2019年02月09日

第5代関東公方・足利成氏の時代〜4

◆享徳の乱〜成氏包囲網

足利政知が伊豆国・堀越(伊豆の国市)で、堀越公方になった後、享徳の乱に於ける大きな変化があった。この「享徳の乱」の発端は、上杉憲実ら22名を足利成氏与党が皆殺しにするというセンセーショナルな事件で幕を開けたが、その実行犯であり、成氏方の主力であった岩松持国に上杉方からの調略が行われ、岩松持国が寝返るという展開に発展した。

1458年7月頃、第8代室町幕府将軍・足利義政の異母兄である足利政知が伊豆に入り、堀越公方となる。

この堀越公方の誕生は、元々は鎌倉入りを目指していた節が伺える。扇谷上杉家で太田道真が太田道灌に家宰を譲ったのは、堀越公方と太田道真との軋轢があった為とされているが、幕府は足利政知の東国下向に併せて、足利一門の渋川義鏡(よしかね)を東国に下向させているが、これは渋川義鏡の祖父が武蔵国司として蕨城(埼玉県蕨市)を居城にしていたからという理由であったらしく、実際に武蔵国を統治していた扇谷上杉家を混乱させるものであったと推測できるという。つまり、扇谷上杉家からすれば、この室町幕府による政知の関東下向は有難迷惑であった側面があり、扇谷上杉家が政知の関東入りを拒否した為、伊豆国堀越で公方となったとみると整合性がとれる。幕府は政知の為に兵糧を得る為の所領を用意したが、結局は両上杉氏の所領を切り取る事を意味していた。実情としては幕府と上杉家との間でも足並みが揃っていた訳ではない。

また、この時期、上野国の国人である岩松持国が幕府・上杉方に寝返る。

京都へ逃れていた宇都宮等綱が陸奥国の白川結城直朝氏を頼って、古河公方攻めを画策して挙兵。しかし、この宇都宮・白河連合軍は、下野国の国人である成氏方勢力の那須資持に阻止された。

更に、上杉方の岩松家純が信濃国守護の小笠原氏と同時に出陣準備を開始。

更に更に、室町幕府は越前、尾張、遠江三ヵ国の守護を兼任していた斯波義敏に関東遠征を命じた。室町幕府は「三管四職」が将軍を補佐するシステムになっており、幕府の管領職になれるのは最初から細川、畠山、斯波の御三家に限定されていた。当時は管領は細川氏であったが、管領を輩出する権利を有する三管家の一つ、その斯波氏にに関東遠征を命じたの意である。

1458年秋、室町幕府は威信を賭けて享徳の乱を鎮圧しようとしたが、信濃国守護の小笠原氏と、幕府の有力者である斯波氏は出陣せず。小笠原氏と斯波氏が不参加ながら、幕府の援助を受けて、この秋、上杉軍は利根川を越えて、古河公方軍に総攻撃を仕掛ける。

1458年10月14日、武蔵国太田荘(推定されているのは鴻巣市付近)で幕府上杉大連合軍と、それを迎え撃った古河公方・成氏軍が激突。

1458年10月15日、上野国・海老瀬口(えびせぐち/群馬県板倉町)、同じく上野国の羽継原(はねつぐはら/群馬県館林市)で両軍の激しい戦闘になり、上杉軍には上杉教房の戦死を筆頭に甚大な被害があったという。つまり、この決戦でも、勝利したのは古河公方軍であった。

さて、寝返った岩松持国は、かなり有力な国人衆であったと思われるが、5月頃に寝返りを決意、この10月の合戦では上杉軍として参陣していた。

しかし、この合戦敗北後、岩松持国は再び公方・成氏方へ寝返ろうとし画策。それが上杉陣営に発覚した為、同族であった岩松家純に、岩松持国、その子・岩松成兼が討たれた。

また、犬懸上杉教朝が謎の自殺を遂げる。この犬懸上杉教朝は上杉禅秀の子であり、永享の乱、結城合戦にも上杉軍として活躍していた人物であるが、幕府の命によって堀越公方付きになっていたが、堀越公方の扱いでは、山内上杉家にしても扇谷上杉家にしても自家の権益を献上して支えろという命に不服であった為、堀越公方の補佐役であった教朝は幕府と上杉一族との板挟みに遭い、自死したものという。


