2019年08月13日

日本の保守思想及び右翼思想

ごくごく私的な部分では、最後の最後に橘孝三郎の農本思想を読み取ろうという試みをしたのでしたが、自分なりには「最後の謎が解けた」という感慨を抱きました。本編とした「農村青年が何故、決起したのか?」というアプローチでは蛇足になってしまうので、触れ切れなかったのですが、最後まで残してしまった橘孝三郎を洗ってみた事で、基本的な事柄に気付くことになりました。

先ず、藩閥政治の問題でしょうか…。明治維新を経て文明開化を遂げたというのが、私が学校で教えられた日本史であった。しかし、よくよく考えてみると、明治維新は前の、つまり、江戸時代の日本は文明国ではなかったのかという問題になってしまう。それどころか歴史学の時代区分としては、江戸時代は「近世」に分類されるという問題がある。「文明が開花した」という言い回しは限りなく「西洋化した」というニュアンスではないのか。

まぁ、それは本旨ではありませんで、つまり、徳川が倒されて藩閥政治になって、その後の日本はどうであったのかという部分ですね。確かに大正デモクラシーがあり、普通選挙も行なわれるようになった。しかし、明治維新以降の、大日本帝国の統治体制の実際は何であったかと考えると、やはり、長州閥、薩摩閥の問題に触れないのは不自然になってしまう。

保阪正康著『五・一五事件』(ちくま文庫)の中で【元老】(げんろう)についての記述がありました。元老とは超憲法的な存在として内閣の目付役を果たした重鎮の意であるという。これは、中々の盲点で辞書や辞典類では「元老とは天皇を補佐する元勲」のように解説されていたのですが、それだけでは不十分な説明であり、実際には「超憲法的な存在」が元老であったと考えた方が正しいのかも知れない。そして、その超憲法的な存在であった「元老」は西暦で言えば、1889年から1940年までの間に9名が存在していたという。名前を挙げれば伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、西郷従道、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望まで。この9名のうち、西園寺だけが公家出身であるが残りの8名の元老は、旧薩摩藩、長州藩、つまり、薩長いずれかの出身である。最後の元老が公家出身の西園寺であるという事を考慮すると、明治維新として語り継がれてきた政変劇の内情を推し測ることができる。

明治維新とは、文明国ではなかった日本に文明開化をもたらせた歴史的出来事なのではなく、ただただ、ヘゲモニー争いとして徳川体制を薩長が打倒し、新たな統治体制に移行した出来頃であったという、そちらの側面の方が政治問題としては大きかったのではないか。当たり前といえば当たり前でもある訳ですが、この部分、我々、日本人は見落としやすいよな、と。ここで保阪さんが「超憲法的な存在だ」と元老を説明してくれている事が、中々、重要ですかね。

「攘夷」を掲げていたものが、いつの間にか「尊皇」という思想に変節していくのですが、それは日本というものを、とことん突き詰めて尊皇に行き着いたのではなく、徳川の「葵の御紋」に対抗しうる旗印は何かという戦術的施策の中で方便として用いたのが「菊紋」であり、つまり、天皇であったというだけではないのか。つまり、天皇親政の世をつくりたくてつくりたくて仕方がないという尊皇思想ではなく、まさしく「勝てば官軍」の論理で、謂わば天皇親政を担ぐ為の、尊皇思想であったと考えると、諸々の辻褄が合う。総じて右翼思想とは理念が薄弱で、どこか付け焼刃的だと感じるのは、その思想としての地歩がしっかりしていないからで、それが明確に掲げられているのは権藤成卿と橘孝三郎の農本主義しかないと言われる所以である。

権藤、橘の農本思想は天皇を農業の王に見立てている。農業もしくは稲作を国是としている。なので尊皇思想に無理がないのですが、「文明開化」と展開させておいて尊皇思想というのは無理がある。これが後に立憲主義との兼ね合いで天皇機関説の是非論が起こったが、当時の日本では天皇機関説を斥け、神格としての天皇を頂く「神の国」として戦争期を迎えてしまった訳ですね。そんなのは無理があるのではないかと疑義が出てもいいのに、それを圧殺できてしまった。天皇制の天皇というのは翻訳しようがないので「エンペラー裕仁」等と翻訳されているものの、日本の天皇は単なる皇帝とは明らかに異なり、宗教的権威をも兼ね備えた現人神であったという部分は、確かに翻訳しようがないのかも知れませんやね。

