なら労基法の主旨というのは最低限度の基準を定めたものであり、曖昧な領域に関しては踏み込まないようにつくられているからでした。多種多様な立場を考慮すれば、自ずと規定できる事柄は限定されてしまう事を知っている者がつくった法律だな、と。これは言い換えるなら、全員にすべからくメリットをもたらせるルールを制定しようとすれば、そのルールは自ずと寛大なものにならざるを得ない事を示唆している。自分で自分にルールを課すのであれば、どうぞ自由にやって下さいとなる。いくらでもストイックなルールを課しても結構だ。次に少人数のグループが、その構成員の意思によって堅固のルールを制定するのも結構だ。しかし、徐々に構成員が増えてゆくとなると多種多様な立場が構成員間に生まれることになるから定められるルールは緩めざるを得なくなる。ましてや、それまで違法ではなかった事を違法となるようにルールを変えてしまう等というのは、実は著しい混乱、不公平や不均衡を社会に与えるものでしょう。しかし、新自由主義が80年代もしくは90年代から台頭し、新しいルール、基本的にはグローバリズムと呼ばれる普遍的統一規格が、大手を振って歩き出してしまった。それはグローバリズムという言葉で語られてきたが、国際統一規格の世界普及を進めてきたという意味からすると、覇権主義的な価値観による世界統一を夢みているようなものでしかない。

何故、ワールドトレードセンタービルに対して乗っ取った旅客機で自爆テロを仕掛けるような勢力が登場したのか――という、その問題を考える場合の一助になる。世界は相対主義的に形成されている何かなのであり、国際規格という名の統一規格による統治、それに抗うようにできていたという事ではないんだろか。あの自爆テロに始まる「テロとの戦争」は、一部の論者から「これは出口のない戦争だ。国家と国家との戦争であれば終わりも見い出せるが、相手は国家ですらない」という指摘がありましたが、確かに歴史の流れを、そういう視点で眺めることが出来てしまうんですよね。


非常に散らかってしまい、これをカオスと感じる人が多いのだと思いますが、実は、このカオスな状態こそが「世界」というものを語る場合の正確な表現・描写だよなって思う。何故なら、ホントにカオスなのだから。

既に人々の関心さえ、焦点らしい焦点は定まらない。焦点が定まる筈もない。

どこかの段階で何処かから「新しい潮流」が生まれることになるか、それが生まれなければ破局へと近づくという事なのかな。


映画「ターミネーター」ではコンピューター制御による防衛システムが、人類に対して核戦争を仕掛けたというシナリオであった。つまり、AIが「人間どもは不要である」と気付いてしまい、核戦争を仕掛けたというシナリオだったんですよね。その核戦争によって絶滅寸前に陥っていた人類、その人類の中から「ジョン・コナー」という名前の若者が反乱を起こしたという。ジョン・コナー率いる人類はサイバーダインを相手に前線を破るという健闘をし、その為、サイバーダインは「ジョン・コナーが生まれてこなければ、このような状況にはならなかった」と判断し、ジョン・コナーを産むことになるサラ・コナーの暗殺を目論んで、1984年のアメリカはロスアンゼルスの街に殺人機械ターミネーターを送り込んだ。狙われたサラ・コナーときたら、ディスコのトイレで自慢の盛り盛りパーマネントヘアーで遊んでいる当時のアメリカ娘でしかなく、自分が将来、救世主を産むことになるだなんて信じられない。

久々に視聴して「あれ?」と思ったのは、未来に発生したという機械軍対人類軍との戦争シーンでした。結構、そのシーンがあったんですね。記憶になかった…。巨大な無人機【HK】が核攻撃によって荒廃している街中をゆっくりと飛行し、生き残っている人間どもを狩っている。つまり、機械が人間狩りをやっているというシーン。このシーンなんてのは、実際にドローンが軍事利用され、その無人機による対人攻撃が行なわれるようになった現在、捉え直してみると、「ああ、こんな未来は既に1984年には想像されていたのになぁ…」という感慨が沸き起こる。

昨日、字幕版と吹替版がケーブルテレビで放送されていたので、摘まみ食い的に視聴していましたが、その物語の核となるタイムリープに関しては兎も角として、将来的には防衛システムの暴発、或いは反乱によって人類が大変な事になる可能性は有り得るような気がしますしねぇ。

こういうカオスに終止符を打つのは、きっと破滅的状況なんじゃないんスかね。で、その破滅的状況の中からしか反乱は生じない。



ussyassya at 11:46│Comments(0)世迷い言 

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