◆享徳の乱〜長尾景人の足利荘入部

1463年、享徳の乱の中心人物でもあった山内上杉家の長尾景仲が死去する。関東管領・上杉憲忠ら22名が皆殺しに遭う前に、成氏を太田道真と共に襲撃した江ノ島合戦の張本人であり、一時期は成氏から目の敵にされていた人物でもあった。この長尾景仲は死去する前に家宰を息子の長尾景信に譲っていたが、一つの転機であったという。

1466年、上杉方の総大将でもあった関東管領・山内上杉顕房が、五十子(いかっこ/埼玉県本庄市)陣の陣中にて急逝。年齢は32歳と早世であり、且つ、この顕房には子がなかった為、越後上杉房定の13歳の次男を養子として迎えることとなる。その子は元服後に山内上杉顕定となり、関東管領も山内上杉家を継承する。

1466年7月、堀越公方は山内上杉家の長尾景人(かげひと)に下野国足利荘を与えた。名目上、堀越公方は鎌倉府の主であり、鎌倉公方なのだ。しかし、実際に下野国の足利荘を支配していたのは成氏方であった。長尾景人が足利荘へ入部すると、当然の事ながら、そこで長尾景人の軍勢は成氏方の勢力と衝突、合戦となり、長尾景人が成氏方の勢力を退けて、足利荘への入部に成功する。しかし、この足利荘を奪還しようと成氏方も次から次へと合戦を仕掛けてくるという展開となる。

長尾景人は入部した足利荘を守る為に、渡良瀬川の沿岸の台地上に観農城(かんのうじょう/栃木県足利市岩井町)を築城する。この観農城は渡良瀬川が城郭を取り囲むように流れている為、成氏方の軍勢を度々、撃退したという。


◆応仁の乱が勃発する。

1460年から1466年までの間、将軍・足利義政は実に162通もの書状を「享徳の乱」対策で発給していたという。将軍は関東に気を割いていたようにも思えるが、1467年には畿内では「応仁の乱」が発生し、細川勝元の東軍と山名宗全らの西軍とが一触即発の状態になっている。1466年の時点で、前述したように三管領家の一角である斯波家の家督を将軍・義政が勝手に変更させたり、同じく三管領家の畠山家が大掛かりな内紛を展開、将軍職の後継にしても義視を将軍にした後に義尚を将軍にするのか、義視を飛ばして義尚を将軍にするのかで割れて、幕府も朝廷も大混乱になっている。

また、将軍・義政によって家督を勝手に譲る事になったのは関東遠征を命じられ、出陣しなかった斯波義敏であったが、畿内の細川勝元周辺では、斯波義敏を政界に復帰させようとしていた。斯波家の家督をついた斯波義廉(よしかど)は、これまた、堀越公方の先鞭となって関東へ下向した渋川義鏡の息子であり、斯波家には養子に入った人物である。実際の混乱は専制政治をしてしまう将軍・義政の膝元で起こっているようにも見える。

1467年12月、西日本にて、応仁の乱、勃発。基本的には細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍による大乱に突入する。(この「応仁の乱」に先駆けて関東で「享徳の乱」が発生、継続中。実は「享徳の乱」が「応仁の乱」の遠因にもなっている。)


◆享徳の乱〜観農城を巡る攻防

畿内で「応仁の乱」が大混乱となっている頃、関東で発生していた「享徳の乱」も新たな局面が展開されてゆく。

1468年10月、足利荘付近、渡良瀬川を挟んで上野国で上杉軍と成氏軍とが激突。五十子陣から近いこともあり、上杉軍が勝利を収める。敗れた成氏軍は撤退したものの、後に足利成氏自らが那須氏、小山氏の軍勢を率いて天命(栃木県佐野市天明)まで進軍、更に小曽根(栃木県足利市小曽根)に陣を張って上杉方と対峙する。

