2019年01月23日
東の結城合戦、西の嘉吉の乱
◆結城合戦
永享の乱によって鎌倉公方が滅んでしまったので、空位となる。
1440年3月3日、常陸国・木所城(茨城県桜川市)にて、上野国の国人である岩松持国が足利持氏の遺児である安王丸と春王丸を奉じて挙兵。安王丸らは下野国の日光山に逃れていたという。
岩松持国は西進し、同月13日に小栗城(茨城県筑西市)、同月21日には下総国の結城氏朝の居城である結城城に入城した。結城氏は「永享の乱」の後、幕府に恭順していたが安王丸ら持氏の遺児を迎え入れた事で翻意し、関東地方の諸将に決起を呼び掛けた。
この頃、山内上杉憲実は関東管領を辞しており、この時点では憲実の弟の山内上杉清方が関東管領にあったと推定されるという。関東管領によって討伐軍の動員をかけると共に、上杉清方自らも鎌倉を発つ。
1440年3月15日、討伐軍として山内上杉家の家宰(有力家臣の意で、後の宿老の意)にして武蔵国守護代の長尾景仲が出陣。
1440年3月21日、結城城に北関東の中小武士が参集し、結城氏朝を中心とする結城合戦が起こる。この鎌倉公方再興を促がす決起は、持氏の死の約一年後に発生している。
結城氏朝の呼び掛けに、下野国からは宇都宮伊予守、小山広朝、那須資重、常陸国からは佐竹義憲、上野国からは桃井憲義、信濃国からは大井持光、駿河国からは今川氏広、他に木戸氏、里見氏、一色氏、寺田氏、内田氏、小笠原氏など、2万の軍勢が結城氏朝の元に参陣したという。
1440年3月27日、結城城にて蜂起があったという事態を受けて、幕府は籠居状態にある山内上杉憲実に対しての政界復帰を命じている。命令に背けば、これまでの忠節は無に帰ると強く、憲実を促がしている。
1440年3月28日、征東将軍・安王丸の名義で、上杉憲実らの誅伐を呼び掛けて軍事催促状が国人衆らに発せられる。
その後、南陸奥の国人・石川持光は挙兵し、「永享の乱」で幕府に加担していた篠川御所を襲撃し、篠川御所の足利満直を殺害する。
同年4月6日、伊豆国を発った山内上杉憲実が鎌倉山内に到着し、幕府・上杉方による結城討伐軍が編成される。
幕府は、斯波持種率いる討伐隊を派遣すると共に、犬懸上杉教朝・持房兄弟も出陣。更に上野国の国人・岩松家純にも出陣を命じた。(この岩松家純は、安王丸らを奉じて蜂起した岩松持国の一族でもある。)
幕府・上杉連合軍には、宇都宮等綱(ともつな)、小山持政、佐竹興義、岩松家純、今川範忠、小笠原政康、武田信重、朝倉教景、土岐刑部小輔、小田讃岐守、千葉満胤のほか、武蔵七党、武蔵一揆衆が参陣し、総勢は十万余に及んだという。
幕府・上杉連合軍は同年7月末には結城城を包囲。結城城は必ずしも堅固な城ではなかったが、城内には足利持氏の遺児・安王丸らが匿われてているという事から、関東諸将の士気は上がらず、躊躇する姿が散見されたという。
同年4月17日、結城氏朝、岩松持国、桃井憲義らが、上杉方の小山持政の居城である祇園城に先制攻撃を仕掛けたのを皮切りに、各地で本格的な戦乱が展開されたという。
同年7月29日、幕府・上杉連合軍の総大将・上杉清方が結城に着陣。以降、陣頭指揮を執ったが、結城軍は籠城作戦で対抗し、一進一退の攻防となり、結城合戦は長期戦の様相を呈したという。そのまま、越年している。
戦況が膠着しているとして、将軍・足利義政から上杉清方には、早期決着の催促を受ける。
1441年4月16日、幕府・上杉軍は総攻撃を仕掛け、結城城陥落。
結城城陥落によって、結城氏朝は自刃、その子・持朝は戦死。旧持氏の近臣であった木戸氏をはじめ、幕府・上杉軍からなる討伐軍は、実に150にも及ぶ首級を上げたという。
持氏の遺児である安王丸、春王丸は女装して城内からの脱出を試みたが見破られて、捕縛される。
