2019年02月12日

「誰の為に」のはなし

衝動的に岡本光生著『ヘタなリーダー論より「韓非子」の教え』(河出書房新書)を買ってページをめくっていくと、なんだか違和感だらけなのにページを繰るのが辞められなくなりました。なんというべきか、違和感が先立つんですね。最後まで読み終えて気付いたのですが、やはり、韓非子というのは多くの者が違和感を抱くような、官僚の語る君主論であり、絶対的独裁制をも肯定しかねない視線からの提言、リーダーシップ論だから、当然といえば当然なのかな。文庫本でマキャベリの「君主論」だかに目を通したときにも少し感じた感慨なのですが、その観点・視点は、統治者のそれとして貫徹されているから、絶望的なまでの上から目線で考える統治論になっているという事なのだと思う。

思えば、リーダシップ論のようなビジネス書が世に溢れているものの、そういうものを受け付けられるタイプの人と、そうじゃないタイプがあって、私は後者なのかな。キワドイといえばキワドイのですが、組織論とか経営論というのも実は、大別すると2種類あって、古典的なところでは科学的管理法と人間関係論というのがあって、総じて私は後者の立場で物事を教えられてきているので、前者は血や肉というレベルで反目関係にあるのかも知れない。

なので、韓非子のような「リーダーたるもの威厳を保つ為に、これこれこのように振る舞え」のような言い回しが、いちいち鼻についてしまう。一方で、リーダーは実際問題として最低限度の威厳を保った方が有効だという事も、頭では理解できている。そうしないと、成立しないんですね。なので、色々と違和感を感じながら、その解説を読み進めることになった。

私が受けた感慨からすると、韓非子は孔子を批判しているので、その孔子の体系の儒教批判という事からすると、老子の体系と言えるのではないかという具合に解説されていたりもするのですが、それも、また違和感が大きい。老子と荘子は、そもそも役人になんてなったってしょうがないねという仙人思想に近いものがあり、そこから踏み込んで「君子はこうあるべき」という具合に展開させる事は絶望的な開きがあると思う。

韓非子は秦の官僚なのだから、基本的には法治主義者であり、徳治を主張していた孔子を批判、実際に秦の始皇帝は、焚書坑儒を断行している訳ですね。この合理性の、ヤバさが、或る意味では、このテの君主論には、付き纏っている。或る意味ではリアリストの見地だから、道徳的ではないのだ。

つまり、孔子対韓非子という構図で眺めた場合、それは「法治主義対徳治主義」の対立図であり、それは謂わば「覇道と王道」との対立図でもある。それに対して、荘子になると、老子を忠実に踏襲しており、「なーに、俗世なんて、下らないものじゃないか」という厭世観が強い。「真に優れた為政者なんてものは、姿なんて見えないものだろう」という考え方なんですね。或る意味では「君臨すれど統治せず」に近い考え方であるかなって思う。また、何かを支配しようとするのではなく、自然の一員じゃないかという考え方であり、運というものを肯定的に解釈する積極的な消極主義者なんですね。


アンディ・ラウが主演した映画「墨攻」を、なんとか視聴しました。本来は「墨守」であるところを「墨攻」としたフィクションですが、つまり、墨子が題材になっている。墨子の思想、その中心となる思想は「兼愛」と「非攻」であったという。侵略は認めないが、自衛戦は肯定するという事になるので、確かに注目したくなる話ではある。知らなかったんですが、あの女優さんが、ファン・ビンビンなのか。なるほど綺麗な女優さんだった。しかし、この映画、やはり、アンディ・ラウが演じた、あの墨者の、小汚いカッコ良さでしょうねぇ。同映画上では、墨子は理性が強く自己犠牲の精神が強い為に、エゴを否定しすぎてしまっている。ファン・ビンビン演じる騎馬王女が、「もっと人間らしくあるべきよ」的な事を言い聞かせるが、アンディ・ラウ演じる墨者は、中々、それに気付かない。まぁ、そこらあたりから、この映画がイマイチ、説教臭くなってしまう部分で、弱点でもあったのかなと感じましたが…。