1468年12月、成氏軍は観農城の長尾景人を攻めるが長尾景人軍の抵抗が激しく、攻め切れず。観農城の攻略に手を焼くことになった公方・成氏陣営は、観農城を取り巻くように城館を建てる策に出た。この際、観農城の北側に樺崎城(かばさきじょう/足利市)と八椚城(やくぬぎじょう/足利市)、東に赤見城(佐野市)、南側に館林城(群馬県館林市)を建てて、観農城を包囲する戦略に出た。樺崎城には南持宗が入り、赤見城には佐野氏の一族である赤見氏が入り、館林城には舞木氏の家臣であった赤井氏が入ったという。

これに上杉方も反応し、観農城の西側に金山城(群馬県太田市)に築城し、岩松家純を入れて対抗した。

1471年3月、成氏方の小山持政と結城氏広が1000余騎で箱根を越えて伊豆国へ侵攻、堀越公方攻めようとした。堀越公方の要請で駿河国の今川氏親が迎撃。戦況は小山・結城軍が優勢に進めていたが、背後から扇谷上杉氏の家臣・矢野安芸守の軍勢が襲い掛かった。これによって小山・結城は退却を始めたが、更に山上上杉氏の家臣・宇佐美孝忠(たかただ)の軍勢が退路を塞いだ。この為、小山・結城軍は惨敗となったが、小山持政と結城氏広とは命からがら逃げ切った。

古河公方が堀越公方とやりやった、その機を逃さず、上杉軍が反抗開始。山内上杉氏方の長尾景春、長尾忠景らが岩松家純、上州一揆軍、武州一揆軍を従えて下野国へ侵攻。この進撃に合わせて、成氏方の佐野城の佐野氏が上杉方に寝返りを打診。長尾軍は寝返りを信じて下野国深部の児玉塚(不明)に布陣。しかし、佐野氏は寝返りを白紙撤回し、佐野城に籠城。その為、侵攻していた長尾軍は小山氏の軍勢と佐野氏の軍勢に挟撃される羽目になり、撤退。

1471年4月、長尾景春、長尾忠景からなる長尾軍は一度、五十子陣まで撤退した後、再び下野国へ。

1471年4月15日、長尾軍が成氏方の赤見城を落城させる。

続けて成氏方の樺崎城を攻めて、ここでは城主の南持宗を討ち取って落城させる。

同月、山内上杉家の家宰・長尾景信が軍を率いて出陣、金山城の岩松家純も合流し、成氏方の八椚城(やくぬぎじょう)を攻めた。八椚城には佐野氏の庶流である赤見氏、加胡氏、大高氏らが守っていたが、同じく佐野氏一族である山越氏が長尾景信軍に内応し、この八椚城も落城する。

赤見城、樺崎城、八椚城が上杉方に落とされ、これで観農城包囲網は解かれた形となり、ここで上杉方は一度、五十子陣(埼玉県本庄市)へと撤退している。

1471年5月、上杉方は館林城の攻略に着手し、山上上杉家の家宰・長尾景信を大将とする6千の軍勢が出陣する。ここには景信の子の長尾景春、更には扇谷上杉家の家宰・太田道灌、惣社上杉家の家臣・長尾忠景らが参陣した。

館林城は三方を湖沼に囲まれた天然の要害で、上杉軍は主力を投入したが館林城の攻略に手こずる。この頃、館林城を守っていたのは赤井氏と高氏であったという。上杉軍が攻城戦に手間取っているとみて、成氏方は、この館林城の救援に小山氏、結城氏、佐野氏といった主力を投入。この館林城を巡る戦いでは、両軍の主力同士が激突したことになる。

1471年5月23日、館林城が落城する。

この館林城を巡る攻防の際、成氏方の中心人物でもあった小山持政が上杉方に寝返るという波乱があった。小山持政には上杉方からも幕府からも帰順勧告が再三再四届いていたが、この享徳の乱では一貫して黙殺、古河公方軍の主力中の主力で、公方・足利成氏からは「兄弟」と呼ばれる程の信頼を寄せられていた人物であったが、とうとう上杉方に内応したものという。