持氏の遺児とされる安王丸、春王丸、それと乙若丸は京都へ護送される事になった。安王丸は13〜12歳で、春王丸は11〜10歳で、乙若丸が4歳であったとされる。京都へ到る途中の美濃国・垂井の金蓮寺(こんれんじ/岐阜県垂井)にて安王丸と春王丸は誅殺された。まだ幼い乙若丸の処遇を巡って、誅殺すべきか否か室町幕府の意向を質していた折、幕府内で大事件「嘉吉の変」が発生する。
1441年5月16日、安王丸、春王丸が美濃国・垂井で誅殺される。
1441年6月24日、将軍・足利義教は、この日、結城合戦の勝利を祝うという名目で幕府内の有力者であり、播磨国守護・赤松満祐の屋敷に招かれて酒宴の席にあった。しかし、その酒宴の席で、赤松満祐に誅殺されたのだ。いわば「将軍殺し」という前代未聞の大事件が室町幕府で起こり、京都は大混乱に陥った。
嘉吉の変、将軍が赤松満祐に殺されたという大事件で京都は大混乱に陥り、その大混乱の御蔭で、乙若丸の処置はうやむやになる。従来は、このときの混乱で命拾いした乙若丸が後の足利成氏であると考えられていたが、近年、これは否定されているらしく、この乙若丸の正体は「神奈川県史」などでも成氏の弟の尊敒(そんじょう)であり、出家して「雪の下殿」と呼ばれていた七番目の子であるという。
◆嘉吉の乱
【乱】と【変】の用法について。原則的には「政変」を意味するものが【変】であり、軍隊が動くようなケースでは【乱】が用いられる。この将軍・足利義教の謀殺事件を暗殺事件として切り抜けば「嘉吉の変」という表現でも充分なのですが、当然、その後、軍隊が動いているので一連を称するなら「嘉吉の乱」の方が適切なように思えますかね…。
拙ブログ:【乱】と【変】について〜2019-1-19
さて、何故、将軍誅殺が起こったのかという問題がある。別に赤松満祐が乱心を起こして、将軍殺しをした訳ではない。
ここで誅殺された室町幕府第6代将軍・足利義教は、第5代の義量が早世してしまった為に、くじ引きで誕生した将軍であり、元々は出家していた僧侶であったという伏線があった。また、この第6代将軍職を巡っては、第4代鎌倉公方の足利持氏が将軍職に色気をみせたが、くじ引きから排除され、京都の足利家中からくじ引きをさせ、将軍となった人物でもある。
将軍となった義教の専制っぷりは凄まじく、当時の室町幕府は三管四職(さんかんししき)という合議制であったが、義教は各家の家督問題に介入し、勝手に家督を入れ替えたりしていた。また、これは地方の守護職や、国人衆に対しても同じであり、気に入らなければ守護職から外したり、所領を没収する等の極めて専制的に振る舞っていた将軍なのだ。比叡山に呪詛されていた例にも触れた通りだし、鎌倉公方に対しての謀議や謀略の痕跡も非常に多い人物で、「万人恐怖」と言われるようなワンマンっぷりの将軍だったのだ。
三管は細川家、斯波家、畠山家、四職として赤松家、一色家、山名家、京極家となる。これらの成立経緯は、室町幕府発足以前の幕府創建に貢献した有力諸家の体制であった事になる。赤松家の場合は足利家からすれば一門ではなく外様であるが、後醍醐天皇の時代から活躍が目立つ名門であり、四職家の赤松家の赤松満祐が将軍を誅殺した事になる。
伏線も様々にあり、結城合戦とも連動している。
中々、結城合戦が膠着している事に業を煮やした将軍・義教は、畠山持国に関東遠征を持ち掛けた。しかし、畠山持国は色よい返事をしなかった。畠山持国に不満を持つ家臣らから、将軍・義教らに持国罷免を求める声が上がったので、将軍・義教は畠山家の家督から外し、その弟の畠山持永を新たな家督に挿げ替えた。畠山持国は河内国へと落ちて行ったという一連がある。畠山家が管領家である事を考慮すると、この家督交代劇などは、まさしく将軍・義教の専制ぶりを表している。
