2019年01月23日
「村八分」報道を受けての感想
大分県で発生して裁判沙汰になっているという村八分騒動について。
うむむ、埼玉ながら北関東に近い場所を生活圏にしている私の感覚からすると、大分県で発生しているという村八分騒動は、想像以上に先住民たちが新住民に厳しいのかなという印象を率直に持ちましたかね。。。
基本的には、自治会内の会計業務に腑に落ちない部分を見つけてしまった新住民氏(原告)が、地元の有力者氏に物言いをし、その結果、自治会を辞めると啖呵を切った。すると、自治会側は「自治会を辞める」という発言を「集落を出ていく」という発言と受け取り、ゴミ集積場の使用を制限したり、区画整理事務所で管理している調整池の水を抜くなどした為、新住民氏の家では調整池から生活用水を使用するという契約していたにも関わらず、水を止められてしまった状態となり、やむを得ず、十年以上住んだ家から引っ越す事を余儀なくされた。その新住民氏が、自治会の有力者2名と区画整理事務所とを相手に、2900〜3000万円の賠償を求める訴訟をおこしたというのが、報じられている経緯かな。
いやいや、このテのトラブルは、結構、悩まされるものかも知れませんが、上記の情報から考える限りは、さすがに新住民氏が気の毒だなと考えますかねぇ。とはいえ、こういう問題、ともすると極論に陥りがちであり、単純に「田舎は閉鎖的で都会は開放的」という具合に語られていくのは、苦々しいものもありますかね。というのは、おそらく都市部の人は耳年増、過剰に田舎は閉鎖的という風に理解してしまう可能性があるから。
肌身で体感してきた感覚からすると、今どき、「この村にあっては、絶対に挨拶する順番を間違えてはいけねぇだぞ」という程の古いしきたりのある田舎は、かなりの寒村でしょうねぇ。テレビが田舎、田舎と報じている埼玉県あたりでは、先ず、有り得ないレベルの閉鎖的な話ですかねぇ。いやいや、これはホントに田舎らしい田舎、ミヤマクワガタが取れてしまうような栃木県の田舎でも同じかなぁって思う。開けている地域と、そうではない地域の差異という事になりますが、「挨拶する順番を間違えてはならない」という因習は耳にした事がない。
地酒の販売や卸業をしている古くから地域に住んでいる方と世間話をした際、
「昔は埼玉なんてほんとに田舎でさ、帰ってきたら知らない近所の人がウチに上がり込んでんだもん。毎日のように『お茶、御馳走しとこれ』って来ちゃったもんだよ。参ったよなぁ…」
というんですね。
おお、それ、やられたら、きついなぁ…と思い、いつ頃なのかと尋ねてみたら年代的には昭和30年代の話だという。舗装路は疎らで、田んぼと林ばかりの頃であった、と。
とはいえ、終戦直後ではないんですね。終戦直後の写真だと、地元寺院が採った集合写真を見たことがあるのですが、坊主頭にのびたランニングシャツの子供が、一様に訝しそうな眼つきで収まっている。住職いわく、この時代だと、この辺の子らはカメラを怪しんでいて、カメラを睨みつけていたんじゃないですかね、という。言われてみると、そんな感じ。
農家が多かった時代なのか、新住民が越してくると、そこらの住民が勝手にやってきて、当たり前のように「お茶でも、もらってくべかな」という具合に新住民の家に上がり込むのは、珍しくなかったらしい。
しかし、これ、想像がつくとおりで、猫が家に届いた通販の段ボールを嗅ぎ回るような、その行動様式なんですよね。新しく家が建って、そこに知らない人が引っ越してきたけど、どういう一家なのか分からない。なので、先住民からすると、新住民の素姓を知りたい、どういう人で、どういう一家なのか嗅ぎ回りたいという欲求がある訳ですね。そうする事で、安心する。これは転校生も同じですかねぇ。転校生をイジメる者もあるが、基本的には転校生に対して「どんな子なのだろう?」と興味を抱き、知り合うべく、あれこれと世話を焼く子がいるのとも似ている。要は、相手を認識しておきたいという動物的な本能も介在しているのでしょう。
