ここのところ、週刊誌が面白くない。週刊文春あたりにしても政治家の醜聞ネタ、ジャニーズの醜聞ネタ、皇室がらみネタ、嫌韓論争ネタ。週刊新潮と比較してどちらかを購入しているというスタイルなのですが週刊新潮も似ている。醜聞とハラスメントがどうのこうのというネタで埋め尽くされている。なので個のライターさんの連載の方が、まだ読物として成立しているよなぁ…という具合。

ホントは政治ネタ、芸能ネタにしても「ゴシップ」なんでしょうねぇ。しかも、もう、その手のゴシップに対してのオドロキがない。さすがに「あの酒井法子、のりピーが覚醒剤? ホントなの? そんな事ってあるの?」ぐらいのニュースバリューがあったと思うんですが、もう、ここ最近のゴシップはどうでもいいんじゃないのって感じてしまう。一昨日、昨日あたりの第四次安倍内閣の人事にしたって、結局は「小泉進次郎」という一人の政治家にフォーカスされていってしまうんですね。

前回に引き続き、文春図書館から、つまり、書評を元ネタにして、その感慨を…。題材となっているのは批評家・綿野恵太さんの著書『「差別はいけない」とみんないうけれど。』が取り上げられている。

着色文字は引用です。

杉田水脈の文章に対しては、LGBT以外の人々も批判の声を上げた。それは「シチズンシップ」の論理に基づいていたと綿野さんは指摘する。自分たちが生きる社会が大切にしてる「差別はいけない」という原則が踏みにじられたことを「市民」としての尊厳を傷つけられたことだと受け止め、批判する論理だ。

「九〇年代ぐらいまでは、差別された当事者だけが反差別の声を上げられる、という「アイデンティティ」の論理が強かったので、当事者以外の人は差別に反対であっても、声を上げづらいところがありました。だから、差別を批判するときには、「少数者」である当事者は力を持たないので、彼らに代わって発言するのだ、というロジックを組み立てていました。しかし、杉田批判は「シチズンシップ」の論理に立って展開されていたので、そのような屈託はほとんどみられませんでした。


ん? そうなのか? カタカナ語が気になりますが、市民意識らしいものが妙に高まって、やたらと正義を振りかざす人が増えたようには感じている。確かに、ゲマインシャフトだのなんだのって社会学の理屈でいくと、そういう事か。

かつては「少数者」や「弱者」が依拠していた「アイデンティティ」の論理は今や日本の在特会や移民排斥を唱えるトランプ支持者を支えている、という指摘に目を啓かされる。

「市場原理や資本の論理とシチズンシップの論理は親和性が高いのでシチズンシップの論理は今後も社会に広がっていくでしょう。でも、その論理の前提となる「市民」は成立しうるのか、という疑問を私は抱いています。トランプ支持者のように経済的な格差などによって、自分たちが「市民」であると実感できない人々もいますし、認知科学は、教育を受け、情報を与えられれば、人間は合理的に判断し、自律した個人として主体的に振る舞う「市民」たりうるという前提を打ち崩しつつあります。万人に高圧的に「市民」になれ、というのでも、システムの設計によって、万人を有無を言わさず「市民」として行動させるのでもない道を考えられるのではないかと思っています」


ああ、私も、強く、そう思う。市民、市民と、のぼせてんじゃねーよぐらいの事を腹の底では思っている。税制を、年金を、社会保障政策を吟味してみろって思う。市民か市民の末端に属しているつもりの連中が、いいようにダマされているよなってホンネでは考えている。

この数日、古代中国思想の話を展開させてきましたが、儒教的な教条による洗脳教育の気持ち悪さにうんざりしている。ここのところのGSOMIA問題噴出後の日韓問題でも「礼儀知らずだ」等の文言が浴びせられていましたが、礼節の前に最低限度の信義を果たしていないというのが酷い。形式的な礼節秩序に固執しているだけで、酷く低次元の感情論が平然と国際問題にされちゃってる。

引用した箇所とも共通するかも知れませんが、自称マイノリティーによる市民意識の過剰な高揚があるよなって思う。明らかに社会から欠けてしまったものは謙虚さであり、謙虚さの欠片もない自己主張の強い人たちが声高に主張して勝利してしまうという混沌にある。正義の大義を得ると、容赦なく他罰に走る。この綿野さんの物言いはオブラートに包まれているが、ホントは直球で分かる話であり、ともすると市民意識は簡単に正義として暴走してしまう。しかも、現在ともなるとアイデンティティの論理が、トランプ支持者を支えている。リベラルは、全ての人々は市民に成り得る、市民になって当たり前だと思考し、そこで市民意識と親和性の高い市場原理・資本主義原理を前面に出してくるが、トランプ支持者の中の怒り、憤激は「市民」なんていう階層ではなく、何某かの政策によって進退を追い込まれている人たちの怒りなのだ。それが不動産王であるトランプ支持でいいのかとはいうと怖さがあるが、社会を打っ壊す威力は絶大だ。もしかしたら自覚もないままに、既成社会の価値観を破壊してしまいたいという衝動がトランプ政権を支えているのではないだろか。

巧く使いワケが出来ないのですが、社会と世間とは異なる。社会とは一定の価値観に拘束される社会であるが、世間とか世間一般というものは社会とイコールではなく、最低限度の拘束力しか持っていない。これを強引に人為的な「これが正しい筈だ。みんな社会の構成員になるべきだ。ほんじゃ自己責任でよろしく」と言い出してしまっているのがリベラル思想が陥った陥穽であろうと思う。市場原理といいながら気付いてみたら、権力という権力、富という富は一極集中の方向性であり、それを批判されると今度は「分配します」という。しかし、そもそも何が価値を生み出して何が価値体系を支えているのか、そこら辺を考えるとねぇ。