将軍・義教は近臣の赤松貞村を重用する一方で、赤松家に対しては所領する播磨国と美作国と領地没収の噂が流れ、実際に赤松満祐の弟・赤松義雅の所領が没収されていた。赤松満祐は機先を制しようとして、この将軍誅殺を敢行したと思われるのだという。
結城合戦勝利後、京都では有力諸氏が競い合うようにして将軍・義教らを招いて祝宴をしていたという。赤松氏の場合は、赤松満祐の子・赤松教康の名で祝宴を開催したものという。
1441年6月24日、赤松邸で開催されたその宴会の席には、管領家の細川持之、斯波義廉らも同席していたという。赤松満祐と教康の赤松親子が具体的にどのように誅殺したのかは不明ながら、細川持之と斯波義廉は現場にいて逃走に成功したものというから、仮に細川持之や斯波義廉らが殺害されていたら室町幕府は即時に完全崩壊しかねない大事件であったのが分かる。また、この足利義教の誅殺時、この宴会に出席していた山名熙貴、京極高数(たかかず)、大内持世(もちよ)らは、赤松満祐によって、その場で殺害されたという。
逃げ遂せた者と、そうではない者が居た事ことからすると、毒殺ではなく、刀などを使用しての誅殺であったような気もしますね。想像すると、将軍殺しの現場は阿鼻叫喚の空間であったのかもね。
世紀の大事変を起こした赤松満祐は、その後、自邸に火を放つと、一族を率いて領国の播磨国へと引き揚げていったという。京都は大混乱に陥り、実際に室町幕府は、この事態を受けて、赤松追討軍の派遣に手こづったという。つまり、赤松一族は将軍を誅殺後、悠然と引き揚げていったのだ。
比叡山による呪詛や、鶴岡八幡宮で持氏に拠って血書願文で呪詛された足利義教には、宴席で誅殺されるという悲惨な最期が待っていたという事か。
1441年6月25日、管領・細川持之が諸氏を招集して善後策を話し合う。
後継の将軍は義教の嫡子の千也茶丸(足利義勝)に決定したが、千也茶丸(ちやちゃまる)は8歳であった為、政務は細川持之が代行する事が決まる。
管領・細川持之は、赤松討伐軍を編成するにあたり、仮に播磨へ軍勢を動かすと、河内国に隠然たる勢力圏を形成している畠山持国の存在が脅威となるので、畠山持国の赦免を検討する。足利義教が各方面で処罰や追放をやっていた事を悉く、赦免するという方針を執った。畠山持氏は最終的には家督に復帰している。
7月に入り、ようやく赤松討伐軍が出陣する。大手軍は細川持常、赤松定村、武田国信、搦め手は山名宗全が務めた。
1441年9月10日、山名宗全の活躍によって赤松満祐は自害に追い込まれた。子の教康は後に伊勢で誅殺されたという。
これによって、赤松氏の所領は播磨国を山名宗全に、備前国と美作国も山名一族の所領となった。ここで登場した山名宗全が、後の「応仁の乱」に大きく関与する一大勢力となる。
また、実質的な将軍暗殺事件であった「嘉吉の乱」を契機にして、室町幕府の威光は著しく低下したともいう。
永享の乱によって鎌倉公方が滅んでしまったので、空位となる。
1440年3月3日、常陸国・木所城(茨城県桜川市)にて、上野国の国人である岩松持国が足利持氏の遺児である安王丸と春王丸を奉じて挙兵。安王丸らは下野国の日光山に逃れていたという。
岩松持国は西進し、同月13日に小栗城(茨城県筑西市)、同月21日には下総国の結城氏朝の居城である結城城に入城した。結城氏は「永享の乱」の後、幕府に恭順していたが安王丸ら持氏の遺児を迎え入れた事で翻意し、関東地方の諸将に決起を呼び掛けた。
この頃、山内上杉憲実は関東管領を辞しており、この時点では憲実の弟の山内上杉清方が関東管領にあったと推定されるという。関東管領によって討伐軍の動員をかけると共に、上杉清方自らも鎌倉を発つ。
1440年3月15日、討伐軍として山内上杉家の家宰(有力家臣の意で、後の宿老の意)にして武蔵国守護代の長尾景仲が出陣。
