2019年10月24日
絶望的乖離の話
昨今、メディアで「暴走老人」というフレーズを耳目にすると、どこかゲンナリとした気分になる。比較的早い時期に【暴走老人】というワードに気付いていたつもりなんですが、昨今の取り上げ方というのは、もう色々な思惑に塗れてしまっており、しかも分断にエネルギーを割く方向性のものばかりなんですよね…。
週刊新潮誌の特集で男女逆差別問題が取り上げられた事があって、世の男性が内心では不快に感じている事についても書かれていて、その第一位が「女性専用車両」についてでした。まぁ、これは何となく分かる。おっとっと、この車両、乗っちゃいけないのか…という経験は、年に5〜6回しか電車に乗らない生活をしている私にしても経験しているから。そして第二位が、これは意外でもあったのですが、痴漢撲滅ポスターの掲示でした。これは意外だなと感じました。何故なら、私自身が最も不快な気分になるのは、それだから。飽くまで犯罪防止を呼び掛けるポスターなのだから文句を言う訳にもいかない。しかし、痴漢行為なんて一度もした事のない立場からすると、ただただ、痴漢と間違われてたまるかという思いと、萎縮を強いられるだけの有難くもないポスターなんですね。勘繰られるだけでもヒトは不快を感じ取ってしまう生き物であって。
で、よりによって大宮駅が痴漢防止ポスターのメッカらしいと知る。女子高生らに痴漢撲滅ポスターを描かせ、それを駅構内に昔から展示していたのですが、それを始めたのが大宮駅らしく、現在ともなると恒例になっているらしい。埼京線が痴漢が多発する路線だという事で、そうなったのだろうとは思うものの、正直、痴漢をしない者からすると、嫌な気持ちになるのは確かですかねぇ。しかも、そのことを口に出せば、途端に「あなたは痴漢を擁護するんですか?」みたいな単純二元論を仕掛けられてしまうのだから、中々、厄介でもある。そうじゃなくて、つまりは、万引きなんてする気はさらさらく、絶対にしないであろうに、それでも万引き犯であるかのような目で見られるってのは不快でしょう?
大学生の頃、痴漢に間違われたというのとは違うのですが、物凄く不愉快な体験をした事がありました。小さな書店の狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている気難しそうな若い女性がいて、その通路を通るに当たって、小声で「すみません」という具合に声を掛けて通ろうとしたのですが、中々、気付いてくれない。夢中になっちゃってる。書店内の事なので声の音量を上げるのも、ためらわれる状況だったのですが、それでも私としては相手の耳に聞こえるだろうというぐらいの音量で確かに話し掛けた。ここまでに10秒、もしかしたら15秒ぐらい費やしていたかな。それでも反応がないので、仕方なく、その通路にしゃがみこんでしまっている若い女性の脇を擦り抜けるように身を横にして、その通路を通ったのでした。すると、次の瞬間、凄まじい金切り声で罵倒される事と相成りました。
「何よ、黙ってっ!」
という大きな怒声が、その書店の中に響きわたったのでした。一応、補足すると「何よ、ぶつかっておいて黙ったまま謝らないなんて失礼じゃないっ!」の意です。
私からすると一体全体、何がどう問題なのか、その状況を把握することさえ難しい状況でしたが、どうも察するに私が肩から下げていたバッグが彼女の髪の毛に「ふぁさっ」という具合に当たったらしい。しかも、こちらの認識からすれば、事前に後ろを通らせて欲しいので「すみません」と声を掛け、しかも数秒は、その彼女が邪魔だったから立ち止まっていたのだ。《困ったな、この女の人は…》という認識で、再度「すみません」と声を掛けた後に私なりに狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている彼女を避けるように体を横にした。また、バッグがドスンとかコツンとか当たったというのであれば、また少し状況は別になるのかも知れませんが、どう考えても、そのような手応えはく、書店内でしゃがみ込んでしまっていた彼女の髪、その頭頂部付近か耳の付近の髪を「ふぁさっ」と掠めるようにして当たっただけなのだ。何故、このような侮辱を受けねばならないのか――という思いで一杯でした。状況を認識する為にも思考能力と感情的動揺はフル稼働だったかな。
