2019年08月11日

何故、農村青年らがテロに走ったのか〜後篇

◆十月事件(錦旗事件)の裏側

満州事変に連座して計画されていた十月事件は未遂に終わったが、十月事件も公表される事は無かった。公表してしまえば、三月事件についても触れねばならず、柳条湖事件を含めて、現在で言うところのガバナンスは崩壊していたのが実際であったと思われる。但し、この十月事件は軍内のヘゲモニー争いとしては大きく作用し、統制派(一夕会、永田、東条)が強硬派・急進派(桜会)に対しての優越的地位を勝ち取ったという。一夕会は、この十月事件を最大限に利用して、急進派の桜会を追いやったので、大川周明は、

「利口な秀才軍人にことごとくのっとられた」

と語ったという。いわゆる「統制派」の面々は、実は学歴で将来が決定する官僚制が強く影響しており、強く「官僚軍人」の要素を持っていたとする最近の指摘とも合致する。いわゆる「秀才」が軍隊内の主導権争いに勝利したの意でもあるだろうから、大川周明が【秀才軍人】という言葉を使用しているのは分かり易い。とはいえ、状況はどうにもならない。現に満州事変が起こしてしまっており、収拾は不可能。統制派にしても、単に主導権争いに勝利したに過ぎない。

十月事件の裏側では、井上日召の周辺でも大きな軋轢が生じていた。橋本欣五郎をリーダーとする桜会は十月事件が成功した後には事件に関与した関係者を二階級特進する等の計画を立てていた。西園寺公望、一木喜徳郎、鈴木貫太郎の暗殺も計画していた。そればかりか、クーデターが成功した後には北一輝の排除を計画していた。

この頃、北一輝は直接的には関与していなかったが、西田税は実質的に北一輝の直系であった。藤井斉の海軍士官グループにしても北一輝とは根が深い。西田と藤井が井上日召と改造計画を練り、その井上日召を頂点にして大洗青年組(小沼正、菱沼五郎、古内栄一ら)や愛郷塾(後藤信彦、後藤圀彦ら)が繋がっていた。しかも、小沼正の証言に拠れば、

「桜会は井上日召一派や西田税一派も、みんな殺してしまえと言っているという情報が流れてきた」

という。それを知った井上日召と西田税は

「返す刀で、こっちが先手を打って全部斬ってしまおうじゃないか」

と、内部分裂寸前であったという。この桜会を巡る桜会と反桜会との対立は、実は大川周明と北一輝との対立構図が投影されていたらしく、大川周明が北一輝を排除したかったらしく、それを受けて桜会の中に不穏な動きがあったと、茨城(大洗・水戸・霞ヶ浦)陣営からは見える。(大洗は井上日召の護国堂グループ、水戸は愛郷塾グループ、霞ヶ浦は藤井斉の海軍士官グループ。)

更には、その後、西田グループが井上日召を排除し始めるという展開が起こる。井上日召に憲兵隊の尾行がつくようになったという。愛郷塾では小学校教師であったという縁で、後藤圀彦が古内栄一を通じて大洗青年組に出入りするようになっていたが、愛郷塾及び橘孝三郎は、この国家改造計画にどんどん巻き込まれてゆく。公にされなかったものの、十月計画の実態を知ってしまえば、最早、ぼやぼやしていられないという心境になったものと推測できそう。(温度としては農本主義的右翼思想の権藤成卿と橘孝三郎は、維新や革命について、その急進度は低いが、みるみる時局に吸い込まれていく。)


◆血盟団事件の裏側

西田グループはというと、第二次若槻内閣が倒れ、犬養毅内閣になって荒木貞一が陸軍大臣として入閣した事で、行動を控えるという指針を選択した。しかし、井上日召の大洗部ループ、藤井斉の海軍士官グループは要人暗殺に傾倒していった。水戸の愛郷塾にも海軍士官グループから飛行学校生であった古賀清志と中村義雄が訪ねてきて、愛郷塾生らと親交を重ねるようになっていた。海軍士官グループは権藤成卿の著した「自治民範」を全員が読んでいたので、橘孝三郎の愛郷塾の思想とは農本主義という部分では相性が良かったという。また、橘孝三郎にしても、古賀と中村に対しては農村青年とは異なる純粋さを感じ取っていたという。後年、明かされたところによると、古賀清志が、橘孝三郎に「軍事独裁にしたくないので、陸軍、海軍、そして農民も国家改造に参加をして欲しい」と要請し、橘が応じたものであった。