墨子の思想は、理想主義の中にあって、少しだけ現実主義である。「戦わない」とは言わない。奴隷になるぐらいなら戦うべきだという自衛戦争肯定論者なのだ。

「兼愛」の方は、細かいことは分かりませんが、私が目にしていた韓非子の解説本に記されている箇所がありました。

(墨子は)「兼相愛交相利」(けんそうあいこうそうり)を主張しました。好意を交換し合い、利益を交換し合う、そうすることによって互いの生存を確保する、というわけです。

この墨子に関しては実在した思想であったのかどうか疑義の余地もあるのかも知れませんが、それがホントなら、その兼相愛交相利は、確かに凄い思想だなと思う。

しかし、韓非子は違うんですね。合理的思考が強いが故に、覇権的であり、西洋的な一面を隠さない。言う事を利かない者は処刑してしまった方がいいと考えるし、そもそも帝王たるもの、威厳を保つのは刑罰権と報奨であり、つまり、「アメとムチの原理」である事を隠さない。これは、ひょっとしたら現在でも、官僚制度の中、特に上級官僚の中には生きている考え方である可能性もある。法治主義には、そういう部分があるんですね。肯定的に語られるべき部分もあるんですが、一方で、非常にドライなのだ。おそらく、韓非子の思想の中核とは、この「飴と鞭」の論理ですかねぇ。裏読みすれば、そこにも温情があるじゃないかと、捏ね繰り回す事は可能かも知れませんが、基本的に人間中心主義ではない。荘子のような万物斉同(ホントは価値なんて万物、同じで等しいかもよ)のような、大きな思想哲学ではなく、君主論に近い。

なので、誰の為の理なのかという部分で、乖離があるなと感じました。君主や為政者、官僚たちにとっての素晴らしい国をつくるのであれば、そういう組織論も必要になってくるのだと思いますが、国民主権から離れすぎてしまっているし、人々が安心して暮らせる国を模索した話ではなくなってしまうんですね。道徳も社会的正義も要らない、ただ、力で合理的に抑えつけてしまえ、その徹底があればいいというのであれば、治まるものも治まらなくなると考えて来たのが、儒教的な徳治主義であったり、道の本義で、実際には調和を模索している系譜であるように考えますかねぇ。

ussyassya at 12:06│Comments(7)

この記事へのコメント

1. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月13日 00:21
墨攻だけ。
えーと…これは酒い賢一氏の出世作品でして。
アニメ化された「後宮物語」よりも出版は早い。彼は「怪力乱神を語らず」の孔子が実は偉大な呪術者であったという客説の伝奇長編を書いてます。最近ならば「泣き虫弱虫、諸葛孔明」かなぁ。
その中編に近いしかし重みかる原作を「史記」のマンガ化を最初にやった久保田千太郎氏による大胆な長編化マンガがあり(これも傑作)、
このマンガを原作としたのが映画なのですね。
主役の墨者の革理は元の小説では死にますが、
久保田氏原作マンガでは生き延びて、墨者の思想で始皇帝への反逆者となってゆきます。
だから映画の最後では生き延びる。
で、革理が人情の機微がわからぬ…管理者殿は書かれておられる訳ですが、それは元々のコンセプトに準じておるのです。
酒い氏は「職人という者を描きたかった」と「後書き」で書いています。革利は「防御戦争の技術者」なんですよ。最後に信賞必罰を重んじる為に、逆恨みした者に暗殺されるが、その最後の台詞が「ははは……女を処刑した恨みで討たれるか。情は怖いものよ。死してまた一つ学べたわ…」なのですね。だから革利がファン氏の言葉を理解せぬのは当然で、そもそもの元の作品のキャラクターを理解した上での演出であり、それは否定される話ではないと思う。
それ位に原理原則の人でなければ、あのような絶望的な戦闘の指揮官たり得ません!!
2. Posted by メロンぱんち   2019年02月13日 01:23
スナフキンの名の名無しさん>
映画「墨攻」に関してですが、中盤に梁王らから「乗っ取り」を疑われるクダリがありますね。あの辺りなどは、「ははぁん」と感心したクダリでした。また、主人公のキャラクター設定を否定している訳でもないのです。ああなるでしょうしね。

