2019年10月09日

表現の自由はどこまで可能か

あいちトリエンナーレなるイベントの中の「表現の不自由展」の騒動についてですが、なんだか膠着状態になってきている。おそらく、表現の自由っつったって限度があるだろうと考える。理念としての「表現の自由」も非常に重要なのですが、シャルリーエブド襲撃事件の頃にも展開した通りで風刺だから、表現の自由だから許されるとは言っても、露骨な表現をすれば挑発にしかならない。但し、当時の記憶もあって、私は少数派であり、世の風潮はというと「アイム・シャルリー」であり、飽くまで表現の自由が優先されるべきだというフランスの世俗主義を肯定的に評価し、シャルリー・エブド紙が、どれぐらいイスラム教徒を侮辱するようなカリカチュア(風刺画)を掲載したのかについては、テレビや大手紙といったマスメディアでは報じられなかったのでした。ホントは、或る時期から「いくら表現の自由だといっても、やり過ぎでは?」と感じさせる風刺画も多かったんですね。シャルリー・エブド紙ではなかったのかも知れませんが、そういう文化があるのは確かで、日本人の場合であれば、とあるサッカーのゴールキーパーが、放射能の影響で腕が6本とか8本という具合に描かれて問題視された事があった。

「アイム・シャルリー」という掛け声が、ただただ被害者に寄り添うという一心から形成され、共感共苦の意志表明であれば問題も小さいのですが、かの問題はイスラムによるテロを内包していた。つまり、テロリストを支持するのか、それともフランスの世俗主義的な自由主義思想を支持するのかという問題の二元化に成り得る問題であった。この単純二択化というべきか、単純二元化というのは、中々に厄介な問題であり、「勿論、あのような無差別テロには反対だが、そもそもからして言えば、テロを誘発するようなカリカチュアは慎むべきであった」という意見は、熱狂している人たちからは聞き入れられなくなってしまうんですね。何を説明しようとしてもムダである事が多い。頭の中が、二元化してしまっているのだ。

話し合いとか合議制とか議会制民主主義のようなものは、やはり、究極的には話し合いによってメリットを引き出そうというものであると思いますが、それが通じなくなってしまうのだ。

さて、不自由展問題ですが、先ず、最重要な話として狆なくとも公金(税金)を投じて開催する主旨のものではない瓩隼廚Α昨今、何をやるにしても社会事業だとか福祉事業だとかと言い出して助成金などを交付していますが、もう、そこからして間違いの元のような気がする。それだと、最初から自治体や政府が、表現の自由に介入し、或る種の御墨付きをしている問題になる。もし仮に、表現の自由で戦うのであれば、それは世俗社会の中の戦いであり、官公署のようなものは部外者になっているべき。世俗社会の問題は世俗社会が決定すればいい。表現の自由の問題に、官公署などを引っ張り出してしまうと、もう、その時点で、世俗的な価値観の戦いにはならない。

例えば、それがワイセツなのか、ワイセツじゃないのか、それを論じるべきは世俗社会に委ねられるのが好ましい。そうしないとズレが生じてしまうんですね。そんな服装いいのかよって話になって、それを審判すべきは、政府や政治家、有識者でもなく、いやいや、ファッションの事なんだから世俗社会の問題ですよって考えない事には、ややこしい事になるに決まっているのだ。茶髪や金髪、パーマネントといった頭髪を許容するか許容しないかは、実際に世俗社会が審判者になっており、誰かが独裁的に「それは認められん! 風紀を乱す頭髪である!」という具合に統治していくのは困難なんですね。それこそ、実際の世俗社会が奇妙キテレツなファッションを許容しているのに、我が校では、我が国では、という具合にルールで規制していくのは、大変といえば大変なのだ。ある日を境にして、国家が「オーラルセックスは重大な性モラル違反であるっ! 許しがたいふしだらな性行為の形なのである! よって、我が国では来年4月1日より、これを全面的に禁止する!」と言い出してオーラルセックス禁止令を出したら、「余計な御世話じゃ!」って感じるのが人間の感性というものでしょう?!

