週刊文春5月2・9日ゴールデンウィーク特大号には、池上彰さんの連載「池上彰のそこからですか!?」がスペシャル対談となっており、『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)を著わして話題となった新井紀子国立情報学研究所教授を迎えての対談記事になっていました。これが中々、興味深い記事であったと感じましたので、それに沿って――。

あちらこちらで話題になったのが新井紀子さんは、最初はAIに学習させて東大受験をさせてどうなるのかという、いわゆる「東ロボ」のプロジェクトで話題となった。「東ロボくん」と命名されたAIに学習をさせていったところ、2016年の進研模試で、全国の大学の7割に対して合格可能性80%という判定を獲得できた。これはMARCHや関関同立などの有名私大をも含めたものであり、言ってしまえば「東ロボくん」の学力は低くない。そのレベルは例えるなら大学を卒業してホワイトカラーになる日本人の7〜8割は、現状のAIより能力が劣る事を意味するという。(着色文字、実は新井教授の言葉の引用です。以下も同様。)

しかし、東ロボは東大合格水準には到達しない事にも気付いた。元々、この東ロボ実験の目的は、AIにどこまでのことができて、どうしてもできないことは何かを解明することであったという。

そこから得た仮説が、昨年頃からメディアで取り上げられるなどして注目を集めていると思う。私も、その書籍を手にしていないが、何故か、その概要、そのさわりは知っている気がする。簡単に言えば、AIは読解力が低いと分析した。それはAIの弱点が読解力であることを意味し、裏返せばAIに負けない人間の能力は読解力であるという事も並び立つが、新井教授の著書の一番の衝撃は、いまどきの子供たちは劇的なまでに読解力が低くなっているという現実であった――と。

新聞広告などにも大々的に使用されたのが、以下ですね。

A.幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。

B.1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

このAとBの内容は「同じ」か「異な」かという二択問題でした。高校生の正答率は71%で、中学生は57%であった。勿論、異なりますね。Aが「幕府が大名に命じた」であるのに対して、Bは「幕府は大名から命じられた」になってしまっている。高校生の正答率は、そんなものかも知れないなと思う反面、中学生で57%というのは、かなり低いんじゃないだろか。

これは悩ましい問題なのかなぁ…。実際、社会人になっても、その問題はつきまとっていると思う。読み書きに不自由はなくとも、「及び」と「又は」という文章の使い分けなど、文書事務関連や行政文書などでも間違いが生じ易いよなって実は思っている。神経を集中していれば間違えないのでしょうけど、他人の文章ってのは順番がデタラメだから読みにくく、複雑な説明文になってくると、明確に論旨を読み取れなかったりする。

ホントは昨今の行政文書は官に頼り過ぎなので、主旨と別の部分に引っ掛け問題のようにして、そういう小技が紛れ込んでいる。運転免許証の試験で、

「飲酒運転は交通違反であるが、覚醒剤を服用しての自動車運転は交通違反にはならない」

のような、ヘンテコな文章に付き合わされることになる。精神的な安定があれば迷わないが、精神的な重圧を受けていると、「何っ! この問題は何を問うているんだ? 覚醒剤を服用して運転したって、そりゃあ、飲酒運転にはならないだろ!」というようなはやとちり思考の迷宮に入ってしまう事がある。後で問題を読み直して、出題者の態度に激怒する事になる。何を試したいのだ? だったら、こっちも、もっと意地悪な問題を用意してやるからやってみろ的な。

記事に戻りますが、この読解力の問題、新井教授に拠れば、読書習慣の有無などを調べたものの、相関関係は見つけられなかったのだそうな。その挙げ句、「アンケートの文そのものを正確に読めなかった可能性すらある」からではないかという分析に到った。そう。つまり、AIに負けないのは読解力であるが、現代人の読解力は危機的なまでに低下しているというのは、この新井教授の発信した話の衝撃部分だった訳ですね。

そして、新井教授の場合は「シンギュラリティは永遠に来ない」という説を唱えている。(ここに異論の介入の余地もあるかと思いますが、新井教授に沿って進めます。)

池上:私たちが子どもの頃は、ロボット化や自動化が進むと面倒な仕事はみんなやってもらえるから、人間は遊んで暮らせるという夢のような未来を思い描いていました。ところが、非常に恐ろしい現実が近い将来にぽっかり口をあけている。

新井:オックスフォード大学の研究チームは、七百二種類に分類した職業のうち、十年から二十年で約半数が消滅して、全雇用者の四十七%が職を失う恐れがあると予測しています。〜略〜そんな大きな社会変動を目前に控えるいま、人類はAIに負けるか負けないかという議論ではなく、「私は生き残れるのか?」を切実に考えなければいけません。