攘夷、つまり、外敵からの脅威に晒された際、日本に限らず、例外なく外敵を駆逐せよという保守思想が芽生える。この保守思想は、自分たちの郷土を守る意識、或いは縄張りを守ろうとする意識であるから、必然的に攘夷思想となる。

ここから尊皇思想が生まれる。「日本人を一つにまとめ上げられる象徴として最適なものは何か?」と考えたときに、非常に都合がいいのが天皇及び天皇制であった。その権威を倒幕派は政治的に利用しただけではないのか。尊皇、尊皇というが、尊皇思想や勤皇思想が江戸時代などを通じて一貫して高かったとは思えないのが歴史の真実である。この尊皇思想の問題を、見事にクリアしているが権藤成卿であり、社稷(しゃしょく)による生活様式が日本の伝統であった、それは天皇親政を前提としており、しかも農業の王、祀り上げる社稷、その頂点を天皇に比定しているのだから本物の右翼思想らしいものは権藤成卿しかないじゃないかとも評されるし、評せてしまう。同時に、このことは薩長が倒幕に向けて動き出したのは必ずしも天皇親政の世にする為ではなかったであろうと推測できてしまう事でも、二重チェックが可能でしょう。つまり、権藤成卿は天智天皇による乙巳の乱(蘇我氏の排除)を肯定し、その天皇親政を復活させるべく農本主義を唱えていたが、そういう思想背景を、いわゆる薩長軍が有していたとは考えにくい。

「日本の夜明けの為に徳川を倒したんだぜよ」とは言えるかも知れませんが、そうであるにしても、尊皇思想は、取って付けたような方便であった事を証明する事になる。実際に明治維新で起こった事は政変であり、徳川を倒した後、その権力を掌握したのが薩長であるのは事実である訳ですね。しかも、8代にも亘って「元老」を薩長で占めている。おそらく、この犖杵鍬瓩箸蓮天皇を補佐しながら内閣の御目付役をする何かであり、超法規的・超憲法的な何かであった可能性が高い。国民一般に対しては、国家元首としての天皇という像を見せながら、その内実は、天皇が独裁専制を布ける訳もなく、天皇制の実際とは、「君側の奸」とは言わずとも「君側の何か」の意向で操れるものであったという事ではないのか。元老が天皇に奏上し、その上で物事が決定するという制度であった。最後の元老である西園寺公望は公家出身なので、薩長の意向をさほど受けないで済んだ可能性があるが、西園寺以前の8名の元老たちが、薩長閥を優遇する事などなかったと考えるのは、非現実的でしょう。実際には、想像以上に薩長の権力的専横に不満を掲げた人々もあった筈だし、薩摩と長州との間でさえ、水面下では軋轢があったと考えられる。

例えば、昭和天皇の御成婚を巡る騒動というのがあった。昭和天皇が摂政宮であった頃、その妃の選定を巡って「宮中某重大事件」なるものがあった。日本右翼史の中には、これがあったのだ。

久邇宮良子(くにのみや・ながこ)女王が摂政宮の御妃候補となり、宮内省が発表。その発表の後に「良子女王の生家の島津家には色盲の遺伝があるが…」という上申書が宮内省に寄せられ、実際に長州出身の元老の山県有朋が久邇宮家に婚約の辞退を求めたというものであった。問題は簡単、シンプルである。山県有朋は摂政宮の事を憂慮したり、皇族方の将来を危惧して、そういう行動をとったのではなく、薩摩の島津家の出身者が将来の天皇になる摂政宮の后になる事に、難癖をつけたと考えれば、これほど明白な推理はない。つまり、真摯に皇室の行く末を心配して「島津家には色盲の者がいる。それを皇室に入れるべきではない」と言っているのではなく、自分たち長州閥の影響力が薩摩閥に傾かないように難癖をつけた騒動が、宮中某重大事件の真相なのだ。

ただただ、君則の何々と呼ばれる人たちは、ヘゲモニー争いをしていた可能性が高い。「政治=闘争」であり「政治闘争=ヘゲモニー争い」というのは今も昔も変わらないって事なのでしょうから、実は説得力がある。その不可解な動きを知って、動き出したのが、当時の右翼であり、最初に薩摩出身の床次竹次郎、同じく薩摩出身の松方正義が山県有朋への批判を開始する。これは当たり前ですね。薩摩出身者たちだ。しかし、後に続いて頭山満、北一輝らの右翼主義者も山県有朋を攻撃する。島津家に色盲の遺伝子があるなどというのは言いがかりだし、そもそも人道に反するような看過できぬ物言いである、と。

