香港デモは、一先ずは「延長」を引き出したが、それに満足することなくデモは「撤廃」を掲げて継続しているという。

「もう、デモには効果は見込めないのではないか?」という言説も語られるようになり、私自身も7割ぐらいは諦めの気持ちで眺めていましたが、香港デモは一定以上のデモの力というものを証明してくれたのかも知れない。

それに引き替え、日本は…と、どうしてもなってしまう。「民間社会そのもの」から、「活力そのもの」が失われてしまったと感じている。ペットショップで購入するペットにはチップを入れる事が法制化されたといい、レジ袋に関しても有料化する事を法制化したという。もう、これっぽっちも民間社会の裁量を残す気なんてないのでしょう。

法治主義の世の中にあって、その法治主義を批判するのは愚であるかのように思えてしまうかも知れない。しかし、西部邁、ニシベを想う。最後の自裁死にしたって、生前のニシベの持論に沿って果たされたものであって、長生きする為に長生きするような思想はおかしいと思う。また、ニシベは敢然と、物事の判断基準となる道徳のようなものは、習慣などの文化に根差しているという論旨であったと思う。東京MXテレビの番組内で佐高信と対談しながら、「組織には明規と暗規とがあるから、企業が合併しても巧く行かない。合併にあたってルールを決めたところで、元々の企業には明文化されていない暗黙の規律がある」てな具合の話をしていましたが、ホントに、そうなんですね。細かいことを言い出せばキリがない筈で、それを明文化して一律的なルールを設定し、そのルールに全員が従えばいいのだという理屈は、どう考えてもおかしい。

しかし、完全に、今の日本は、その愚を冒しに行っていると思う。結局、年金問題にしても、また、事実を事実として認識せず、ヘンテコな方向で物事を進めている。国民の不安を煽るなという、ヘンチクリンな理屈の方が強いのだ。平たく言えば、ホントの事が露呈してしまうと収拾不能になってしまうから、ホントの事を言っちゃいかんという、そういう力学で、日本の国会やマスコミは動いちゃっている。しかし、それじゃ、考えようによっちゃ、詐欺みたいなもんだ。

社会保障制度なんてのは欺瞞も多いと思いますよ。それこそ、年金に係る事柄なんて、その理念の中に「申告主義」という法律用語が使用されている。どういう事かというと、年金は原則的に被保険者や受給権者の側が自ら申告をして手続きが決定するというシステム設計になっているから、仮に被保険者や受給権者が、その事柄に係る申告を忘れた場合は、我々は責任を負いませーんという具合の、典型的な役所仕事的性質を孕んでいる。強制加入のクセに、そういうルール設定をしている。他人に厳しく自分に甘い。これほど複雑な制度にしてしまったんだから丁寧に説明すべきだと思うけれど、実際、そうなっていない。日本年金機構や厚労大臣には、それらの事柄を周知する事も法令で義務づけられているけど、そちらは出来る範囲内でヨロシクってノリだ。「広報活動など、我々は努力はしていましたー」というアリバイ作りみたいなもんだと思う。丁寧に説明する気がさらさらない。しかし、彼等には絶対的な権限が与えられている。

官と民の差異も思いついてしまう。こんにゃくゼリーを凍らせて食べて死んだ者が出たら、その企業に処分を課したんじゃなかったっけ? 周知が不徹底だったから死者が出てしまった的な理屈で営業停止処分か何かにしたんじゃなかったでしったけ…。なんなんでしょ、この差は。

通常の契約とか約束事であれば、そこで甲と乙とは対等な立場で契約を交わす事ができる。しかし、税金や年金、健康保険、最近はNHKなども徴収権や捜査権といった公的な権限を、警察と同等か、それ以上に露骨に発揮していると思う。


ああ、そうそう。長生きする事に目的があるのかという話であった。10秒や15秒も考えれば気付いてしまう筈ですが、長生きする事そのものが目的化しているのだとしたら、こりゃ、中々に虚しいよなって思う。ビートたけしさんが「健康の為なら死んでもいい!」といった具合の冗談をよく使用していた記憶がありますが、基本的な構図は似ている。「長生きしさえすれば幸福」とか「長生きしさえすれば苦しい人生でもいい」、「長生きする為に忍従と努力の人生を歩む」という転倒があるじゃないの。

野坂昭如著『終末の思想』(NHK出版)には、次のような過激な一節がある。

老人の知恵を生かすといったって、ボケの場合無理だろう、「お年寄りを大事に」など、そらぞらしいことをいっても、現実はまるで違う。大事にするというなら、病院へ放りこまず、自宅で面倒をみる、そして、手に余ったら、子供の手で殺す。殺すといういいかたに抵抗はあるだろうが、しかるべく医師によって調整された薬を、ほどこす分には、老人にことさならな苦しみもないし、きわめて効果は緩慢、一種の衰弱死をとげる。

奇型の子供、あるいは成長したところで、幸せになれない、このいいかたはきわめて曖昧だけれども、母親がかく判断した時、子供を殺す。親がボケてしまい、このままでは一家共倒れと思えたら、子供がしかるべく殺す。即ち、病院にまかせない、自分の判断で行い、このことについて他人はいらざる差し出口をしない。