また、小山持政の上杉方への寝返りは成氏方に動揺を誘ったようで、小山氏の離反の直後、成氏方の有力者であった小田茂治、また、佐野氏の一族と思われる佐野愛寿(詳細不明)が成氏方から離反したという。

上杉軍は館林城に続けて、舞木城を落城させる。この舞木城は舞木氏の居城であり、館林城を守っていた赤井氏の主家にあたるという。


◆享徳の乱〜古河城争奪戦

一気呵成に、上杉軍が攻め続ける。上杉軍は山内上杉家の家宰・長尾景信を総大将とし、その子・長尾景春、惣社上杉家の長尾忠景らに加え、上州一揆衆、武州一揆衆が加わり、七千余の大軍勢となって、佐野盛綱が籠城する岩舟山の頂上に築かれた甲城を攻めた。この甲城(かぶとじょう/旧下都賀郡岩舟町)は険阻な山城で、且つ、佐野氏の抵抗も激しかったらしく、上杉軍は甲城攻めを諦めて、岩舟山の東、児玉塚に布陣。児玉塚の東側は小山氏の勢力圏であったが、既に小山氏は上杉方に寝返っていたのだ。児玉塚に布陣した後、上杉軍は古河公方の本拠である古河城を目指して南下してゆく。

1471年5月、上杉軍による古河城攻撃が始まる。

1471年6月24日、古河公方・足利成氏は古河脱出を余儀なくされ、下総国の本佐倉(千葉県酒々井市)の千葉孝胤(ちば・のりたね)の元まで逃げ落ちる。

上杉軍は下総国への侵入にも色気をみせたが、ここで戦線が膠着する。下野国では小山氏、小田氏、佐野氏が上杉方に降った情勢となり、分かり易い劣勢の状態となったが、結城氏広と千葉孝胤が二本柱となって古河公方軍を支えた。

或る意味では古河公方陣営の中心人物であった小山持政は、上杉方に寝返った後、児玉塚へと上杉軍の案内役を果たした後、文献から活動する姿を消える。没したか蟄居したものと推測されるという。元々、小山持政には子や孫があったが、いずれも早世しており、その小山家の家督を継承したのは、結城一族山川景胤の子の梅犬丸であり、後に梅犬丸は小山成長と見られる事から、小山氏は古河公方陣営に復帰した可能性が高いと見られるという。

1472年2月、古河公方・成氏は、結城氏広や実弟である鶴岡八幡の雪下殿・尊敒(そんじょう)、那須資持、茂木持らの助力を得て、古河奪還作戦を展開、あっさりと奪還に成功している。成氏は古河城を逐われたが、古河城そのもの成氏方が守り切っていたので、簡単に古河を奪還できたという。

ここまでで足利成氏を中心として動いた「享徳の乱」は既に発生から17年を経過している。


◆下総千葉氏と上総武田氏

因みに、常陸国の雄、佐竹氏はこの頃は内紛で宗家が窮地に立たされている。また、古河公方から頼られた千葉孝胤は千葉家分裂後の下総千葉氏である。

千葉氏の場合は、宗家であった千葉胤直に対して、一族の馬加(まくわり)千葉康胤との間で争いが起こり、当主の千葉胤直が滅ぼされるという大混乱になった事は前述した通り。そして千葉胤直の遺児である実胤と自胤(これたね)の兄弟は市川城に身を寄せていた。これを、享徳の乱に照らし合わせると、千葉家の宗家が幕府・上杉方となり、馬加氏は成氏方であった。

その後、千葉家の内紛には幕府が介入、美濃国郡上を本拠とする東常縁(とうのつねより)が下総国に入り、成氏方である馬加千葉氏の馬加城を攻め、馬加千葉康胤は千葉城へ逃げた。