海軍士官グループは、海軍は元より特高からも監視を受けており、藤井斉、山岸宏、村山格之には出撃命令が下り、国外へ配属となった。海軍当局が不穏分子らを遠ざける措置をとったものだという。藤井斉は上海へ転属となり、戦闘機の墜落事故で死亡したとされる。

拙ブログ:映画「日本暗殺秘録」にみる小沼正〜2018-12-3

1932年2月9日、大洗青年団の小沼正(21歳)が井上準之助前大蔵相に拳銃を発砲、暗殺する。

1932年3月5日、大洗青年団の菱沼五郎(22歳)が団琢磨三井合名会社理事長に発砲、暗殺する。

いわゆる血盟団事件であり、黒幕は井上日召であった。小沼、菱沼らに続いて古内栄司らも立て続けに一人一殺の暗殺をする予定であった。古内は三井財閥の池田成彬を暗殺予定であったが、暗殺することが出来ず、面識のあった軍事学校の教官である大蔵栄一の下を訪れて相談し、自首する。

井上日召は官憲の捜査が及ぶことを予期して、頭山満に庇護を求め、約一ヵ月間ほど頭山満の三男・頭山秀三の主宰していた天行会の道場に身を潜めていた。

西田グループはというと、犬養毅内閣に荒木貞一が陸軍大臣として入閣した事で行動を控えていたが、そんな中で血盟団事件が起こっていたという。

小沼正の暗殺決行と逮捕は、愛郷塾の面々を興奮させたという。十月事件は未遂は終わったものの、愛郷塾の塾生と行動を共にしていた事もあり、つまり、知っている奴がホントに暗殺を決行、自首、逮捕されたのだ。恐ろしさを感じる反面、塾生たちの中には特高の監視の目をかいくぐり、暗殺という行動を決行した小沼に対して、或る種、「偉い」と感じる感覚があったという。

井上日召ら血盟団事件の面々は「捨て石になる覚悟」であり、自分たちが要人テロを敢行すれば、それに触発されて、他の国家改造主義者たちも続けて決起をするものと期待していた。しかし、西田税も、大川周明も、十月事件の失敗があった為に積極的に動こうとはしなかった。

1932年3月31日、井上日召は本間憲一郎、天野辰夫らの説得によって自首を覚悟する。井上日召は前代未聞、警視総監邸へ赴き、警視総監自身に自首した。報道はセンセーショナルとなり、犢馼佇造澆梁疂畄爿瓩任△辰燭箸いΑ


◆橘孝三郎と愛郷塾の五・一五事件

交流のあった井上日召ら血盟団事件を受けて愛郷塾にも橘孝三郎にも動揺が走った。井上日召和尚や大洗青年団は、ホントに実行した。海軍士官グループからは藤井斉を失って以降、古賀清志や中村義雄は愛郷塾の橘孝三郎を師と見立てて、その後も交流が続いており、古賀、中村は何かしらのアクションを起こすべきだとして、西田税や大川周明に、決起のうかがいを立てるが、西田税にしても大川周明にしても武力を要してのアクションには消極的であった。

橘孝三郎の元には、権藤成卿からの手紙が届いた。

「日召はピストルをふりまわしたが、橘君、君はやっちゃいかん。こんどこういう事件を起こせば間違いなく死刑になる。間違いなく死刑だ。これは近衛筋から出ている情報だから信頼できる情報だ」