この騒動とて、教科書として語られる場合は、色盲の問題を人倫の問題として語ることになるが、ホントは、そんな中身はなく、ただただ、長州閥と薩摩閥とが争っていただけという見方が成立する。また、この時期の右翼は目敏く、それに気付いていた。因みに頭山満は福岡出身であり、北一輝は佐渡ヶ島の出身。

「北一輝」の登場は、おそらくはホントに革新的なものであった。猶存社を起ち上げるに当たって大川周明が北一輝を迎えに行って日本に連れて来たものの、もう、北一輝になると具体的に国家改造計画という名前の革命思想の持ち主であったから、かなり具体的に国家改造計画をつくってしまっていた。或る意味、「魔王」というのは大袈裟な表現ではなく、三年間ほど時限を設けて憲法を停止させ、国家を改造してしまうというアイデア、「日本改造法案大綱」を書き上げた為、昭和維新運動に拍車が掛かかり、青年将校らが具体的に動くようになってしまう。また、24歳時には「国体論及び純正社会主義」を書いて周囲を驚愕させており、天皇を中心とした純正の社会主義国家の建設を掲げてしまっていたのだ。しかも、天皇というのは実際には「籠の鳥であろう」という事まで見破った上で。

北一輝は軍人や青年将校らの黒幕となった。北一輝の場合は大衆らしい大衆層を相手にするというよりも都市部で一定以上の教育を受けた者に対して影響力が強かったものと推測できる。それに対して、農村はというと事情が違う。貧しいから学校へ行けないという者も多いので教育水準だって高くはない。小学校の教師などは農村では充分にインテリである。実状としては農業を学ぶ為に学校で勉強した者はリスクが高く、貧しさき苦しむ事になる農家になることはなく、公的機関などで農業指導者になっていたのが実情であったという。だから、敢えて「農業が国の基本産業である」と訴える農本主義は愛郷主義もしくは愛国主義なのだ。北一輝や西田税が或る意味では、実務的な右翼主義者であったのに対して、法華宗の僧侶の顔を持っていた井上日召、水戸出身の農本主義の橘孝三郎の茨城勢は、水戸学としての尊皇思想が影響しており、両者の間では純粋な尊皇なのか否かの部分では壁があったであろうと想定できる。

水戸学は江戸時代の水戸光圀の編纂した大日本史に始まるという解説が多いが、地域的な部分を考慮すると、14世紀の南北朝時代、常陸国には後醍醐天皇に近い尊皇派として北畠親房が赴き、常陸国小田城を拠点としながら著した「神皇正統記」もある。更には鹿島神宮や香取神宮が古くからある土地柄を考慮すると、神話の時代から尊皇があり、更に谷川健一的な民俗学的少し想像を逞しくすれば、この国名の「ひたち」、「常陸」、「日立」というのは、すなわち「日高見の国」であろう事にも想像が及んでしまう。

そして、最後に前掲著の著者たる保阪正康さんが丹念に橘孝三郎を考察し、ドイツ観念論、ロバート・オーウェン、トルストイにも精通しながら、白樺派とは異なる流派としての農本主義が橘孝三郎の思想の起訴になっていた事を明かしている。武者小路実篤ら白樺派のそれと似ているが、白樺と交流があったものではないの意で、飽くまで一人の人物が農村の疲弊の中で農業共同体をベースにした理想郷としての国家像に行き着いたのが、愛郷塾的な愛郷主義の根幹であったと明かしている。

気付いてしまった部分というのは、しばしば「保守思想及び右翼思想」というのは、中身はカラッポであるというものでした。実際に今日的状況では左翼、右翼という具合の色分けが日常的に為されているものの、その分類は不完全であり、起源にしてもフランス議会の左派と右派、左翼ではない者は右翼であるという根幹から発している。