市川城は実胤・自胤が拠点にしていたが、この市川城は成氏軍に攻められ、実胤・自胤は上杉方が抑えていた武蔵国へ逃げる。実胤は赤塚城(東京都板橋区)へ入り、自胤は石浜城(東京都台東区)に入り、それぞれ、こちらの武蔵国に入った実胤・自胤は上杉方として残り、武蔵千葉氏となる。

馬加千葉康胤は、その後、上総国の八幡(千葉県市原市)にて、幕府の命によってやってきた東常縁軍と戦い、敗死する。この馬加千葉氏は千葉城を居城としたままに残り、康胤の次には子の胤持、その次に胤持の弟である輔胤が家督を継承した。この輔胤の時に、この馬加千葉氏は「千葉介」(ちばのすけ)と名乗り、千葉介の千葉一統とし、下総千葉氏となる。輔胤の次に家督を継承したのが千葉孝胤であり、この頃には千葉城と本佐倉城を支配し、下総千葉に勢力を確立していた。

下総千葉氏とは馬加城を拠点にしていた馬加千葉康胤の系統であり、幕府・上杉方ではなく、古河公方を支援していた側という事になる。また、この成立そのものにも大きく「享徳の乱」の、古河公方対上杉家の構図が関係しており、上総国には武田信長が入り、安房国の里見義実が古河公方陣営として上総、下総、武蔵、相模の戦闘に参加して活躍が目立つ。

上総国に関しては、その北部では馬加千葉家の家臣であった原氏や酒井氏が活躍して所領を広げ、下総千葉氏の勢力を拡大し、上総国南部には成氏の側近として入部した武田信長の一族が真里谷(千葉県木更津市)、長南(千葉県長南町)などに勢力を張り、共に古河公方を担いでいた事で住み分けが可能となり、この時期に勢力を拡大したと思われる。この上総武田氏は、後に真里谷武田氏と、長南の武田氏とが並立していたが、長南の武田氏は古河公方・足利成氏が古河城を追われて本佐倉城の千葉孝胤の元に落ちてきた頃、上杉方に寝返ったという。

この記事へのコメント

1. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月10日 00:26
こんばんわ。凄いなぁ……関東ほとんどバイオレンス・ジャック状態。一読では何だか解りません。また多重投稿になる…済まぬ。
しかし、そういう大混乱の最中に「応仁の乱」が勃発すると!
なるほどねぇ……そりゃ西国で動乱が継承問題
(大名から重臣まで)起きれば、本家の幕府も揺らぐから、堀越公方だって先はどうなるか危うい!
下手すりゃ古河公方が「正当」になっちまう!
東西で大混乱。笑ってしまう。なので解りましたよ。12年に渡る応仁の乱で、オセロゲームみたく旗色がコロコロ変わるのが!
不思議だったのですよね。なるほど東西ともに
「正当」が揺らいでいたのか。天皇家は管理者殿のお話で院制でまた分裂しとるようだし。
これ、ある程度に淘汰が進んだ戦国よりも混乱は酷いのでは。戦国に進んでゆく訳でさね。
日本史上で最大の混乱なのかも?
しかし、こんな事は歴史の授業で習わなかったぞう!!
なんか中世混乱と戦後は歴史教育でシカトされてませんかね? 実はリエゾンが大切なのに!
2. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月10日 00:33
やぱしさぁ、この東国での公方2立しての大混乱を語らないと、応仁の乱からの戦国へのストーリーが理解できないのでないすか?
シナリオ用語で「ピンチ」と言うらしいが、
クライマックスのアクションは脚本家が手を抜いても監督や役者が頑張るのですって。
脚本家が大切なのは、そのアクション大団円に至る手前の「タメ」の部分を解りやすく描く事なのですって!
戦国はカオスから信長→秀吉→家康なので解りやすいのですね。そこにゆく前の「タメ」をきちんと説明してくれないと、なんで日本が群雄割拠で大乱闘になったのか解らない!
そういう意味で意義のある記事でした。
3. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月10日 00:39
ブリッジとも言うらしいですね。
ようするに、あるシークエンスから起承転結の
「転」に当たる部分こそ、実は別々な世界が繋がれる要で、その後のクライマックスは誰でも描ける!
そう知人のベテランのマンガ原作者の先生が言ってましたよ!
クライマックスはマンガ家さんも乗ってるので、放置しても迫力あるシーン描いてくれると。大切なのは、一つの要素で次々と化学反応してゆくような場を与える事で、そのような場にいたる軋轢と対立を描くのが原作者の役割なんだって!
誰もが知ってる「北斗の拳」の武論尊先生の言葉です。だから、メロンぱんち殿は偉いと思うた。歴史を語るのもマンガ原作者と同じでないですかね?
4. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月10日 00:46
あ、「知人」とは「銀牙伝説」や「ソムリエ」
や「仕手師」などの城アラキ先生で、武論尊先生ではありません。
城先生も成人劇画が主体だから知名度は負けるけどヒットメーカーですよ。
5. Posted by メロンぱんち   2019年02月10日 01:24
スナフキンの名の名無しさん>
こんばんわ。そう読んでいただけたら幸いです。これ、実際には「関東大乱」と表現した方がいいぐらいの大混乱ですよね(笑

