2019年08月10日

この世は闇よ

今朝ほど、フジテレビの「とくだね!」が報じたコンビニの対応が悪いと告発するような内容がありましたが、何やら、ざらざらとする感触の内容でした。まぁ、確かにコンビニ側の対応は有り得ないだろうと思う。しかし、ああまで問題がこじれるという状況も、また有り得ないんじゃないのかなぁ…というのは私の抱いた感慨でした。詳しい情報が分からないから、裁定できるものでもないのですが、客商売であるとか接客というのは、折れないでもいいような事でも折れたり、基本的には平身低頭に対応してトラブルを回避したり、その収拾とするものであろうと思う。なので、客相手に乱暴な言葉遣いをする事は基本的にいはしない。これは、基本的には、同じなんじゃないのかなぁ…。ただ、年々、お客様意識を増幅させるような消費者至上主義が蔓延してしまっているので、もう、何が何だか…。

なので、既に実際問題としては接客業などでは、本心では謝罪する必要性はないと考えながらも、業務上の立場を考慮して謝罪するという事は、もう日常的になってしまっているように思う。クリーニング店のクレーム対応は大変だとか、色々、巷間、言われていますが、基本、申告されてしまったクレームに対して、「なに、その申出の根拠はあるのか?」という具合の詮索はしませんね。業務、仕事では、そういう対応で一向に構わない訳ですが、道徳的な問題とか教育的な問題にした場合、「ホントは謝罪する必要性もないのに謝罪するのは、おかしいのではないか?」という問題が生じてしまう。この問題が、ずーっと「お客様は神様です」的な世論に圧されて、見えて来なかった問題のように思う。まぁ、稀に横柄な店員とか店主もあるのだけれども、基本的に嫌われ者やトラブルメーカーは浄化されるか自滅するか、勝手に淘汰圧が掛かる。

道徳的、教育的に問題があるというのは、世の中の風潮としてゴネ得を許し易くなってしまっている事、また、ゴネ得を経験した人が味を占めて、更に増長して過剰なクレーマー気質になり易い事ではないのかなって考えている。

近5年ぐらいでしょうか、おそらくはSNSの発達によって理不尽なクレーマーへの不満をSNS上にアップされるケースなども増え、いわゆるモンスタークレーマーの問題が社会の共通の問題として一般化され、社会問題化してきたと思う。これについては、内心、歓迎しているのかな、私は。それ以前の段階というのがあって、「お客様は神様です」を伝家の宝刀のようにして使用する人が多かった事、また、それは元より、過剰になり易い性質を帯びていたと思うのですが、商業サービスに囲まれて育つ中で、自己尊大、自己肥大化、そういうものもあったと思う。「自分は客なのだから、これこれこのように扱われて然るべき」という権利意識、その権利意識の増長があるよな、と。

そら、不愉快な思いをする事はあるでしょう。飲食店で注文したのに、いつになっても注文が来ない、忘れていやがんな的な状況とか、あるよ、ある。しかし、そういうヒューマンエラーって一定の確率で、起こるものだよねという認識が相互に在れば、そんなに気にもならない。「あれ? さっき注文したんですけど」と言えば、おおよそは、まともな対応をしてもらえる。私が客であったとして、客の分際で、その対応に指図なんてしない。何故なら、それは客の分際であるから。その会社や、その店の経営に客である私が「これこれこうであるべきだ」と指図するのは、或る種の越権行為であり、その対処は基本的には先方に任せる。しかも、大体、それで応分以上の対応をしてもらえているよなって思う。慰謝料だの迷惑料といった概念はない。最低限度の金銭的補償が為されていれば、それで充分であると思う。それを、昨今ともなると、押し付けに行くようになってしまった。

吉本興業の例などもそうでしたが、越権行為が凄いんですね。「これこれこういう経営であるべきだ」という風に押し付けに行く。しかし、仮に正解を知っていたとしても、そんなの教えてやる必要性もない。教えてやろうだなんて態度そのものが烏滸がましい。それで問題が解決せず、不満が残るなら抗議的な言辞の一つも吐くかも知れませんが、まぁ、殊更、事を荒立てるのも無益なので、付き合いを制限するなどして対処する。もう、付き合わないと決めたら、嫌味を吐く必要性さえなく、嫌味を吐く事自体が無益でもある。教育者じゃないんだから出しゃばるまでもない。