墨者が信用を高めてゆく中で、「乗っ取り」を疑われるクダリ、韓非子でも触れてある話らしいんですね。「分かる人にしか分からない」という韓非子の諦念の話に通じているのですが、君主が正解を選択してくれるとは限らない、仮に優れたアイデアや思想があっても、結局はダメなのだ的な。信賞必罰をやって恨みを買って暗殺される――そうした一連も、まさしく、それですね。
3. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月13日 02:00
韓非子なのですが、彼を道家思想の老子とかと比べるのは筋違いな気がします。
どうも「法家思想」として扱われるけど。
私は韓非子は西洋ルネサンスのマキャベリに似ていると思います。
「君主論」ですね。
ここで日本では君主を「大名小名」と混同しているように思う。
あの君主は「公爵と王公」なのですな。
伯爵は伯爵領国を名乗るけど、「ドーチェ=国家元首」ではない!
封建貴族などハナから相手にしてない!
どこまでも国家元首として国の代表者となる者の戦略を記していて、そこは韓非子も同じと思うのですね。
そこを老子とかと比べると立場はありませんよ! そもそもの基点が違う!
これは戦乱の世の中を収める為に、あえて権威と儀式、年功序列など「人間関係の数値化」を主張した孔子と似ていて、そもそもの対象が違う。
4. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月13日 03:59
孔子にせよ韓非子にせよ、そもそも戦乱の世の中を収める為に産まれた思想である事を無視していますよ!
5. Posted by メロンぱんち   2019年02月13日 10:00
スナフキンの名の名無しさん>
色々とズレがありましたら、すみません。解説中でも本文中でも触れたつもりだったのですが、老子の思想を君主論に当て嵌めたものという風に解説されている事を目にしての感慨です。また、本記事中でも、マキャベリの君主論に似ているという感慨にも触れています。

「そもそもの基点が違う」にも異論はなく、老子の系譜だと解説されているようだが、それに違和感があるという風に書いたつもりなんですね。

勿論、私の見立てや理解が全面的に間違っている事も充分に有り得る話ですから、その辺りを御了解くださいませ。
6. Posted by スナフキンの名の名無し   2019年02月14日 01:35
こんばんわ。先ずは謝罪を。ごめんなさい!
確かに冷静に読むと、管理者殿は別に思想を「優劣」とかで判定をなさっていない!!
ここは私の浅読と先走りです!
謝罪いたします。ごめんなさい!
そして…貴兄の文章は「脳ミソの耐久力」を要するのです。深いんだ!!
私は目標を定めて直進するタイプなので、そういう熟読を必要とするブログには向かないコメント主なのかと反省いたします。
でもね……もう理屈も糞もない声を大きくすれば勝てば構わないて時代でせん?
だから熟読を要するようなブログは必要なのでせよ!!
負けないで下さい。
あー、でも熟読を要するので、あれこれ棚に上げた「宿題」ばかりなコメントなのはお許しを頂きたい。それは私と貴殿の「知識量の違い」ではないと想いますね。
脳ミソの「耐久力」の違いで、知識より脳ミソのパワーの違いかと存じます。
こういう深いブログは他にないので、私の茶々など気にせずに負けないで下さい。負けないと思うけどもさ(笑)

7. Posted by メロンぱんち   2019年02月14日 09:59
スナフキンの名の名無しさん>
おはようございます。正直、この孔子、老子、墨子、韓非子のはなしは、解説者によっても見解が違うことがあるので、どうしてもモヤモヤ感は残ってしまう事柄だと思います。

「君主」を、私は「帝王」に当て嵌めて考えましたが、私が目にした解説者は「国民主権なのだから、この場合の君主は国民である」という風に現代に置き換えていたりでしたし、例の天皇謝罪発言をめぐっての見解でも韓国国会議長は天皇を自国の大統領に相当する国家元首という風に考えている節がある。それに反論する日本側も「象徴天皇」だと反論している。若干、混乱するコードが自ずから内包されてしまっている事柄も多いように思います。

或る程度まで事柄・材料を列挙していって「どう考えるか?」で、空論的に終わらせてしまうので、分かり難い部分があるのはホントであろうと思いますので。。。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