古河公方に堀越公方、更に上杉一族。幕府が敵視しているのは古河公方なんですが、堀越公方と上杉家の関係もギクシャク。

まだ少し先の話になりますが、後北条氏が相模に進出して関東へ進出しようとし、古河公方と婚姻して採り込んじゃいます。そうすると里見氏ら上総下総の関東諸将は、公方家を分裂させて別に小弓公方(おゆみくぼう/千葉県千葉市)という新しい公方をつくり出しちゃうんですよ。

山内上杉家にしても苦しくなってきるので古河公方家から婿を入れて、家督を譲っていたり、この勝者、誰だかホントに分からないぐらいの大混乱なんですよねぇ。
6. Posted by メロンぱんち   2019年02月10日 01:36
あ。山内上杉家の家督や関東管領職は、最終的には長尾景虎が継承して上杉謙信になりますが、ホントにタテマエはあれど、「神器なき戦い」なんですよねぇ。
7. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月12日 00:41
こんばんわ。再読してみて。
これは前記事の「権力を監視する機構の必要性」と被るのですが。
それは中世であっても同じなのかも?と。
勿論、中世には新聞メディアはない!
しかし「世論」はあったと思うのですね。
天災が続いた時に、宗教的に為政者が難癖をつけられる。それで古代は王が殺されますし。
結局、世間の噂は煙のない場所には上らず、
常に声にならねども世論は存在する。
天皇や鎌倉高校前殿という象徴が必要性があるのはそこなのかな?と。
世論を強権だけで抑えるのは無理があると。
その時に独立荘園主である武士としては、何か別な説得力ある存在を旗印にせざる得ない。
錦の御旗が出てくると、あれよあれよ…なのも同じなのかなど。世論はやはり民衆にあり、
そこをコントロールする為に権威がある。
世論…民衆の声が、ある意味に最大の監視機構なのかも知れませんね。
ほれと赤信号ですが、私はもう覚悟しました。
落ち延びる先も私はあるので。そうではないワーカーの方々が不憫ですが。事が人口縮小と都市部への集中という不可逆な流れを基にしてあるので、どうともしようがない。
記事の乱世ごとく命取られる訳ではないと、嘆息するのみです。
8. Posted by メロンぱんち   2019年02月12日 10:57
スナフキンの名の名無しさん>
この中世、先日の、主君の首を差し出して恩賞を貰いに行った話もそうですし、武田信玄あたりはホントに、戦場で、「父親を追い出した不忠者!」と野次られたりしたみたいですね。義に反した行ないをしていると、信用力に影響する。武家の棟梁である事を示す為に、由緒ある神社の修復などを率先して負担していたようなんですね。

現実は今後、意外なスピードで動くのかも知れませんね。どうも基幹統計偽装などにしても、「やっぱりなぁ…」と感じる部分も多くて、ホントは地方とか限界を越えているんじゃないのかな、と。

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