ここでいう「近衛筋」とは、あの近衛文麿を意味している。既に触れたように政界はごったごたになっており、「近衛文麿」が台頭するのも当然の成り行きになっている。

因みに、この権藤成卿は、大杉栄と甘粕正彦との因縁で、内田良平と決別したという過去を持つ。大杉栄は憲兵大尉であった甘粕正彦に関東大震災のドサクサに紛れて虐殺されたという一見があったが、当時、活動を同じくしていた内田良平が、甘粕正彦を弁護するかのような発言をした為、権藤が内田を避けるようになったとされている。右派と左派は、或る意味では繋がっていたというのが事実で、北一輝は関東大震災時に朴烈に20円を与えて逃亡させ、また、大杉栄が殺害された事にも憤っていたとされる。

権藤成卿は既に60代半ばの高齢であり、その筋の大御所であった。非常に似た農本主義(天皇を中心とした農本主義)思想の橘孝三郎に対して、権藤は何としてもブレーキを掛けたかったものと思われる。

しかし、この権藤からの手紙を読んでいた時、橘孝三郎は、何年かぶりに地の底からの声を聞いてしまったという。第一高等学校の学生であったとき、時計台が揺らいで見え、孝三郎に高校を中退させてしまった、あの声が聞こえてしまったという。

「ヒキョウモノ、ヒキョウモノ」

という声が聞こえたという。つまり、ここで死刑を怖れて、行動に移さない限りは卑怯者という誹りを受けてしまうという心理が、精神現象として聞こえてしまったものと推測できる。

孝三郎は上京して権藤邸を訪ねた。そこで権藤は、古賀清志、中村義雄の名前を挙げて、この両名は実は学生でもあったが、その古賀と中村はテロを起こす覚悟で、止める事はできそうもないと孝三郎に打ち明けた。その上で、権藤は

「古賀を説得できるのは、あなただけだ。あなただけが説得できる。古賀が(計画を)中止するように説得して欲しい」

と頼まれた。

孝三郎は、どちらつかずであり、頼まれた通り、古賀清志に対しての説得も行なった。しかし、古賀清志の意志は固く、権藤成卿からの忠告である事を継げても、なんら行動を改める気はなかった。結局、五・一五事件に、突っ走る事となる。

古賀が半ば強引に引っ張って行く形となる。しかも血気に逸る古賀は、北一輝の代行者であり、国家改造運動の中心人物である西田税の暗殺を画策していた。何故、西田暗殺なのか橘孝三郎もよく理解できなかったといい、また、実行犯として西田税を狙撃し、瀕死の重傷を負わせた実行犯の血盟団残党・川崎長光は西田襲撃を再三、渋ったという。しかし、何故か、この渋る川崎長光を説得する役割を、西田を排する理由があるのか理解できていない橘孝三郎が果たしている。「西田が陸軍の決起を阻害している」、「西田は口ばかりだ」というのが古賀の主張であった。

1932年5月12日、橘孝三郎は東京駅を発ち、そのまま、満州へ。

5月15日、三上卓、黒岩勇らが犬養毅首相暗殺を敢行する。突如として襲撃された犬養毅は「話せば分かる」と説得を試みたが殺害された。

表門組は三上卓、黒岩勇ほか士官候補生。裏門組が山岸宏ほか士官候補生。

表門組は警備の警官に銃を突き付けて、犬養の居る日本間に案内させようとしたが、その警官はぐるぐると迷路のようになっている廊下を歩いている内に逃亡。表門組の士官候補生・後藤映範が逃亡する私服警官を目撃し、発砲。その発砲を合図に、首相官邸内のあちこちで銃声が響く事態になったという。この表門組、後の証言では「警官の態度が反抗的であった」という理由で警官を射殺している。

檄文を記した事から首謀者のようにも語られる三上卓、その三上卓が犬養の居る日本間に辿り着くと間髪置かずに拳銃の引金を引いたが、三上の拳銃は弾丸が装填されておらず、カチカチと音を立てるばかりであった。事前に賊が襲来している事態を通告されていた犬養毅は泰然自若としており、