1440年3月21日、結城城に北関東の中小武士が参集し、結城氏朝を中心とする結城合戦が起こる。この鎌倉公方再興を促がす決起は、持氏の死の約一年後に発生している。
結城氏朝の呼び掛けに、下野国からは宇都宮伊予守、小山広朝、那須資重、常陸国からは佐竹義憲、上野国からは桃井憲義、信濃国からは大井持光、駿河国からは今川氏広、他に木戸氏、里見氏、一色氏、寺田氏、内田氏、小笠原氏など、2万の軍勢が結城氏朝の元に参陣したという。
1440年3月27日、結城城にて蜂起があったという事態を受けて、幕府は籠居状態にある山内上杉憲実に対しての政界復帰を命じている。命令に背けば、これまでの忠節は無に帰ると強く、憲実を促がしている。
1440年3月28日、征東将軍・安王丸の名義で、上杉憲実らの誅伐を呼び掛けて軍事催促状が国人衆らに発せられる。
その後、南陸奥の国人・石川持光は挙兵し、「永享の乱」で幕府に加担していた篠川御所を襲撃し、篠川御所の足利満直を殺害する。
同年4月6日、伊豆国を発った山内上杉憲実が鎌倉山内に到着し、幕府・上杉方による結城討伐軍が編成される。
幕府は、斯波持種率いる討伐隊を派遣すると共に、犬懸上杉教朝・持房兄弟も出陣。更に上野国の国人・岩松家純にも出陣を命じた。(この岩松家純は、安王丸らを奉じて蜂起した岩松持国の一族でもある。)
幕府・上杉連合軍には、宇都宮等綱(ともつな)、小山持政、佐竹興義、岩松家純、今川範忠、小笠原政康、武田信重、朝倉教景、土岐刑部小輔、小田讃岐守、千葉満胤のほか、武蔵七党、武蔵一揆衆が参陣し、総勢は十万余に及んだという。
幕府・上杉連合軍は同年7月末には結城城を包囲。結城城は必ずしも堅固な城ではなかったが、城内には足利持氏の遺児・安王丸らが匿われてているという事から、関東諸将の士気は上がらず、躊躇する姿が散見されたという。
同年4月17日、結城氏朝、岩松持国、桃井憲義らが、上杉方の小山持政の居城である祇園城に先制攻撃を仕掛けたのを皮切りに、各地で本格的な戦乱が展開されたという。
同年7月29日、幕府・上杉連合軍の総大将・上杉清方が結城に着陣。以降、陣頭指揮を執ったが、結城軍は籠城作戦で対抗し、一進一退の攻防となり、結城合戦は長期戦の様相を呈したという。そのまま、越年している。
戦況が膠着しているとして、将軍・足利義政から上杉清方には、早期決着の催促を受ける。
1441年4月16日、幕府・上杉軍は総攻撃を仕掛け、結城城陥落。
結城城陥落によって、結城氏朝は自刃、その子・持朝は戦死。旧持氏の近臣であった木戸氏をはじめ、幕府・上杉軍からなる討伐軍は、実に150にも及ぶ首級を上げたという。
持氏の遺児である安王丸、春王丸は女装して城内からの脱出を試みたが見破られて、捕縛される。
持氏の遺児とされる安王丸、春王丸、それと乙若丸は京都へ護送される事になった。安王丸は13〜12歳で、春王丸は11〜10歳で、乙若丸が4歳であったとされる。京都へ到る途中の美濃国・垂井の金蓮寺(こんれんじ/岐阜県垂井)にて安王丸と春王丸は誅殺された。まだ幼い乙若丸の処遇を巡って、誅殺すべきか否か室町幕府の意向を質していた折、幕府内で大事件「嘉吉の変」が発生する。
1441年5月16日、安王丸、春王丸が美濃国・垂井で誅殺される。
1441年6月24日、将軍・足利義教は、この日、結城合戦の勝利を祝うという名目で幕府内の有力者であり、播磨国守護・赤松満祐の屋敷に招かれて酒宴の席にあった。しかし、その酒宴の席で、赤松満祐に誅殺されたのだ。いわば「将軍殺し」という前代未聞の大事件が室町幕府で起こり、京都は大混乱に陥った。