フランスの世俗主義も、世俗の価値観に従うというところからスタートして、表現の自由については絶対的に冒すべきではない権利として位置付けた。故に、過激な風刺画についても許容する事が原則になっていた。これが本来的な説明なのですが、おそらくテレビやネットで「アイム・シャルリー」だの、「アイム・ノット・アベ」だのと拡散していった、一連のムーブメントというのは群衆心理のノリという次元の何かであり、或る種のファッションでもあったと思いますが、そういう中に自分を置いている人たちというのは、自分たちだけが正しく、自分たち意外は酷く劣っている人たちであるという、奇妙な一体感、奇妙な優越感らしきものを抱いているから、いちいち、頭に来てしまう、そういう精神状態になってしまうのだ。

だから「テロは良くないよ。しかし、そもそもイスラム教徒を過剰にアジるような風刺画を無制限で認めていいと思うのかい?」という、そういう問題を考える機会を持たないんですね。次から次へと消費されるトピックスを、消費しているだけ。精緻に為された「評」と、一連の流行的言説との区別もつかなくなってしまう。これが群衆心理の怖さでもある。

「あれは芸術ですよ」と言われて「そうですね」と思う者が何パーセントぐらい在るだろう? 少なくとも芸術ではないだろうと考える。だから、勿論、公金を投入するなんてトンデモナイ。芸術か芸術じゃないか、自由か不自由かという論点であれば、先ず、100対0という完全決着は望めないと思いますが、公金を投入すべきか否かというテーマであれば、これは完全決着は可能で、100対0で雌雄をつけられると思う。

「表現の自由」を巡る問題の中で、優れた意見だなと思ったのは相互性原理を用している意見でした。仮に昭和天皇の肖像を燃やすパフォーマンスを芸術と評し、しかも公金を交付して展示する事が許される――つまり、「表現の自由」の大義の前には如何なるタブーも存在しないというのであれば、そのカウンターとしてヘイト系のアートも展示していい事になる。筒井康隆の破廉恥ツイートを流用し、仮に慰安婦像にスペルマをぶっかけているという具合の動画をつくり、「これも芸術だ、公金を交付して展示せよ」と言い出されたら、どうするのか? 表現の自由たりえるだろうか? これは相互性の原理の限り、これは有り得る問題提起であろうと思う。決定的にまで人心を踏みにじる表現というのは、明らかに問題がある。タブーは実在するのだ。

「表現の自由」という言葉を楯にして、ありとあらゆるタブーはない、なんでも許されるのだと言い出してしまった場合、そのようなカウンターに対しても却下する理由がなくなってしまうんですね。しかし、その事態を想像すれば如何に賢明な判断というものが実際に重要であるか分かる。

これは25年とか30年以上、言葉狩りとかポリコレで歩んできてしまった現代人からすると、中々、ピンと来ないかも知れない。不適切な言葉があれば、ゲーム感覚で

「はい、アウト―。謝罪して下さいねー。降格ですねー」

と、物凄く軽い問題にしてしまってきたんですね。しかし、勝新太郎の時代の「座頭市」などを視聴してみると、明らかに違う回路なんですね。確かにポリコレ目線で言えば、不適切な言葉が使用されているが、それが実際に、どのように用いられているかをみればいい。これは【用】の話であり、【作用】の話である。何かを不当に蔑もうという用で放送禁止用語が使用されているのではないんですね。

現在ともなると、パブロフの犬が如く「はい、アウト―」とジャッジするテレビ的な言説に感染してしまった人が比率的にも多くなってきてしまった可能性がありますが、その真意を読むとか、真意を諮るとか、そういう思考コードを持たなくなってきてしまっているんだろうなって思う。それでいて、彼等は自分たちこそがコミュニケーション能力が高いと自負しているのだから、物凄く抑圧的な言論環境になっているんじゃないだろか。

ussyassya at 11:57│Comments(8)世相・社会 

この記事へのコメント

1. Posted by イッシー   2019年10月09日 13:03
いつも更新を楽しみにしている、長らくの読者です。
はじめてコメントさせていただきます。

色んな社会通念がありますが、声の大きなものが何らかの意図のために、うまく利用してしまった場合、反論もめんどくさい状況になってしまいますね。

高尚な能書きがあったとしても、結局は自分たちの主張を通す道具だろというような感じで、息苦しい世の中に向かってますね。
2. Posted by rakitarou   2019年10月09日 13:19
「・・にとっての表現の不自由」