「向こうへ行って話そう」

と三上卓に話し掛けて、一緒に廊下へと歩み出た。この際、犬養家の女中と犬養の孫が廊下へやってきたので、黒岩勇は女子供には見せたくないという思いから、

「君等には危害は加えない。向こうへ行ってもらいたい」

と遠ざけた。

犬養は、三上らを洋室に招き入れ、

「まぁ、ゆっくり話そう」、「話せば分かる事だ」

と、青年将校らの説得をしようとしていた。ここへ裏門組の山岸宏らがドカドカと雪崩れ込んでくる。山岸は、

「問答無用、撃て撃て」

と叫んだ。その山岸の声で、黒岩が発砲、黒岩に遅れて三上が発砲した。黒岩が放った弾丸は犬養の腹部に命中。三上の弾丸は犬養の頭部こめかみに命中した。

倒れた犬養毅は

「あの乱暴者を、もう一度、連れて来い。話して聞かせてやる」

と言い続けながら絶命したと伝わるが、一説に実際には狙撃された直後から意識はどんどん薄れていったという医師の証言もあるという。(犬養首相撃たれるという緊急事態によって高名な医者が複数名、呼び出されていたが、その内の一人の証言では、そうなっているという)

古賀清志はというと、士官候補生4名を引き連れて、牧野伸顕内大臣邸に手榴弾を投げ込む。2つ投げた内の一個は不発弾で、一個が炸裂。その後は檄文を町中に撒きながら警視庁へ向かった。この最中にも手榴弾を投げたり、発砲をし、警察官と新聞記者にケガ人を出した。

中村義雄はというと、士官候補生3名を引き連れて政友会本部を襲撃した。玄関に手榴弾を投げつけたが不発。拾い直して投げ直したが不発。士官候補生の投げた手榴弾が炸裂。警視庁に向かい、ここでも手榴弾を投げるが不発、拾い直して投げると電柱に当たって炸裂。一行は、その後、憲兵隊本部に自首した。

愛郷塾の面々は、東京変電所(尾久)、鳩ヶ谷変電所、淀橋変電所、亀戸変電所、田端変電所、目白変電所に侵入、ポンプを停止させたり、手榴弾を投げて配電盤を破壊するなどした。これは東京中を停電させて、東京を漆黒の闇とするという計画によるものであったが、成功とは言い難いもので停電は殆んど発生しなかったという。

川崎長光が西田税邸を訪問。西田は川崎を二階の書斎に通して、歓談に応じたという。しかし、何故か川崎は顔を伏せたままで、黙っていたという。西田が川崎の様子がおかしいと気付くと、川崎が懐に忍ばせていた拳銃を取り出して、至近距離から6発を発砲、5発が命中。西田は気丈にも川崎に掴みかかったという。川崎は西田の妻の手を振りほどくようにして逃亡。法音寺境内にあった民家で、尾久変電所を襲撃した大貫某と合流したが、不審者を乗せたというタクシー運転手の通報により、翌16日に逮捕。

犬養毅首相が撃たれたというニュースで大騒動になっていた。この事件の立案者は古賀と中村であったが、憲兵司令官からは

「国士として扱え」

という命令があり、古賀・中村ともに死刑を覚悟していたが、実際には英雄扱いを受けたという。(闇が深い。)

この五・一五事件の黒幕は誰なのかという問題が生じる。権藤成卿は逮捕されたが後に関係なしとして無罪放免となる。満州へと飛んだ愛郷塾の塾頭・橘孝三郎という名前が黒幕として浮上する。茨城県では県の要請で講演などもしていた人物であり、茨城県の農民の間では「聖者」とさえ呼ばれている人物が黒幕であったという衝撃が走る。

既に満州に渡っていた孝三郎は、実は農民決死隊の黒幕である事がバレていたが、特務機関や満州国政府によって匿われたという。こちらも英雄扱いであった。犬養の暗殺、それにも関係していると正直に、打ち明けたが、匿われ、7月30日、憲兵隊から警視庁に身柄が引き渡されるという形で逮捕となった。

ussyassya at 01:00│Comments(0)歴史関連 

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