或る時期から、社会に右傾化・保守化が起こったと思う。元々は中道左が主流であったところ、気が付いてみたら、より保守的傾向が強まり、更に近5年ぐらいになると高校生や大学生の政党支持としての保守化傾向というものを認識している。

これは単純な話ではないと思う。私が眺めてきた感覚に頼らざるを得ない部分もありますが、或る時、深夜のテレビ番組、フジテレビだった記憶がありますが「小林よしのり」が東大生らに支持されているという具合の放送を視て、それを自覚したのでした。確かにSPAという雑誌に「ゴーマニズム宣言」が掲載していた頃、私からすると小学校の頃に読んでいた「東大一直線」の著者が、そういう方向の漫画を描いていた事にオドロキもあった。センセーショナルな漫画だなという自覚はありましたが、まさか一時的なものであったとはいえ、思想的なメインストリームになるとは正直、考えもしていなかったんですね。

しかし、そういう現象は確かにあったと思う。田原総一朗さんは「今後は小林よしのりさんみたいな右派がどんどん登場するんじゃないの」的な発言を目にした記憶があるし、三浦展(みうら・あつし)さんの対談本の中には「小林よしのりさんの著書は分野で言えば思想書でしょ?」という趣旨の発言を目にした記憶もあるし、最近、購入した水木しげるの漫画の中でも水木しげる自身が、書店に『戦争論』を買いに行き、目を通し、複雑な感慨と胸騒ぎをおぼえたという実体験を描いたであろう短篇漫画にも触れた。「言論の人」と認識されるようになった「小林よしのり」という記号、象徴で、世の中の軸が右へと傾いた事は、否定することなく認識できると思う。また、この辺りの事は、ホントは確認するまでもなく、そうであり、では、小林よしのりさんを救世主と奉じるようにして右傾化が形成されているのかというと、それも違う。一時的には「よしりん信者」のような層も形成されていた可能性もあるのですが、さほど大きな影響力を持っていた感じはない。どちらかといえば転換期、転機に、言論活動をしていたのが「小林よしのり」というワードであったような気もする。裏返すと、多くの者は、複雑な事に小林よしのりさんを教祖にしているでもなく、右傾化或いは保守化が起こっているとしか思えないんですね。

で、17日付の読売新聞の27面、これは文化面ですが、そこで紹介されている小さな記事に視線を落として、色々と考える機会を得ました。記事は、井上義和・帝京大准教授(歴史社会学)を紹介するもので、その井上氏の主張が「特攻隊員に対する自己啓発的受容」という内容らしく、これ、パッと見は分かり難いんですが、よくよく目を通してみると、色々と符合するのではないかという気がしている。

さて、特攻作戦について、どういう感慨を抱くだろうか?

ここが、もしかしたら重要なのかも知れないので、以下を読み進める前に、立ち止まって、どういう感慨を持っているから想起してみるのが好ましいと思う。「美しい」と感じるだろうか? 「本来の日本はこうあるべき」と感じるだろうか? それとも「誰だよ、そんな命令を下したのは?」という風に考えるだろうか?

井上氏は、2000年以降、特攻隊員の遺書に触れた企業経営者やスポーツ選手らが、彼等に感謝を示し、それに続けて「私は生き方や仕事のやり方を一変させた」という具合の語り口が急増したという。少々、この部分は複雑だ。新聞記事も分かり易く書いてあるとは思えない。つまり、井上氏は、そういう言説が急増している事に気付いたの意だ。より、前後の文脈を汲み取って、説明し直すと、2000年以降、企業の経営者やスポーツ選手らが、特攻隊員の非業の死を語り、また、それに思いを馳せて、それに続けて「私は生き方を変えた」とか「仕事のやり方を変えた」のような言説を繰り出すようになり、それが急増したという認識から成り立っている。