で、実際、どうなんでしょ。私自身も自信を失ってきましたが、実際問題として相手のミスとか瑕疵とか、そういうものを受けて、謝罪されるような場合、もう、謝罪をされるのも心痛だなって感じることがある。「申し訳ないです」という気持ちが分かっているから、「申し訳ありません」とか「すみません」という謝罪を聞くのも辛いんですね。力んで、「申し訳ございませんでしたっ!」のように謝罪されても、案外、気恥ずかしいものだと思う。だって、いつかは私にしたって、故意の犯罪のようなものは起こさずとも、意図せぬ過失によって迷惑を掛けてしまう事は有り得る。そういう関係性というのが、相互で成り立っているのだから、厳しく断罪したりするのは本意ではないんですね。

厳しく断罪しないが、厳しく断罪された経験というのはある。あるけど、そーゆー時は相手次第ですかねぇ。そーゆー種類の人間ってのも、居るよな、と。人として、人格的なものが残念ながら規格外で下劣な人というのは実在する。これは仕方がない。下には下があるもので、下を見てしようがない。仮に謝罪されて気が休まるような状況があっても、土下座を要求したり、真摯な態度は要求しないかな。謝罪は要求したり、請求する性質のものではない。それを要求する人は、相手を膝まづ課せる事にちっぽけな快楽をみようとしている人な訳でしょ? 「謝罪させてるオレ、偉いでしょ」、と。まぁ、品性下劣なような気がするけどね。

それを痛感しているのが、現在、ブログで触れている「橘孝三郎」あたりですかねぇ。平たくいえば人格者なのかな。自身は謙遜して「臆病だから」と語るものの、そこに或る種の高潔さが付き纏っている。妙に「橘先生」という具合に慕われてしまうキャラクターなのだ。実際にインタビューをしたという保阪正康さんにしても橘孝三郎(先生)には畏怖の念を感じていたのがホントであったという。しかも右翼系の老人にありがちな威厳によって畏怖の念をおぼえさせられるのではなく、敬われて然るべき人なのに威張ることもないという態度によって畏怖の念をおぼえたという。これが真髄でしょうねぇ。対等ではないのは明らかなのに対等に応じられてしまうと、恐縮するものですからね。トルストイだの、ガンジーだのという、その右翼老人は、尋常ではない空気を発していた可能性があると思う。畏怖されるべくして畏怖され、尊敬されるべくして尊敬される人というのも、きっと実在するのでしょう。

その「橘孝三郎」がトルストイの影響を受けていたという。とてもとてもトルストイなんて私には読めそうもないので、お手軽な所でテレビドラマ「戦争と平和」を視聴してみたのでした。ああ、なるほどな、と感じた部分もありましたかねぇ。終盤に、主人公ピエールは捕虜になり、捕虜仲間の言葉に感心する。「犬は人間よりも賢いのだよ。人間は戦争するが犬は戦争なんてしない」に始まり、「そんな風に一口でジャガイモを食べるのはよくない。もっと少しづつ、味わって食べるべきだ」という。その老捕虜は、塩を一つまみして、親指大のジャガイモに振り掛け、それを、ゆっくりと口に入れて味わって食べるべきだ、それによって自然の恵みを味わえるのだという。ホントはピエールは伯爵の地位を有する貴族で、戦争が終わった後に、再びジャガイモが食卓に出て来るが、老捕虜の言葉を思い出して、小さく千切って塩をまぶし、口に含むようにして食べるというシーンがありましたが、このテの話って、私に言わせるとエピキュリアンというよりも、そのまんま「老子」の世界なんですね。そのまんまだよなって感じました。そして権藤成卿や橘孝三郎が考えた農本主義の根底も似ている。自然と共生する事の、その幸福論である。「神即自然」に当て嵌めれば、そのまんまスピノザの世界でもある。

実は「映像の世紀」にしても「山田太一」にしても或る種の道徳観があったと思う。文明批判もしくは現代批判である訳ですが「映像の世紀」の方は、1920年代を描いた際、資本主義がもたらせた享楽主義に警鐘を鳴らすような当時のジャーナリストらの言葉が並べられている。1920年代、ラジオが普及し、ニューヨーカーたちはラジオから流れてくる有り得ない音楽で、有り得ないダンスを踊ったという。チャールストン。そして人目をはばかることなく、大胆になってゆく女性のライフスタイルに、その先輩世代の女性が苦言を呈している。これはいつも一緒かな。資本主義経済は消費者をターゲットにするのだけれども、標的になる層は消費者である。そんなミーハーなノリでいいのかしら的な葛藤は時代を超えてあったよう。1920年代から基本的には「セックス・アンド・ザ・シティ」だったっぽい。

そして物質的な豊かさは思いの外、早く実現されたが、既に1920年代の時点で「もう、今、以上の希望は見つからない」等と言われていたという。1960年代でもヒッピーが描かれていましたが、どこか似ている。若者は大胆になり、享楽主義に溺れようとする。既存の何かを破壊する。同時に、「これで大丈夫なのか?」という不安が台頭する。