嘉吉の変、将軍が赤松満祐に殺されたという大事件で京都は大混乱に陥り、その大混乱の御蔭で、乙若丸の処置はうやむやになる。従来は、このときの混乱で命拾いした乙若丸が後の足利成氏であると考えられていたが、近年、これは否定されているらしく、この乙若丸の正体は「神奈川県史」などでも成氏の弟の尊敒(そんじょう)であり、出家して「雪の下殿」と呼ばれていた七番目の子であるという。
◆嘉吉の乱
【乱】と【変】の用法について。原則的には「政変」を意味するものが【変】であり、軍隊が動くようなケースでは【乱】が用いられる。この将軍・足利義教の謀殺事件を暗殺事件として切り抜けば「嘉吉の変」という表現でも充分なのですが、当然、その後、軍隊が動いているので一連を称するなら「嘉吉の乱」の方が適切なように思えますかね…。
拙ブログ:【乱】と【変】について〜2019-1-19
さて、何故、将軍誅殺が起こったのかという問題がある。別に赤松満祐が乱心を起こして、将軍殺しをした訳ではない。
ここで誅殺された室町幕府第6代将軍・足利義教は、第5代の義量が早世してしまった為に、くじ引きで誕生した将軍であり、元々は出家していた僧侶であったという伏線があった。また、この第6代将軍職を巡っては、第4代鎌倉公方の足利持氏が将軍職に色気をみせたが、くじ引きから排除され、京都の足利家中からくじ引きをさせ、将軍となった人物でもある。
将軍となった義教の専制っぷりは凄まじく、当時の室町幕府は三管四職(さんかんししき)という合議制であったが、義教は各家の家督問題に介入し、勝手に家督を入れ替えたりしていた。また、これは地方の守護職や、国人衆に対しても同じであり、気に入らなければ守護職から外したり、所領を没収する等の極めて専制的に振る舞っていた将軍なのだ。比叡山に呪詛されていた例にも触れた通りだし、鎌倉公方に対しての謀議や謀略の痕跡も非常に多い人物で、「万人恐怖」と言われるようなワンマンっぷりの将軍だったのだ。
三管は細川家、斯波家、畠山家、四職として赤松家、一色家、山名家、京極家となる。これらの成立経緯は、室町幕府発足以前の幕府創建に貢献した有力諸家の体制であった事になる。赤松家の場合は足利家からすれば一門ではなく外様であるが、後醍醐天皇の時代から活躍が目立つ名門であり、四職家の赤松家の赤松満祐が将軍を誅殺した事になる。
伏線も様々にあり、結城合戦とも連動している。
中々、結城合戦が膠着している事に業を煮やした将軍・義教は、畠山持国に関東遠征を持ち掛けた。しかし、畠山持国は色よい返事をしなかった。畠山持国に不満を持つ家臣らから、将軍・義教らに持国罷免を求める声が上がったので、将軍・義教は畠山家の家督から外し、その弟の畠山持永を新たな家督に挿げ替えた。畠山持国は河内国へと落ちて行ったという一連がある。畠山家が管領家である事を考慮すると、この家督交代劇などは、まさしく将軍・義教の専制ぶりを表している。
将軍・義教は近臣の赤松貞村を重用する一方で、赤松家に対しては所領する播磨国と美作国と領地没収の噂が流れ、実際に赤松満祐の弟・赤松義雅の所領が没収されていた。赤松満祐は機先を制しようとして、この将軍誅殺を敢行したと思われるのだという。
結城合戦勝利後、京都では有力諸氏が競い合うようにして将軍・義教らを招いて祝宴をしていたという。赤松氏の場合は、赤松満祐の子・赤松教康の名で祝宴を開催したものという。
1441年6月24日、赤松邸で開催されたその宴会の席には、管領家の細川持之、斯波義廉らも同席していたという。赤松満祐と教康の赤松親子が具体的にどのように誅殺したのかは不明ながら、細川持之と斯波義廉は現場にいて逃走に成功したものというから、仮に細川持之や斯波義廉らが殺害されていたら室町幕府は即時に完全崩壊しかねない大事件であったのが分かる。また、この足利義教の誅殺時、この宴会に出席していた山名熙貴、京極高数(たかかず)、大内持世(もちよ)らは、赤松満祐によって、その場で殺害されたという。