その奥の話として、いわゆる西洋型の左翼思想とは社会主義思想であったり、マルクス主義を表している。それと、そうではない主義・主張との差異は何かというと、マルクス主義が唯物的に構成された理論に依拠する体裁で形成された思想体系であるのに対して、右翼思想(保守思想)というのは自然観念的であり、唯物的ではない。唯物的ではないという部分に、「情」とか「霊」とか「魂」などの未分化な要素が入り組んでいる訳ですが、それが思想として洗練されてゆくと、「義」のような倫理的規範が介在している。【義】と言ってしまうと、もう、この時点で東洋的、儒教的な社会規範に依拠した何かという事になってしまいますが、言ってしまえば、それは道徳・倫理による共同体統治思想であったような気がする。ファシズムを含めてになりますが、「論理的・合理的にこうなのである」という具合に展開される唯物的合理主義に抗おうとすれば、「伝統的・倫理的にはこうである」という風に霊性・人間性を用いて対抗するしかない訳ですね。

論理を重んじた系統からマルクス主義が、教養を重んじた系統から民主主義が、そして倫理を伝統的な価値基準として重んじた系統から右派(ファシズムを含む)が生まれていたように思えてくる。その中で、激しく対立したのが表層的に表れた左翼と呼ばれる思想と右翼と呼ばれる思想とになったのではないかな――と。

ussyassya at 01:30│Comments(4)政治史など | 世迷い言

この記事へのコメント

1. Posted by rakitarou   2019年08月13日 18:50
論理のない右翼思想

面白い論考ですね。仰る様に幕府が大政奉還をした時に天皇や公家に統治能力などなかった。「じゃあ君たち(田舎侍に)できるの?」とタカを括っていた所で予想が外れて薩長に徳川は滅ぼされてしまった。でも薩長も統治能力などないから慌てて西洋から付け焼き刃で方法論だけ取り入れて薩長を中心にした官僚的中央集権制度を作った。天皇は神道だけど神道はもともと教義などないから天皇の権威だけ国民に慕わせて後は理屈付けは何でも良かったんですね。薩長も人材が払底しただろうから随分低劣な人間が上に立って統治したと思われますし、戦前までその反感は随分あったと思います。
2. Posted by メロンぱんち   2019年08月13日 22:02
rakitarouさん>
おそらく、大政奉還&藩閥政治の問題は想像以上に大きかったのではないでしょうか。摂政宮の后選びで薩長以外が介入できず、薩摩と長州とで争いがあったという事になりますし、当時は一気呵成に尊皇と言い出した筈なので付け焼刃的で、強引に「天皇の赤子」などと展開させてしまっているので、当然、天皇機関説の問題が起こる。どこかで立憲主義や議会制に舵を切る予定だったのかも知れませんが、どうも中途半端なままに明治以降の日本が歩んでしまったのは否めない感じですよね。
3. Posted by 江草乗   2019年08月15日 02:08
 大学で歴史を専攻していながらこの記事のような視点に立つことができなかった己の不明を恥ずかしく思います。そうして今回の記事を改めて読み返しています。

 我が国の政治家が「国家全体、国民全体の利益」というものを指向できず、結局自分たちの組織の利益とか、つまらない主導権争いとかでしか行動できず、太平洋戦争という大きな失敗を経て、それでも目が覚めずにいる遠因がこんなところにあったのだと考えれば、忸怩たる思いに至ります。
4. Posted by メロンぱんち   2019年08月15日 13:38
江草乗さん>
なんだか判明してしまった事柄からすると、そもそも「国民全体の利益」をきちんと理解できぬまま、一元的統治体制だけをつくってしまっていたという部分が見えてきてしまいますね。「統帥権を含む天皇大権」や「天皇を補佐し、首相を指名できる元老」というのは、曖昧さが最初から混じっていたが、混乱の中で(冷静に考えれば直ぐに矛盾に気付いても良さそうな)皇国史観が広まってしまい、グダグダになってしまっていたのが、見えてしまうんですよね。

昨夜、再放送でNHKスペシャル「戦争と遺骨」が放送されていました。どうも日本人というのは「善かれと思って」で動いている事柄は「今更、正直に認めたら大問題になるから黙っておこう」という非誠実な思考回路をホントに持ってしまっているのかも知れませんね。遺骨収集事業、かなりの部分で日本人じゃない遺骨を焼骨して日本に持ち帰ってきてしまっていますが、それが日本人の遺骨じゃなかった可能性が高いとなると、数十年にわたって二重に騙したことになるというのが、日本の官僚機構は理解できていないという事のようで。(アメリカやロシアから指摘されていたのに続けてきて、しかも非公表だったというのは…)

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