で、「お茶を御馳走になっていくかな」と他人の家に当たり前のように上がり込む空気が残っていたのは、埼玉あたりでも昭和30年代、農家の集落でも昭和40年代中盤まででしょう。以降、小学生が、「お庭、通らせてね」と勝手に声をかけて勝手に農家の家の庭を通って近道する事が許されていたのが昭和50年中盤ぐらいまでかな。
思えば、力道山の街頭テレビに都市部でも人が群がっていた時代があり、埼玉あたりでは昭和40年初頭では電話が珍しかったので、電話のあった家はご近所さんに電話を当たり前のように貸していた時代なのだ。
それらを考慮しても、村八分騒動は如何にも古いしきたりが残り過ぎているように思える。
しかし、自治会の会計などで不正を見つけてしまう事は、実は、珍しくないと思う。代々、そうなっており、これを是正するのは結構、難しい事なのだ。カネと帳面が合わなくなってしまうので、自腹で補填するタイプの人もある一方で、自治会のカネを自分のカネと勘違いして使い込みをしてしまうタイプの人もある。この分別は、結構、直ぐに見分けられる。カネにルーズそうな人と、そうではない人の差は、話しっぷりや態度から、見分ける事ができるんですね。基本的には金持ちほどカネにはクリーンであり、カネに困っている人の中から「あの人、どうしちゃったん?」という具合に使い込みをやらかす者が登場する。
で、決算報告前の集会で、自治会内の問題が俎上に上がる。
「辻褄が合わんよね…。誰かが使い込んだって事でしょ?」
等の批判も実は珍しくない。しかし、根本的な部分から綺麗さっぱりと解決する事はあんまり期待できない気がする。使い込んだ者が役員を去る、つまり、辞めて幕引きとなる。そんな感じ。
てな感じが私の知る実情ですかねぇ。自らがクリーンに振る舞う事は可能だし、難しくもないのですが、他者の不正や、組織全体の好ましくない支出を問い質すというのは実際に気を遣うものと思いますかねぇ。いやいや、おそらく物凄く気を遣う。「この人がお金を使い込んじゃってるんだよね」と分かっている場合でも、それを真正面から指摘すると揉め事になるのは必至なのだ。
とはいえ、告発する側が悪者に仕立て上げられるような事もないかな。少しづつ、顔ぶれが入れ替わってゆくという感じですかねぇ。独りの正義感によって「おかしい!」と糾弾し、それを機に組織を一新できるのかというと、実は大変なように思う。少しづつ顔ぶれが変わってゆくという感じ。少しづつは改善されていく、少しづつしか改善は期待できない――と。
これは現実問題として仕方のない部分があって、理不尽であっても「郷に入らば郷に従え」が処世術としては定石で、「ホントは、これこれこうなんだけどね」という意見を持ちながらも、その自分の正義感を即、相手にも通用するものと思わずに、一定範囲で妥協して、周囲に合わせる態度を持たない事には、どうにもならない気がしますねぇ。
とはいえ、告発者が仲間外れにされる事は無さそうですかねぇ。過剰であれば、付き合い難い人という風に認識されてしまう可能性はあるものの、過剰でない限りは正しい行動であったと認識されることになるだろうから。
自治会費を払ってくれないので、回覧板を差し止めたいという人も実際にいたりする。しかし、これを実際に市役所に問いただすと、「まぁ、そういう事はしない方向でお願いします」と頼まれることになるって言ってたかな。法治主義を厳格に採用していった場合、自治会費や行政区費のようなものは強制加入ではないのだけれども、だからといって、それを逆手にとって「強制じゃないのであればウチは加入しない」というのでは、実は地域社会が成り立たなくなってしまうのが、相互扶助論の基本みたいなものだろうしねぇ。