池上:銀行の大幅な人員削減は、日本でも始まっていますね。

新井:AIによるデジタライゼーションは、現在ある仕事の真ん中部分をごそっと奪います。AIをクリエイティブに使いこなす一握りの人たちは、巨万の富を得ます。一方、AIにはできない肉体労働や精神的な重労働を、オフィスから弾き出された大卒者が低賃金で奪い合います。失業と人手不足が同時に訪れて、世界的なAI恐慌に到るでしょう。

池上:人類がこれまで経験したことのない事態ですね。

となる。

この週刊誌記事を読んだのは昨晩の事であり、この数日中の当ブログの内容とは無縁なんですが、色々と重なっているなと感じました。まさしく、私が目撃したのは銀行の窓口業務、その接客、説明、案内をする人の仕事の煩雑を考察したし、そこから将来的にはATMだけの銀行が増え、そういう事業形態にシフトしていかねば生き残れないという環境が起こるが、一方で、実際の利用シーンでは煩雑な窓口対応を必要とする仕事も残るので、そちらに回る人の労働は大変になるのであろうな、と。新井教授の主旨と微妙に異なりますが、大方は合致していると思う。また、池上さんが人員削減が進んだ現場として持ち出したのも奇しくも「銀行」の例でした。

また、実は20代の女性行員さんと明日からの10連休について雑談をした際、私が誘導した訳でもないのに「10連休なんて無茶ですよねぇ」という具合に話を振られてしまったのでした。投資信託どうすりゃいいんだろうねって話の中でね。で、その行員さんが続けて言うには「こんな事を言ったら失礼になってしまいますが、私はAI銘柄とロボット銘柄は、あんまり好きになれません…」と言われてしまった。その行員さんなりに遠慮し、それでいて忌憚なく、そう言った事で、ああ、或る意味ではこの行員さんはホンネで私に接しようとしてくれているんだなと感じた一場面でもありました。しかし、この問答、私は、ひしひしとフルオートメーションの問題やAIの問題に恐怖を感じているからこそ、そちらの金融商品を買っていて、しかも1割ぐらいの利益が出せているのが皮肉な現実だったりする。投資している人が読みたがる『ウォール街のランダム・ウォーカー』と、大学一年生用の『経済学入門』を読み返していたら、難しい経済理論には全く意味はなく、ただただ【比較優位】さえ知っていれば経済理論って事が足りてしまいそうだなと結論してしまった。確かに、もう、なにもかもデタラメです。自分自身でもデタラメだよなって思う。ホントは、その女性行員さんみたいに「(自分たちの首を絞めることになるようなので)あんまり好きになれません…」と反応するのが本来的な人間の在り方だと思うもの。

もう、これは始まってる。面倒な仕事をしたら負け。おいしい仕事だけをしていないと持たない。マイケル・サンデル教授のたとえ話で、「ビル・ゲイツは百ドル札を落としても拾っている暇はない」というのがありましたが、そういう訳の分からない一極集中が起こっていて、それが末端の、町場の経済圏まで浸食してきている。道を尋ねてくる老人には親切にしてやりたいが、うっかり、よかれと思って教えようとしたら、変な老人で、あれこれと話し掛けられてしまい、結局、急いでいたのに10分間もタイムロスをして後悔する的な社会になってきたな、と。

また、「シンギュラリティは永遠に来ない」という説は、うーん、どうでしょう。将棋やチェスを大将にしてAI対人間だと、将棋の方で、実はディープラーニングという、一つの壁を乗り越える出来事があったと思う。AIには限界があると考えらえていたが、AI開発の中で不要な回路をバッサリと枝切りするという天才棋士の狒き瓩鮨浸たプログラミングの実効性が証明され、それ以降もディープラーニングを休息をとることなく続けることができるAIが将来的には人間能力を超越するという予測があったと思う。天才棋士の閃き、それをAIで再現できてしまったのかと愕然した記憶がある。シンギュラリティとは技術的特異点であり、つまり、一定水準を超えると爆発的に世界が開けて行くという問題だったかな。不思議なことにカンブリア紀に進化する生物たちの間でなんたらの大爆発なんてのにも例えられている話で、私は漠然とですが、シンギュラリティだって起こり得るんじゃないのかなって考えているんですが…。AIにAIを創らせるとか育成させるという次元にまで到達してしまったら、その先、人間には理解できなくなる次元が来るんだと思うけどなー。

まぁ、そう簡単に劇的な大爆発は起こらないかも知れませんが、今後、人手不足なのに失業者が溢れるという前代未聞の事態が起こるのであれば、もう、それだけで当座のパニックになるであろう未来図というか、数年後の風景は見えてしまった訳ですが…。いや、そうしない為には「こんな世界は持たない」とか「そもそも、人類史は、こんな世界を希求していたのではない!」という大きな潮流が起こらないとまずいと思うんですけど、間に合いそうもない。