2019年10月08日

面影社会

神戸市立東須磨小学校で発覚したという教師間のいじめ問題、まぁ、社会人が起こした事案であり、事案の中には「これだと暴行罪になるんじゃないの?」というものも含まれているので、呼称そのものにも苦慮するような事案だよなって思う。便宜上、「教師間のいじめ問題」とするけど…。

しかし、幾ら何でも精神的に幼すぎやしないだろか。加害側は40代の女性と30代の男性が3名。被害側は全員20代で4名。その内、動画などが出てきて現在、自宅療養中になっている男性教師のケースというのは単なる文言による説明だけではなく、実際の動画も確認できるまでになっている訳ですが、仮に、仮に悪ふざけの延長戦上に発生したものとして片付けるには、余りにも精神年齢が幼いんじゃないのかなという感想を持ちました。中学生や高校生などが先輩後輩という上下関係を当てがわれて、その優越的地位を利用して後輩に対してイタズラをするという構図はあり、時として、それがエスカレートし、いじめ事案、ハラスメント事案のようになる。やはり、どうしても体育会的な体質であったりすると、そうなり易いだろう等とは、そういう空気をまがりなりにも知っているから、そのように思うものの、これが40代や30代の教師の所業となると、「この人たちは、どういう社会常識の中で生きてきたんだろう?」となってしまう。

先輩が先輩ヅラして、

「おい、一年坊、悪ぃけどよォ、カドの騎西屋まで、ちょっくらダッシュで行ってきて、アイスを買ってきてくれよ」

という。続けて、

「そうだな。オレはクイッククエンチの棒アイスな。あと、適当に千円でみつくろって買ってきてくれ。オマエら一年坊の分も買って来いよ。釣銭は駄賃にとっとけや」

ぐらいの事は、どこにでもあったような気がする。もっと使い走りにする先輩もあったのでしょうけど、そもそもからして、ケチであればケチな先輩だという認識になるし、先輩風を吹かしてばかりいる先輩であれば「アイツ、先輩だけど嫌なヤツだよな」という認識にもなったと思う。これはツッパリ時代の感覚ですが、全員が全員、従順ではないからそうなる。仮に、そういう不平を言っていたことをチクるような同級生があれば、そーゆー裏切者は最低だとなる。或る意味では、一年坊同志では連帯感が維持できたのだ。

いつの頃よりか「いじめ」という問題が陰湿化したと言われるようになって、その単なる先輩による後輩への尊大な態度では済まされない、明らかな弱い者イジメ、まるで生贄の羊でも捧げるかのような、そういう陰湿さが語られるようになったように思う事がある。後輩を、ただただ従順なる下僕と理解し、また、タメドシの同輩にあっても先輩に媚びを売るような態度、同輩を庇うことなく抜け駆けするような風潮へとなった。いじめを目撃したとしても、それを注意したり、或いは庇ったりしたら、今度は、その者がターゲットにされてしまう的な、どこかアンダーグラウンド化したというか、陰険化したというか、そういうニュアンスですね。

しかし、これらも鹿川君事件などの頃には予感があったのかなぁ。つまり、「いい先生」と生徒に評価される先生が登場し、それが、なんだか教師像のようなもの崩れてしまったというか。そう、友達のような生徒から好かれる教師が優れた教師であるという認識がありましたよね。友達親子などにも繋がっているのだと思いますが、何か大事な場面、重要な場面で、頼れるような指導者像とか教師像ではなくなってしまったというか。

ここは難しいかも知れない。確かにテレビドラマ「熱中時代」がウケた時代であれば、熱心に生徒ひとりひとりと向き合う情熱的な先生が評価された。また、「金八先生」にしても、実例を参考にして厄介な中学校の教育現場の問題が生々しく描かれたものであったと思いますが、やはり、中核にすえられていたのは狆霰瓩任△辰燭茲Δ糞いする。ホントは教師だって人間であり、完璧ではないさという寛容さが世の中にあったし、金八先生に顕著ですが、おそらくは地域社会と学校とに一体感があった。職員室内の教師たちのみならず、乾物屋だか八百屋の娘が卒業生だったりして、そこの御主人やら大工の棟梁みたいな人までもを巻き込んで、「どうすることが、最も、いい対処方法なんだろうねぇ?」と、一緒に問題を共有できていたのだ。

実は視聴していないのですが、鶴見慎吾&杉田かおるコンビの「十五歳の母」はきちんと視聴していないのですが、凡その、あらましを知っている。何故なら当時、話題になったこともあって、色々なところで、その問題が取り上げられた為であったりする。様々な意見があって当然の問題であり、おそらくは正解らしい正解は無いであろう問題であったと思う。ただ、一つ、そのドラマが巧かったのは、問題を共有した事、最終的には視聴者をも巻き込んで問題を共有した事であり、つまりは、一体感があった時代の話なんですね。「うちの学校で起こったらどうする?」、「わが子に起こったらどうする?」、「自分の身の上で起こったらどうする?」といった具合に問題を共有する事となり、相応に共に悩んだりできる時代だったのだ。

この部分、今にして思えば、鶴見俊輔が言い放った

「協和的であること、それ以上、人間に何の理想がありますか?」

は至言だなと思う。

それは、協和的に貧乏の方が我々は幸せでいられた可能性を示唆しているんですね。格差とか階級があれば、正しい主張とて捻じ曲げられてしまい、日々、忖度だの、気遣いだの、そんなことばかりを押し付けられ、その挙げ句、報われることもない。上の方は上の方で、我が身の保身に躍起となり、問題を共有すべき等とは言い出せず、責任追及を怖れ、問題を捻りつぶしたり、隠蔽したりする。しかも、それがホントに機能的な組織なのかどうかも、昨今の混乱を眺めると難しい訳ですね。

確かに物質的な豊かさを実現し、これは大きな成果なのだけれども、皮肉な事にストレスだらけの社会をつくりだし、最近ともなると隠蔽、改竄、捏造なども恒常的に行なわれる統制型の社会になってしまった気がする。共感するものなんて、日々、減少し、他人の傷みを傷みと認知できず、ただただ、その場のノリが優先され、「空気読めよ」とか「空気の読めない奴=コミュ障」にされてしまうような社会に変質してきてしまったんじゃないのかなぁ…。

口には出さなくとも、いじめられる者は、そーゆーキャラじゃんって思っている人たちが大半で、だから、こういう事案が成立してしまう気がする。

激辛カレーを食べさせるなどして、そのリアクションを愉しんでいたと思われる訳ですが、もう、末期も末期、世も末って事だろうしなぁ。


ussyassya at 12:05│Comments(2)

この記事へのコメント

1. Posted by ねこあたま   2019年10月09日 07:30
下品すぎますよね
2. Posted by メロンぱんち   2019年10月09日 09:51
ねこあたまさん>
もしかしたらテレビの影響なのかという気もしました。嫌がっていても「お約束」としてリアクション芸を求めてしまう的なノリなんだろうなぁ…と。

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