現在であれば炎上必至といった感じの箇所ですが、発刊は2013年であり、出版社はNHK出版であったりする。おそらく、世の中全体が、言葉狩り的な傾向にあり、その語彙が含んでいる危険な部分にのみ反応してしまうようになってしまい、それでいて年金問題同様、見事に棚上げしてしまっている気がする。大手経済団体や保守系論客が、お湯を注ぎ込まれても気付くことなく茹で上がって死ぬ、茹でガエルの論理を、やたらと使用したがっていますが、ホントは、その思考停止になっている茹でガエルは、彼等も同じだ。舛添要一さんあたりは指摘している可能性がありますが、「日本人は御上は間違わない」とか「官僚は間違う筈がない、誤魔化す筈がない」等と、盲目的に無責任体制を放置しているというか、率先して騙されに行っているような態度なのが事実であろうと思う。

この問題、野坂昭如は深沢七郎の「楢山節考」から思考している。他方、本来であれば渡辺昇一の「神聖なる義務論」もあったし、最近でもヤノマミ族への取材で分かってしまった「精霊送り」という問題も同じ事を示唆しているし、いやいや、それどころかマイケル・サンデルあたりでも「その子を堕胎するか出産するかの決定権は母親に委ねられるべき」と提示していたりするんですよねぇ。しかし、現在の環境では触れてはいけないアンタッチャブル案件となっていて、揚げ足取りしか起こらなくなってしまっている。

或る意味では、野坂昭如が最も過激であったかも知れない。

薄っぺらでお手軽な世の中に、幾重にも正体不明の闇が広がっている。闇は視界を妨げ、若者の心に入り込み、足をからめとる。この闇はぼくらの生き写しである。金や物を崇め、合理化とやらをすすめてきた日本。無駄だと省かれたものの中にこそ、日本の誇りがあった。風土や気質、歴史に支えられ培ってきた独自の文化。うわべ豊かとなった時、今度は内容を豊かにしなければならない。少しゆとりが出来たところで文化を深め、伝統を生かす分野に心を注ぐべきところ、抹殺することで成就しようとした。文化を壊したというよりも弊履の如く捨てた。そして日本人は醜くなった。街は便利で生活、全体に美々しくなり、人もまた見てくれきれい。醜くなったのはその生き方、消費文化の行きつく果て。

結局、何が豊かなのか分からぬまま、日本は滅びようとしている。戦後、その都度決着をつけてこなかったこの国、当然の報い。


つまり、自業自得の結末として、日本は滅びるだろうという考え方をしているのだ。

野坂昭如は、もし三島由紀夫が都知事になっていたなら…という夢想もしている。改憲と護憲でいえば、改憲派なのだ。自衛隊を国軍に出来ないという問題に関していえば、三島由紀夫が都知事になっていたら、なんてことにも触れているし、三島由紀夫であったならゲバ棒を振り回していた世代の連中も賛同できる部分が多かった筈で、右派と左派の均衡のポイントであったように述べている。裏返すと、共産党や社民党が世論誘導に失敗したとも言及している。まぁ、これが分かっていたのが、野坂昭如なのだなぁ…。

御節介な説明を付け加えると、その人の命はその人に帰属している。その人の人生もその人個人に帰属している。ニシベが自裁死をした理由もそれだし、ノサカが「日本は豊かさも理解できないまま、滅びようとしている」と指摘しているのも、それですかねぇ。「死ねる」というのも、ホントは幸福のうちの一つだし、幸福な人生を歩むこととは何か等々、そちらへ発展できる。

「どんなに辛くても死んではならないのです! 自殺は法律違反です! どんなに苦しくて苦しみに耐えて耐えて、懲役囚以下の生活でも死ぬまで歯を食いしばって生きるのですっ! 努力、努力、努力ですっ。艱難辛苦の果てに栄光を勝ち取ったアスリートたちをご覧なさい! あんなに懸命に頑張っているじゃないですか! あなたも頑張るべきなのです! 努力すれば必ず報われます!」みたいな御伽噺から抜け出せないって事なのだと思う。ホントは上級国民さんたちによって、既に「落とし穴」や「罠」を仕掛けられているのに、そちらを疑うことをせず、そこへ突き進むことこそが正しい生き方だと考えているんだと思うけどなぁ。


追記:途中で仮想三島由紀夫都知事のクダリに触れました。三島知事なら自衛隊を国軍にしてしまうことに躊躇は無かった筈で、政治家を変えて社会も変革される事の例えにしている。元々、戦後間もない時期の日本人は、そう考えていた筈だが、いつの間にか政治家を変えても社会は変革されないという考え方を戦後日本人がするようになっている、という説明が付されている。

仮に自動小銃を持った100名の武装した犹暗膩貝瓩霞ヶ関と皇居に突入、その上でマスコミを抑えてしまえば首都制圧は現実的に起こり得た気がするが、既に政治によって社会を劇的に変えることが可能だというリアリティーが既に無党派政治の時代には無くなっている、という主旨のよう。支配体制が固定化してしまった事の虚を突くような例えでもある。確かに政治的リアリティーって、いつの間にか無くなったのかも。誰がやっても同じというのでは、世の中、変わりませんやね。

野坂昭如らしい過激な話なのですが、実際に「選挙しても何も変わらないよ」という状態になってしまっている現在を考慮すると、その政治の本質を刺激的に語っているのかも知れない。戦後日本への挽歌として、記されていた事を考慮すると、この「三島都知事」の比喩は鋭い内容でもあると思う。