西部邁著『中江兆民〜百年の誤解』(時事通信社)は、中江兆民という人物を語る体裁を採っているものの、読み終えてみると、色々な事が薄っすらと分かるような気分になる。実は、中江兆民にかこつけて、ニシベ自身の集大成めいた事にも言及されていたのかなという気がしている。

掻い摘まもうにも、中々、掻い摘んで説明するのが困難だなと感じる内容でもある。しかし、敢えて、その愚を犯せば、ニシベは全力で民主主義を自分の人生の敵と定めていたというのが、ニシベの核心かも知れない。民主主義を人生の敵であると考えているニシベが、何故、よりによって日本に於ける自由民権運動の父とされる中江兆民を取り上げるのかという疑問が生じる。それで「中江兆民〜百年の誤解」なのだ。また、中江兆民という人物は酔狂な後半生を送っており、それにニシベは自身を重ねているところがあったかも知れない。筆致から想像するに、福澤諭吉と中江兆民を並べ、中江兆民に対しての批判も多めに語りながら、それでいて実は心の底では兆民に対して、シンパシーの方が強いという事が読み取れる。

退屈な書き出しになってしまった気もしますが、核となるのは「民主主義は我が人生の敵だ」というスタンスを崩していないという部分でしょうかねぇ。で、その内容が中江兆民に係っている。トクヴィル(トックヴィル)はアメリカの民主主義の将来が、単なる大衆の気分が左右される民主主義となる事を予見していたように、中江兆民も輿論と世論の差異を理解していたのに、通説や通史では現在を肯定する為に、自由民権運動の父に仕立て上げられてしまっているという論旨、この論旨こそが、前掲著の主たる概要であると、読みました。

で、前掲著ではニシベによる福澤諭吉と中江兆民の犲由瓩坊犬覯鮗瓩記されていたりする。

道徳主義があったとしたら、それはむしろ、「自由にも制限が必要だ」という脈絡においてでありました。ルソーに従って「法治」を大事とする兆民にあって、その法律体系の根幹をなすもの、つまり社会契約の根本をルソーがみなした一般意志、それはどこからやってくると(兆民にあって)考えられていたのでしょうか。

兆民はどうやらそれを「正理」(もしくは至理)と名づけていると思われるのですが、その「正理」は、諭吉のいう「通義」と大同小異なのです。漢学的および西洋哲学的な装いを剥いてやると、兆民のいう「正理」もまた、国民がすべて、少なくとも心の奥底では、ほぼユナニマス(全員一致)にライト(正しい)とみなしている(はずの)正義の感覚のことだとわかります。

諭吉は(名詞の)ライトを(権利ではなく)「権理」と訳しました。つまり「ことわり」(理)を「はかる」(権)ところに生まれてくるヴァリュウ(価値)の意識とそれに応じるノーム(規範)の感覚によって「為すことを許されている」、という意味での「自由」の体系が権理なのです。諭吉の権理と兆民の正理に大きな隔たりはありません。

ついで、西周がリバティを自由を訳したことについても、そこには、「自」分の考えや行いには権理・正理の基準からして十分な理「由」がある、それを要求し許容するのが自由である、という明治人として当然の思考回路があるよに思われます。


思いの外、このニシベの著書に苦戦したのは、こうした文体で記されているからなのですが、裏返すと、そこにはニシベの思いが込められているのかも知れないという読後感もある。読み終えた後に、序文なり、あとがきを読むと、或る種の決意のようなものが読み取れるし、「僅少であろうが、この書籍を手にして読み終えた読者に伝えたいことを記した」旨、述べられているのだ。

さて、引用箇所、少々、難しくも感じるものの、相応にニシベの思想が反映されていると思うに到りました。

諭吉にしても兆民にしても、明治人が念頭に置いていた自由とは、即ち消極的な意味での自由であり、不自由にある状態からの解放される自由を意味している。一切のものに縛られないという無秩序状態を指しての自由ではない。ここは、色々な言葉や文章で語る事が可能なのですが、今日のリベラルと呼ばれている体系の自由主義思想は、ここを逸脱していると考えられる訳ですね。不自由にある状態で初めて自由が認識されるのに、次から次へと好き放題、コンビニエンスを希求する自由に翻意翻訳されてしまっている。

天ぷら店で、天ぷらの衣を剥がそうが剥がしまいが客の勝手じゃろがっ、こっちはカネを払ってるんやぞ――っていう、そちらの方向性へ実は世の中が流れている。日本に限らず、おそらく、すべての先進国に共通して、そうなってしまっている。

で、それらの価値観を決定するのは、諭吉も兆民も道徳的な何かであると理解していた事をニシベは力説している。道徳と言っても、これに相対主義的な価値観になるので、勿論、絶対善や普遍善という過ちは犯していない。その道徳的価値観を決定するのは、伝統や習慣から生じる何かであると言っているに過ぎない。しかし、この一連を、現代人は理解できず、揚げ足取りに終始し、結果として、自由を拡大解釈し、平等をも拡大解釈してしまっている。また、ニシベに於いては、福澤諭吉も中江兆民も、堂々たる保守思想であると深部では分析している。

私も先日、新元号の解釈として【令】を語るにあたり、その字義を掘り下げましたが、ニシベも同じような事をしている。それは【輿】についてで、確かに「輿論」と「世論」は、ホントはニュアンスが違うんですね。ニシベに拠れば〈輿〉とは車台の上の漢字の旁になっているから無意識に、諭吉や兆民が言っていた通義や正理といった言葉も理解できていたのではないかとしている。どういう事なのかというと、輿論(よろん)の〈輿〉とは車台に乗って運ばれてきたものであり、自ずと車台そのものを否定する事は不可能である。しかし、「輿論」の略語として登場した「世論」になると、もう、その場合の【世】を使用する【世論】とは「今の世間に流行する論」という意味でしかない。流行ですよ、流行。敢えてカタカナを使用すればトレンドですよ、トレンド。気分ですよ、気分。そういうトレンドに振り回されて、政治決定とか意志決定をしてしまっているのが現状なのだ。

流行っているから飛びつき、流行っているから従う。なんですか、これは!