更に補足が必要かも知れない。これが何を意味しているのかというと、2000年以降に登場した或る種の精神論であり、「活入れ」であり、その切欠として特攻に係る非業の物語が用いられ出した事を指摘しているのだ。誤解、先走りしないように一言を附しておきますが、そういう人があっても構わない訳です。「特攻による戦死者は美しい。自分も憧れる。だから私も、そのような生き方をする」という風に受け止める者も一定数はいるかも知れない。しかし、これが、厭らしい事に、成功者であろう企業の経営者や、勝ち組のアスリートらが言い出した事で、「死ぬ気でやればなんとかなる」という犲己啓発瓩暴颪換えられて、社会に流布された可能性があると分析しているのだ。

ここで、私が認識するところの、「小林よしのり」というキーワードの登場によって世の中に右傾化が起こったという曖昧な認識、それを補えるものだなと、閃くことになりました。或る時期、おそらくは、同じ年代なのだと思うんですが、びっくりするような自己啓発ブームがあったと記憶している。こんなに自己啓発本の広告が新聞広告になっているのは異常じゃないのかなっていう感覚ですね。ホントは宗教なども似ていてるし、スポーツ選手の事を、やたらと「アスリート」とカタカナで呼び出して悪口を言わなくなったのも、その頃であったんじゃないかな…。「アスリート」や「アーチスト」は崇め奉る存在になった。そして兎に角、やっためたらと自己啓発を掲げる言説が幅を利かせ、有難がる風潮みたいなものが出来上がり、物凄いスピードで社会が締め付けれていき、タイトになっていったような感慨がある。

「未成年でも大学生の飲酒や喫煙は容認する」というのが常識だったのに、或る時期から厳格な線引きをし出した。自転車の二人乗りについても同じですかね。大昔から二人乗りは違法であったが、ゆずの「夏色」の歌詞にも唄われているように、ざっくりと云えば「まぁ、あんまり堅いことは言ってやるなよ」という、どこか寛大・寛容な言説が主流だったと思う。これらは法治主義が世の中を縛り出した現象ですが、社会全体から寛容さが消え、タイトになったが故に語れる話であると思う。で、おそくらは、年代や世代は、それと似ていて、実は保守的言説としての自己啓発論が爆発的に拡大した時期があった可能性があるな、と。

おそらく基本的には世間知らずである若年世代というのは、反抗的なものであると言えるのだと思う。基本的にね。しかし、もしかしたらジェネレーションギャップの陰に隠れて、精神的な変革が起こっており、長い物には巻かれるべきといった、そういう精神論的な守旧派が増えたのかなという気がしないでもない。これは「ネトウヨ」の定義が難しいのにも共通していて、「何故、あそこまで排撃しないと気が済まないのか?」とか「何故、徹底的に自己責任論を展開しようとするのか?」にも繋がっていると思う。一つには、精神的に余裕がないのだと思うし、一つには、精神的に余裕のない社会に変質したのでしょう。40代後半もしくは50代の論者からは、度々、「尾崎豊」も社会学の問題で引っ張り出されますが、基本的に若年世代に成ればなるほど、反抗や非行、逸脱に対して、余裕を持っておらず、排除・排撃の対応をしていると思う。言論ベースでも同じ。ギャップ論の肯定、或いは拒絶反応によって、徹底的に拒否してしまえる時代だから尚更だ。

♪この支配からの、卒業

と唄ってみせた尾崎豊の尖った感性は、おそらくは大真面目に評価されてもいい感性であったと思う。その歌詞の前後を追えば「自由とは何か?」という問いにもなっており、ああしたものを評価できなくなっているというのは、感性に型を嵌めてしまっているからですやね。つい先日も、西部邁の著書で明治時代の人、福澤諭吉や中江兆民、西周(にし・あまね)に触れて、そもそも自分勝手と自由を別けて理解していて、不自由の中に自由を発見するものであろうという話に触れたばかりでもある。

現在進行形でピエール瀧さんに係る署名運動が起こっているようですが、或る時期から他罰感情が異常に膨れ上がってしまい、ドラマの内容からCMソングの歌詞についてまで、世論が掲げるところのモラルという箍(たが)とか型(かた)を掛けてしまった。その作品と、その作者の犯した罪とは別個の問題でいいんじゃないのという考え方は許してくれない。中世ぐらいの勢いでもって、「そんな犯罪者が出演している映画や、犯罪者がつくった楽曲は邪教なのです!」と反応しているんじゃないのかなって思う。実際、不倫する芸能人を本気で断罪し、一方で他意もなく発せられた「頑張れ」という声に対しても「頑張れって言うなっ! オレがどんなに苦しいのかオマエに分かってたまるかよっ!」とヒステリックに返す事を正当化してきているんですね。