うむむ、埼玉ながら北関東に近い場所を生活圏にしている私の感覚からすると、大分県で発生しているという村八分騒動は、想像以上に先住民たちが新住民に厳しいのかなという印象を率直に持ちましたかね。。。
基本的には、自治会内の会計業務に腑に落ちない部分を見つけてしまった新住民氏(原告)が、地元の有力者氏に物言いをし、その結果、自治会を辞めると啖呵を切った。すると、自治会側は「自治会を辞める」という発言を「集落を出ていく」という発言と受け取り、ゴミ集積場の使用を制限したり、区画整理事務所で管理している調整池の水を抜くなどした為、新住民氏の家では調整池から生活用水を使用するという契約していたにも関わらず、水を止められてしまった状態となり、やむを得ず、十年以上住んだ家から引っ越す事を余儀なくされた。その新住民氏が、自治会の有力者2名と区画整理事務所とを相手に、2900〜3000万円の賠償を求める訴訟をおこしたというのが、報じられている経緯かな。
いやいや、このテのトラブルは、結構、悩まされるものかも知れませんが、上記の情報から考える限りは、さすがに新住民氏が気の毒だなと考えますかねぇ。とはいえ、こういう問題、ともすると極論に陥りがちであり、単純に「田舎は閉鎖的で都会は開放的」という具合に語られていくのは、苦々しいものもありますかね。というのは、おそらく都市部の人は耳年増、過剰に田舎は閉鎖的という風に理解してしまう可能性があるから。
肌身で体感してきた感覚からすると、今どき、「この村にあっては、絶対に挨拶する順番を間違えてはいけねぇだぞ」という程の古いしきたりのある田舎は、かなりの寒村でしょうねぇ。テレビが田舎、田舎と報じている埼玉県あたりでは、先ず、有り得ないレベルの閉鎖的な話ですかねぇ。いやいや、これはホントに田舎らしい田舎、ミヤマクワガタが取れてしまうような栃木県の田舎でも同じかなぁって思う。開けている地域と、そうではない地域の差異という事になりますが、「挨拶する順番を間違えてはならない」という因習は耳にした事がない。
地酒の販売や卸業をしている古くから地域に住んでいる方と世間話をした際、
「昔は埼玉なんてほんとに田舎でさ、帰ってきたら知らない近所の人がウチに上がり込んでんだもん。毎日のように『お茶、御馳走しとこれ』って来ちゃったもんだよ。参ったよなぁ…」
というんですね。
おお、それ、やられたら、きついなぁ…と思い、いつ頃なのかと尋ねてみたら年代的には昭和30年代の話だという。舗装路は疎らで、田んぼと林ばかりの頃であった、と。
とはいえ、終戦直後ではないんですね。終戦直後の写真だと、地元寺院が採った集合写真を見たことがあるのですが、坊主頭にのびたランニングシャツの子供が、一様に訝しそうな眼つきで収まっている。住職いわく、この時代だと、この辺の子らはカメラを怪しんでいて、カメラを睨みつけていたんじゃないですかね、という。言われてみると、そんな感じ。
農家が多かった時代なのか、新住民が越してくると、そこらの住民が勝手にやってきて、当たり前のように「お茶でも、もらってくべかな」という具合に新住民の家に上がり込むのは、珍しくなかったらしい。
しかし、これ、想像がつくとおりで、猫が家に届いた通販の段ボールを嗅ぎ回るような、その行動様式なんですよね。新しく家が建って、そこに知らない人が引っ越してきたけど、どういう一家なのか分からない。なので、先住民からすると、新住民の素姓を知りたい、どういう人で、どういう一家なのか嗅ぎ回りたいという欲求がある訳ですね。そうする事で、安心する。これは転校生も同じですかねぇ。転校生をイジメる者もあるが、基本的には転校生に対して「どんな子なのだろう?」と興味を抱き、知り合うべく、あれこれと世話を焼く子がいるのとも似ている。要は、相手を認識しておきたいという動物的な本能も介在しているのでしょう。