逃げ遂せた者と、そうではない者が居た事ことからすると、毒殺ではなく、刀などを使用しての誅殺であったような気もしますね。想像すると、将軍殺しの現場は阿鼻叫喚の空間であったのかもね。
世紀の大事変を起こした赤松満祐は、その後、自邸に火を放つと、一族を率いて領国の播磨国へと引き揚げていったという。京都は大混乱に陥り、実際に室町幕府は、この事態を受けて、赤松追討軍の派遣に手こづったという。つまり、赤松一族は将軍を誅殺後、悠然と引き揚げていったのだ。
比叡山による呪詛や、鶴岡八幡宮で持氏に拠って血書願文で呪詛された足利義教には、宴席で誅殺されるという悲惨な最期が待っていたという事か。
1441年6月25日、管領・細川持之が諸氏を招集して善後策を話し合う。
後継の将軍は義教の嫡子の千也茶丸(足利義勝)に決定したが、千也茶丸(ちやちゃまる)は8歳であった為、政務は細川持之が代行する事が決まる。
管領・細川持之は、赤松討伐軍を編成するにあたり、仮に播磨へ軍勢を動かすと、河内国に隠然たる勢力圏を形成している畠山持国の存在が脅威となるので、畠山持国の赦免を検討する。足利義教が各方面で処罰や追放をやっていた事を悉く、赦免するという方針を執った。畠山持氏は最終的には家督に復帰している。
7月に入り、ようやく赤松討伐軍が出陣する。大手軍は細川持常、赤松定村、武田国信、搦め手は山名宗全が務めた。
1441年9月10日、山名宗全の活躍によって赤松満祐は自害に追い込まれた。子の教康は後に伊勢で誅殺されたという。
これによって、赤松氏の所領は播磨国を山名宗全に、備前国と美作国も山名一族の所領となった。ここで登場した山名宗全が、後の「応仁の乱」に大きく関与する一大勢力となる。
また、実質的な将軍暗殺事件であった「嘉吉の乱」を契機にして、室町幕府の威光は著しく低下したともいう。
この記事へのコメント
1. Posted by スナフキンの名の名無し 2019年01月23日 13:04
こんにちわ。赤松というと太平記で活躍した一族ですが……山名宗全に領地を奪われる。彼は応仁乱の顔役であると。
京都にいるより所領に戻ろうとする役者が増えてきた気がする。それは追い詰められての事なのですけれども。
しかし幕府の権威が失墜してしまえば、誰も言うことを聞かなくなれば……京都に張り付いて守護の役を解任されたり、所領没収されないように目を光らせる必要はなくなる。
そうなると群雄割拠で、さらに進むと国許の守護代が君主の座を狙うようなる。そうしたら下克上ですわね。応仁の乱の立役者が参加したところで、そろそろ足音が……。
しかし応仁の乱から信長の天下一統まで1世紀。徳川幕府まで150年くらいですか?
気の長い話ですね。
私は思うんですが、この室町時代の戦争って、けっこうグダグダとした戦だった思うです。
続く
京都にいるより所領に戻ろうとする役者が増えてきた気がする。それは追い詰められての事なのですけれども。
しかし幕府の権威が失墜してしまえば、誰も言うことを聞かなくなれば……京都に張り付いて守護の役を解任されたり、所領没収されないように目を光らせる必要はなくなる。
そうなると群雄割拠で、さらに進むと国許の守護代が君主の座を狙うようなる。そうしたら下克上ですわね。応仁の乱の立役者が参加したところで、そろそろ足音が……。
しかし応仁の乱から信長の天下一統まで1世紀。徳川幕府まで150年くらいですか?
気の長い話ですね。
私は思うんですが、この室町時代の戦争って、けっこうグダグダとした戦だった思うです。
続く
2. Posted by スナフキンの名の名無し 2019年01月23日 13:15
というのはあっちこっちで乱があるのが恒常的になるわけでしょう?