で、これらの事を踏まえると、2000年頃から自己啓発的受容が広まったという風に分析をしている井上氏の見識とも合致しているかも知れない。また、この井上氏の場合は、この2000年頃に登場した特攻隊員に対しての、或る種の畏敬の念、感謝などが、美化や美学になってしまったのではないかという切り口をされている。ここは誤解が生じ易い部分なので、記事をまとめた読売新聞文化部の小林佑基氏の文章を引用してみる。

従来なら「戦争は悪い」「特攻作戦は間違いだった」という知識と、「特攻隊員は顕彰するものではない」という感情はセットで、隊員への顕彰や彼らへの感謝は、美化・不謹慎とされてきた。だが、自己啓発的受容の言説は、戦争や特攻作戦そのものは批判しているものがほとんど。

これは鋭い考察だなって思う。その昔、野村秋介が映画館に電話を掛けまくって上映の目途がついたという川谷拓三主演の映画「北緯15℃のデュオ」は神風特攻隊のはじまりを俳優の川谷拓三が旅行して歩くというだけのシブい映画であった。内容からすると特に極右思想というものでもない。むしろ、怒りや悲しみは別のところへ向けられている。散っていった特攻隊員の足跡を追うように旅をする。すると何某かの形容しがたい感慨に到ると、それは怒りに変わって、「一体、どこの誰が、そんな無茶な命令を出したのだ!」とか「誰がそんな作戦を考え出したんだ!」という怒りに変わるんですね。確かに、特攻隊の話というのは、冷静に事の成り行きを眺めると、そうなる。これは鈴木邦男さんの著書でも同じ傾向を読み取った記憶がある。少なくとも民族派、新右翼と呼ばれた系統では、軍事的合理性から逸脱して人命を軽んじた事に怒っているのが真理なのだ。

裏返すと、日本会議をはじめ、靖国神社の遊就館などは、何やら戦争美化ともとれるような右翼思想として奇異に映ることがある。基本的な態度としては、戦争を美化すべきではないのですが、いわゆる過熱化しがちなネトウヨ的な言説というのは、そこら辺で大きな隔たり、乖離があるように見える。

ここに曖昧さがあるのは確かでしょう。そりゃ、戦死者を犬死扱いをするものではないが、特攻の問題は「御国の為に玉砕せよ」であり、実際には死刑宣告のようなものなんですね。戦況を加味したとしても、ひょっとしたら軍事的合理性に反していた命令であったかも知れない。しかし、玉砕した英霊には同情を禁じ得ないし、また、神聖視するが余り、深部まで踏み込むことなく、その悲劇性に美学を感じ取り、そこに過剰なシンパシーを抱き、更に2000年代以降の日本で、それが自己啓発にしているのだとしたら――。

心の底では滅私奉公をバカにしながら、それでいて自己啓発的受容が起こっている事というのは、確かに不可解であると思う。過労死する者の悪口を云う訳にはいかないが、それでいて過労死する迄、いやいや心神耗弱して、その判断能力を喪失するまで働いてしまう事の精神病理に踏み込まない日本の現代人は異常なのではないだろか。バイトリーダーとか名ばかり管理職とか、或いはアルバイトにフランチャイズチェーン店をワンオペさせていた等というのは、ホントは、著しいまでの洗脳的な自己啓発受容が関係していたのではないかなって気がしないでもない。