実際に、世論調査が実施され、その世論が選挙結果に影響を与えると考えられている。まぁ、現在ともなると、選挙制度もヘンテコな事になってしまっているので、「そもそも、ちゃんと民主主義が機能していると言えるのか?」という部分まで行ってしまっていますが、ニシベの場合は、そもそもからして民主主義なんてのは、多数者による専制であり、こんなものは敵だ、とラジカルに、精神的荒野を生きた評論家なのだ。

ニシベの政治思想と、私のものとも少しは差異があるので、煩雑になってしまいますが、おそらく、ニシベの汎用性という意味では、ここら辺りが核心であろうな、と読みました。

正義とは何か、正しいとは何かと、その価値を決定するものとは、伝統に裏付けられた道徳であると帰結せざを得ない。私自身も、いつも功利主義という言葉にウンザリとさせられるのですが、その意味も分かった気がする。

(諭吉が【功利】にこだわり、兆民が【道徳】にこだわったと通説では語られるが、それも軽率であるという文脈に続けて、)

功利といい権「利」といい、法律の体系のなかで計算されるにすぎません。ジェレミー・ベンサムのように功利計算にもとづいて法律体系を作る、などと諭吉は考えておりませんでした。法律体系が、根本において、通義(という道徳)にもとづいていることを諭吉は承知しておりました。

とも記されている。

この箇所などは、実は凄いのではないだろか。現状、自称リベラルにしても自称保守にしても、功利主義を肯定しようとするんですね。マイケル・サンデルなどもそうなのですが、サンデルの話で特筆すべきは、実は「正しいとされている功利主義」を我々日本人はそこそこの確率で、ホントは正しいと考えていない気がする。このまま、トロッコが暴走してしまうと6人を殺すことになるが、今、線路を操作してしまえば2人を殺す事になる、計算すれば4人の人命を助けたことになるのだから、そういう計算をする事が正義であるというサンデルの説明に対して、苦々しさを覚えてしまう。兵法であれば少数者を切り捨ててでも勝利しにいくという判断が有り得ますが、俎上にしているのは思想であり、理想社会の像だ。多数派を優遇する事になんて、なんの正理もない。暴走トロッコが、そのまま走って、そこを歩いていた6人を轢き殺すのであれば、それが天運というものではないのか。

そりゃ、そっちを歩いていた6人が轢かれる運命にあったのに、わざわざ自分が介入し、轢かれない運命にあった2人を殺す事は、たかだか人間の分際で出過ぎた真似であるなと、実は、そう考えている可能性が高い。実際に私はそう考えますかねぇ。大都市にミサイルが飛んでくるところを、大都市では人口が密集していて被害が甚大になるから、被害を最小限に止める為には他所の地方都市へ弾道を逸らそうというアイデアには賛成できない。そりゃ、どこか運命だと思って諦めてくれって内心では思ってしまう。天は、そういう偶然についても無為自然であり、それこそが自然の摂理であり、転じて神意というものだ。常に多数派が守られるべき等というのは、或る種、自由主義思想下の功利主義信仰が陥った傲りなんじゃないのかなって怨めしく思う。

この話は、ニシベは言及していませんが、価値がどこから生じてくるのかという話でハッキリとしている。価値は伝統や習慣、あるいは思想から生じて来る。わざわざ、多数派の幸福を実現する為に、とくに罪もない少数派を効率計算の上に抹殺する権利などは、無い。それは自然ではない。人為的な解釈で、勝手な計算をして、その計算によって、天運であったところを、人為的計算にすり替えてしまっているのだ。

で、この話は「天賦」にも応用される。天から与えられた人権なるものが有るだなんて思ってくれるな、となる訳ですね。ホントに物事を深掘りしてゆくと、ニシベも言及していますが、自然法などに依拠せざるを得ないのだ。誰々という学者がそう提唱し、その説が国際なんたら学会でも承認されているのが当節だから、時流として日本もそれに倣うべきだという論陣は、西洋文明と心中する運命にある。国際常識だの、潮流だの、それらは流行、トレンドに過ぎない。更に、多数決で物事を決定するとなる「2+1=5」という計算式でさえ、多数決の結果によっては、それを正答としなければらない事を意味しているワケですやね。

また、議会制民主主義では、何故、少数意見が尊重されるべきなのかという話にも言及があったと思う。それも輿論と世論の話は繋がっている。巷間では、少数意見を尊重する事、少数派の保護を或る種の犲綣垉澪儉瓩世抜違いしているという指摘がある。ニシベは、それは勘違いであると断言する。この議会制民主主義とは、ハッキリと言ってしまえば気分による多数決に陥る可能性が高い制度であり、多数派は過ちを犯すにもかかわらず、その多数派が犯す誤謬を糺すことは出来ないから、多数派の誤謬を正すという姿勢が、少数派の保護、少数意見の尊重の本義であるとしている。

現在、統一地方選の最中ですが、ホントは、これらを弁えて、当面や将来を決めて行かねばならないんですよね。しかし、投票率は高くもないという。既に二大政党制なんてものに選挙制度を変えられてしまっており、少数意見の尊重なんて起こらない。実際、国民主権というけれど、自分に意志決定権があるのかというと到底、そう思えないし、有権者、有権者というけれど、そこに意思決定権は愚か、二大政党制にしてしまったから実質的な選択肢さえもないのが実情ですやね。