で、「お茶を御馳走になっていくかな」と他人の家に当たり前のように上がり込む空気が残っていたのは、埼玉あたりでも昭和30年代、農家の集落でも昭和40年代中盤まででしょう。以降、小学生が、「お庭、通らせてね」と勝手に声をかけて勝手に農家の家の庭を通って近道する事が許されていたのが昭和50年中盤ぐらいまでかな。
思えば、力道山の街頭テレビに都市部でも人が群がっていた時代があり、埼玉あたりでは昭和40年初頭では電話が珍しかったので、電話のあった家はご近所さんに電話を当たり前のように貸していた時代なのだ。
それらを考慮しても、村八分騒動は如何にも古いしきたりが残り過ぎているように思える。
しかし、自治会の会計などで不正を見つけてしまう事は、実は、珍しくないと思う。代々、そうなっており、これを是正するのは結構、難しい事なのだ。カネと帳面が合わなくなってしまうので、自腹で補填するタイプの人もある一方で、自治会のカネを自分のカネと勘違いして使い込みをしてしまうタイプの人もある。この分別は、結構、直ぐに見分けられる。カネにルーズそうな人と、そうではない人の差は、話しっぷりや態度から、見分ける事ができるんですね。基本的には金持ちほどカネにはクリーンであり、カネに困っている人の中から「あの人、どうしちゃったん?」という具合に使い込みをやらかす者が登場する。
で、決算報告前の集会で、自治会内の問題が俎上に上がる。
「辻褄が合わんよね…。誰かが使い込んだって事でしょ?」
等の批判も実は珍しくない。しかし、根本的な部分から綺麗さっぱりと解決する事はあんまり期待できない気がする。使い込んだ者が役員を去る、つまり、辞めて幕引きとなる。そんな感じ。
てな感じが私の知る実情ですかねぇ。自らがクリーンに振る舞う事は可能だし、難しくもないのですが、他者の不正や、組織全体の好ましくない支出を問い質すというのは実際に気を遣うものと思いますかねぇ。いやいや、おそらく物凄く気を遣う。「この人がお金を使い込んじゃってるんだよね」と分かっている場合でも、それを真正面から指摘すると揉め事になるのは必至なのだ。
とはいえ、告発する側が悪者に仕立て上げられるような事もないかな。少しづつ、顔ぶれが入れ替わってゆくという感じですかねぇ。独りの正義感によって「おかしい!」と糾弾し、それを機に組織を一新できるのかというと、実は大変なように思う。少しづつ顔ぶれが変わってゆくという感じ。少しづつは改善されていく、少しづつしか改善は期待できない――と。
これは現実問題として仕方のない部分があって、理不尽であっても「郷に入らば郷に従え」が処世術としては定石で、「ホントは、これこれこうなんだけどね」という意見を持ちながらも、その自分の正義感を即、相手にも通用するものと思わずに、一定範囲で妥協して、周囲に合わせる態度を持たない事には、どうにもならない気がしますねぇ。
とはいえ、告発者が仲間外れにされる事は無さそうですかねぇ。過剰であれば、付き合い難い人という風に認識されてしまう可能性はあるものの、過剰でない限りは正しい行動であったと認識されることになるだろうから。
自治会費を払ってくれないので、回覧板を差し止めたいという人も実際にいたりする。しかし、これを実際に市役所に問いただすと、「まぁ、そういう事はしない方向でお願いします」と頼まれることになるって言ってたかな。法治主義を厳格に採用していった場合、自治会費や行政区費のようなものは強制加入ではないのだけれども、だからといって、それを逆手にとって「強制じゃないのであればウチは加入しない」というのでは、実は地域社会が成り立たなくなってしまうのが、相互扶助論の基本みたいなものだろうしねぇ。
ussyassya at 13:20│Comments(0)│世相・社会