そうすると戦も生活の一部になっちゃうと思うんですね。開口健のベトナム戦記を読んでいると、南ベトナム軍もベトコンも牧歌的なところがあるんですよ。それを見てキリキリ戦争してるアメリカ軍人がイラッ!としたりする(笑)
ベトナムの農民兵には産まれる前から(フランス相手だけど)戦争続いてるし、俺は三男だから軍隊に来たし。飯は食えるし……と戦争や軍隊が生活であったりする。
すると適当な所で妥協して、逃げたり、勝っても追撃戦を真面目にやらなかったり。
それがアメリカの介入が本格化した、あるいは
戦国なら生産力と人口が拡大して、多数の兵士を投入できるようになってくると、本気で戦争をやらないと殺られる時代になってくる。
それ以前の「今年も農繁期が終わるから、そろそろ三男は戦で一稼ぎ……」みたいな時代は、
戦争も生活の一部ですからユルユル、ダラダラした戦いしかしないと思うすね。
だって、そうでなければ100年あまり続かないんですよ。その前に領土が荒廃してしまう。
だから決して、戦国も後半からのキリキリした戦場ではなかった気がするんですね。
そうすると戦も生活の一部になっちゃうと思うんですね。開口健のベトナム戦記を読んでいると、南ベトナム軍もベトコンも牧歌的なところがあるんですよ。それを見てキリキリ戦争してるアメリカ軍人がイラッ!としたりする(笑)
ベトナムの農民兵には産まれる前から(フランス相手だけど)戦争続いてるし、俺は三男だから軍隊に来たし。飯は食えるし……と戦争や軍隊が生活であったりする。
すると適当な所で妥協して、逃げたり、勝っても追撃戦を真面目にやらなかったり。
それがアメリカの介入が本格化した、あるいは
戦国なら生産力と人口が拡大して、多数の兵士を投入できるようになってくると、本気で戦争をやらないと殺られる時代になってくる。
それ以前の「今年も農繁期が終わるから、そろそろ三男は戦で一稼ぎ……」みたいな時代は、
戦争も生活の一部ですからユルユル、ダラダラした戦いしかしないと思うすね。
だって、そうでなければ100年あまり続かないんですよ。その前に領土が荒廃してしまう。
だから決して、戦国も後半からのキリキリした戦場ではなかった気がするんですね。
3. Posted by メロンぱんち 2019年01月23日 13:37
スナフキンの名の名無しさん>
この時代の戦でも農繁期は関係していたようですね。 農繁期は中小武士団の集まりが悪いとか、どこか牧歌的な空気も読み取れます。
少し先になるになりますが、北条氏康や上杉謙信が登場する頃になると、結構、えげつなくなっていき、収穫期に敵陣に攻め込んで食料と労働力を奪うなどの戦い方になっていったようです。上杉謙信の遠征の謎も、これと関係があって、敵の収穫を邪魔する、奪うという行為から、あの短期間の遠征を繰り返していたのではないか――と。飢饉になっている事を承知で、攻め込むなども戦国時代になってから起こりますね。
この時代の戦でも農繁期は関係していたようですね。 農繁期は中小武士団の集まりが悪いとか、どこか牧歌的な空気も読み取れます。
少し先になるになりますが、北条氏康や上杉謙信が登場する頃になると、結構、えげつなくなっていき、収穫期に敵陣に攻め込んで食料と労働力を奪うなどの戦い方になっていったようです。上杉謙信の遠征の謎も、これと関係があって、敵の収穫を邪魔する、奪うという行為から、あの短期間の遠征を繰り返していたのではないか――と。飢饉になっている事を承知で、攻め込むなども戦国時代になってから起こりますね。
4. Posted by メロンぱんち 2019年01月23日 13:45
それと、兵農分離の問題があるのですが、既に、この室町時代って関東の武士は中小武士であっても弓矢と馬を使用しているんですよね。農民を足軽として使用しだすのは応仁の乱の頃からだそうで、この室町期は農民を動員していたのではなく、やはり荘園領主の武装した集団が、あれこれと動いていた時代と考えるべきなのかも。
また、騎馬と弓矢を扱っていた事とから、農耕をする農民が武士になったとは考えにくく、ひょっとしたら蝦夷らとの交雑の中で武士の起源があったのではないかという武士起源論が再注目されているみたいですね。
また、騎馬と弓矢を扱っていた事とから、農耕をする農民が武士になったとは考えにくく、ひょっとしたら蝦夷らとの交雑の中で武士の起源があったのではないかという武士起源論が再注目されているみたいですね。