さて、河合敦著『世界一受けたい日本史の授業』(二見書房)では、神風特攻隊について掘り下げた解説が記してある。同著に沿って以下へ。

先ず、通説では「特攻隊の生みの親」は大西滝治郎中将という事になっているという。

大西滝治郎中将は1944年10月中旬、フィリピンのマニラ司令部に海軍第一航空艦隊司令長官として赴任したが、このタイミングは、ミッドウェー海戦に敗れて劣勢となり、この大西赴任の数日前に台湾沖航空戦で日本海軍は400機近い飛行機を喪失しており、大西赴任時には使用可能な飛行機は100機程度。更に、その内、戦闘機は僅か30余機であったという。絶対防衛圏としていたサイパン島も奪われ、既にアメリカ軍はレイテ島に集結していたという絶望的な状況であった。そんな状況であったが大本営の方針は「全力でアメリカ軍のフィリピン上陸を阻止せよ」という方針であった。そこで、日本海軍の主力である連合艦隊がレイテ湾に突入、大西の率いる第一航空艦隊は連合艦隊を敵機の攻撃から守る役目を負う事となった。持ち駒からすると、到底不可能なので、大西中将は敵空母の飛行甲板を使用不能にする為の、体当たり攻撃を実施したというのが経緯なのだ。

これを考慮すると、大本営の無理な要求が、それを実行させてしまったような感慨も湧いてくる。

確かに実際に神風アタックの命令を下したのは大西中将であるが、必ずしも積極的にそうしたのではなく、大西中将にしても、特攻には反対していた事が分かっているという。戦況、状況として追い込まれ、その命令を下したという。

では、大本営だけが狂っていたのかという問題が残る。すると、これにも少し事情がある。大西滝治郎中将の背中を押してしまった出来事として、第26航空戦隊司令官であった有馬正文少将の死が関係しているという。この有馬少将は、1944年10月15日、部下たちの前で特攻の必要性を説き、「誰かリーダーになる者はいるか」と尋ねたが、部下たちは首を垂れて沈黙した。部下の下にも部下があり、一たび、その決断をしてしまうと部下を殺す事になってしまう話なのだ。しかし、この有馬少将は「誰も居ないなら私がやる!」と発言し、同年10月15日午後、高井貞夫大尉から飛行服を借りて一式陸攻に乗り込み、単身、敵艦への体当たり攻撃を敢行したのだ。

同20日、大本営は事実を国民に公表する方針を採り、同日付の東京朝日新聞は「空母へ先登の体当り、壮烈、航空戦隊司令官有馬正文少将」という大見出しが踊ったという。また、その報道は、国民の感動を誘ったという。そして、同21日に神風特別攻撃隊が編成され、その敷島隊が出撃するも悪天候によって一度、引き返し、同25日、敷島隊が改めて出撃して戦果を挙げ、神風特攻第一号となった。つまり、もう戦況にも厳しいところにきて大西中将のケースは有馬少将の特攻と、それを称える大本営によって先鞭もつけられてしまい、状況としても引くに引けない状況に追い込まれていた可能性が高いのだという。この大西中将は敗戦後に遺書を残して切腹して果てた――。

しかし、厳密には、この戦果を挙げた25日の敷島隊が神風特攻の第一号ではないという。何故なら21日に編成された神風特別攻撃隊が編成され、その大和隊の隊長であった久能好孚(くのう・よしただ)中尉が戦果は挙げられなかったものと推測されるが、おそらくは特攻したと強く推測する材料があり、実質的な特攻第一号であるという。更に、23日に発足した菊水隊2機が敵空母に損傷を与える特攻を行なっていたが、その戦果を報告する電報の差で、神風特攻第一号は華々しい戦果を挙げた敷島隊のものとなったという。

そして皮肉にも、この敷島隊の挙げた戦果が大きかった事によって、陸海軍によって特攻、つまり玉砕戦術は拡大してゆく事となり、1945年4月から始まる沖縄戦では統計はまちまちまながら、約4000名もの兵士が特攻によって命を失ったという。(特攻の命中率は10%と推定されている。)

確かに、こうした歴史の総括、敗戦の総括は為されているのか、その問題がある。或いは、また、こうした話が、いつの間にやら現代人の自己啓発の受容と関係しているのだとしたら、中々に、厄介な事態なのかも知れない。

井上義和准教授は「特定の勢力を批判することなく、議論を広げていくべき」と念を押していますが、現行の右傾化なり保守化なり、コスパ優先思考なんてのは、人間観や死生観を置き去りにして、どこへ行くつもりなんだろう。