 イッシーさんが仰るように何らかの意図をもってこれらの機会を利用してるだけ、というのはその通りと思います。メロンパンチさんが言及された相互性理論というのは良い言い方です。
 この「不自由展」が現在の展示に加えて、韓国における親日とされる言動の不自由を訴える、世界におけるホロコースト否定の言論の不自由を訴える、といったポリコレなんてなくそうよ(リベラルを敵に回します)も同時に強く訴えていく内容であれば文化庁の補助金はなくなるでしょうが「真の表現の不自由展」として芸術の枠を超えた大きな意義を世界に訴えることができ、数多くの賞賛と批難をあびて注目される展覧会になっただろうと思います。
現状の展示内容「くだらねえ!」の一言に尽きます。
3. Posted by メロンぱんち   2019年10月09日 15:55
イッシーさん>
コメント有難うございます。寛大な目にお付き合い下さいまして有難うございます。

そうなんですよねぇ。この問題も「表現の自由の問題です」と扱わされてしまえば、ややこしい事にされてしまうんですが、ごくごく当たり前に我々が生活していた慣習上のモラルからすると、「なんだ、そりゃ」ってレベルなんですけどねぇ。ただ、世の中全体が、こうなっているというか…。
4. Posted by メロンぱんち   2019年10月09日 16:00
rakitarouさん>
シャルリーエブド騒動の頃にも、似たようなニュアンスがありましたが、そもそも明らかに何かを侮蔑するような表現がいいのかって底では語られていた話だった気もするんですよね。やはり、明らかに冒涜されたくない人や集団が存在していて、なのに表現の自由だとか芸術だと言い出してしまうと、紛糾するに決まっていますし…。

やられて嫌な事は、相手にもしないという事で、これほど大紛糾するような事案じゃない気もしますよね。
5. Posted by イッシー   2019年10月10日 12:32
皆様のおっしゃる通り、本来は、まさに相互性や協和的といった社会の核となるようなものの中に存在するはずの、「・・・の自由」「・・・の権利」のはずなんですが。
なぜか、それらが過度にフォーカスされすぎてますよね。

究極的には、自分だけなら自由という概念は無く、対象あっての自由が定義されるはずですから。

6. Posted by メロンぱんち   2019年10月10日 14:53
イッシ―さん>
「…の自由」とか「…の権利」の問題、中々、語られないものの、仲間内の会話などでは確信的に理解されていたりしますよね。幾らなんでもという状況、増えましたよね。混乱の素も、そこら辺にありそうなんですけどねえ。。。
7. Posted by 江草乗   2019年10月11日 21:19
表現の自由といえば
なんでも許されるのでしょうかね、
ヘイトスピーチやナチスのコスプレも
表現の自由ということになりますよ


靖国神社に放火したり
日本大使館にテロを行うことを
英雄視するような国とは
まともに付き合えないというのが
私の正直な心情です。

少なくとも韓国の政治家は
そういう反日行動を戒める発言をしてほしかった。
実際は、政治家の方が反日で人気取りを
しようとしているわけですし。
8. Posted by メロンぱんち   2019年10月11日 22:36
江草乗さん>
「ヘイトスピーチやナチスのコスプレも」というのが、今回、向かうべきものだったような気がします。ヘイトスピーチを否定するのであれば、同じように日本に対しての侮辱的な表現も否定すべきとして、初めて均衡が取れるじゃないかとなりますもんね。

なんだか世界中で、「これは発狂しているんじゃないのか?」というぐらいヘンテコな事が起こるようになりましたね。。。

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