山田太一のドラマに触れると長くなってしまうので割愛しますが、まぁ、山田太一の場合、父性由来の現代批判がドラマに込められている。「ふぞろいの林檎たち」で、室田日出夫演じる工場の先輩が新入社員の中井貴一に対して「今の若い人は、そんな甘い事でいいと思っているの?」という具合に、やたらと嫌味な詰問をしてくる重たい展開があったような記憶がありますが、どうであっただろう? 昨今のように中高年の大人が妙な若者礼賛ばかりをするのはおかしいのではないか、それこそ、若者の思うようにさせてしまったなら、おそらくは節度のようなものはどんどん破壊されてしまうのではないか? 山田太一のドラマは、どこか父権的な伝統的価値観の、つまり、享楽主義的風潮や付和雷同を戒めようとする言説がバランスよく込められている気がする。

既に体罰は違法とする事が決まり、民法上の懲罰権についても既に「懲罰権」という言葉を使用しない方向性だけは決定しているという。つまり、今後も叱らない子育てを継続していくという事のよう。しかし、ホントは多くの現代人が単に「無責任になっただけ」という可能性はないんだろうか。享楽主義には歯止めは利かず、どんどん利己主義的な権利意識ばかりが肥大化し、結果、クレームが社会に充満し、お望み通りの訴訟社会を日本に誕生させる未来を予見できてしまう気がする。

神を殺し、道徳を殺し、自然を殺し、ゴシップ情報とアニメとゲーム、いや【eスポーツ】って呼ぶようにするのか、こういう世界が無限に拡大し、今後も経済成長していけると思いながら、現代人は生きている訳でしょう? 将来的には希望が云々どころか、この世界そのものを存続させる事さえ、厳しくなっていくんじゃないのかな。

汗して働く者よりも、理屈を捏ねたり、享楽に耽る者の方が偉いかのような、そういう社会が実現してしまった。自然の恵みを食し、自然の摂理の中で生かされているにもかかわらず、自然とは無縁の都市生活の追求ばかりが持て囃されている。

既に、この連日連夜の暑さ、世界的な異常気象なんてのは滅亡の序章が始まっているんじゃないのって気さえする。神は存在しないのだろうけど、概念上の神は存在しており、これほどまでに自然を奇形化させてしまった現代人に対して、怒りを感じていない筈はないんじゃないの?

♪ 義理がすたれば、この世は闇だ

とは村田英雄の「人生劇場」の歌詞ですが、ここのところ、よく耳にしている。私が古いテレビドラマばかりを視聴しているからなのですが、ショーケンの「傷だらけの天使」で耳にし、渡哲也の「浮浪雲」で耳にし、北大路欣也の「三匹のおっさん」で耳にし、まぁ、或る時期まで、そう考えられていたんでしょうねぇ。

そして鶴田浩二は「傷だらけの人生」で、こう歌った。

♪ 何から何まで真っ暗闇よ 筋の通らぬ事ばかり
 右を向いても左を見ても、バカのアホウの絡み合い

これを否定できないよなぁ。

ussyassya at 00:31│Comments(2)辛口評論 

この記事へのコメント

1. Posted by rakitarou   2019年08月10日 07:05
モンスター的対応

責任を持って接客している労働者にモンスター的対応を取る人には二通りあるように思います。一つは別の場面では自分も仕事上接客する段階で理不尽な謝罪を強いられたりする経験があって、ある種意趣返し的な反応から無理強いしてしまう人。でもこの手の人は限界というものがあって、ある程度クレーム付けると相手の立場も解って引いてくれます。
もう一つは自分では理不尽な謝罪などした事もなく、社会において責任ある立場に立った事もなく、常に自分が王様の状態で「クレームして当たり前」と勘違いしている人。これは引き際などなく際限なく理不尽を通してしまう可能性があります。反社会性があると断言しても良い様な奴らです。このような連中には事業者側も法的な処置を含めた断固たる対応で良いと私は思います。
2. Posted by メロンぱんち   2019年08月10日 14:06
rakitarouさん>
クレームをつける事が常態化してしまっていそうなんですよね。今回、ワイドショウが取り上げたケース、確かにオーナー側の態度は有り得ない一方で、法的に争うことなど辞さないという態度になっているので、ここまで揉めてしまう事が有り得るのか…と。

アメリカの訴訟社会を、間違いなく十年前には嘲り笑いできましたが、徐々に近づいていっているのかも知れませんね。確かに、どこかで抵抗するという人たちが出てくる事になりそうなんですよね。

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