わなわなと震えが来ました。反論したい。しかし、反論しはじめてしまったら冷静でいられる筈もありませんワな。ホントは言いたい事は山のようにある。きっと3〜4分の事だったと思いますが、その小さな書店の中で、葛藤しました。これは言葉には表せないのかな。湧き上がる怒り、その怒りの感情を抑制する事の難しさ、正当性を主張はしたいが、あんな態度を取れるような女にまともなコミュニケーションが通じるワケもないだろうという諦念とのジレンマ、店内の客や店員は、今の声を聞いて、もしかしたら私が一方的に何か非礼を働いているのだと思っているのかも知れないなという恐怖、いやいや、ホントに、わなわなと体が震えるような、そういう嫌な嫌な経験でした。
これは今、回想しても同じですかねぇ。きっと、当事者ではなければ、その屈辱は理解できないでしょう。だから、下手な相手に相談すると、
「そうだったのであれば、君は自分の正当性を、しっかりと主張すればよかったじゃない。声を掛けたのですが、退いてくれなかったのでって、言えばよかったじゃない」
みたいな、箸にも棒にも引っ掛からないアドバイスをするかも知れない。全然違う。そういうアドバイスをする者は正真正銘の無能者だと思う。感情的になっている相手に対して、その誤解を解こうとする努力が、どれだけ不毛であるかを知らない証拠だ。その経験の乏しさ、考察力の低さを示しているよなって思う。筒井康隆さんの『アホの壁』あたりにも、このテの話は出てきますが、感情的になっている相手ほど質の悪いものはなく、どのように振る舞っても埒は開かない。怒るだけムダで、本気で考えたり、本気で感情を爆発させたり、その感情を抑えるだけでもエネルギーのムダで終わる。
ホントに絶望的乖離というものが在るんですね。「話せば分かる筈だ」などという意見もありますが、それは少なくとも相手次第だ。聞く耳を持たぬ者に対しては何を言ってもムダ。仁や誠、心を尽くして、きちんと説明しても、曲解する気しかない者は絶対に曲解する。或いは曲解されてしまう。残念ながら、これが真理ですね。
逆説的に、仮に、少しでも思慮深さとか良識があれば、そもそも「何よ、黙ってっ!」等と、反射的に自分を被害者として認識、そのままストレートに威嚇するような態度はとれないものなのだ。
立場を置き換えてみても歴然だ。そもそも書店でしゃがみ込むような事はしないし、そこで仮に小声で話し掛けられたとしても、いやいや、その背後に立たれただけでも、「あ。私が通行の邪魔をしちゃってるな」と意識を配るだろうから、気付いて当然なのだ。それが通用しなかったから仕方なく、私は脇を擦り抜けることにしたのだ。仮に、仮に、その脇を擦り抜けた人のバッグが体の一部に当たったとして、それで「ちっ」とか「イタっ」という反応ぐらいはするかも知れませんが、だからといって大声を出して相手を咎めたり、睨みつけるような言動を採りゃしない。
仮に、ぶつかられた事を認識し、ちょっとした痛感を認識したとしても、即座に被害者意識を高ぶらせて、軽々に相手を叱責したり、咎めたりは出来ないものであろうと思う。つまり、それが出来てしまう人、常に自分が正義だと思い込んでいる自意識過剰な人に対しては、何を言ってもムダ、反論すれば反論するだけ感情的になって応戦されてしまい、収拾不能になるのが、この世の常でもある。(こうした口論を続けてもロクなことにはならない。癇癪を起して大声を出すか、手を出さないまでも怒りの行き場がなくなるので物を殴ったりする事になる。挙げ句、悪者に仕立て上げられるのがオチだ。世の中、盲目ですな。)
心の中では「このクソ女めっ!」ぐらいの悪感情を抱きながら、それを表出する事は許されず、忍従を強いられる事になるのだ。こういう感慨は、似たような経験がないと理解できないだろうなって思う。中高校生ぐらいの時に喧嘩になって胸倉の掴み合ったり、ちょっとした小突き合いになっている状態と同じような精神的高揚と、また、直後に起こる敗北感に近い徒労感を否応なしに味わう羽目になる。ニンゲンの一生の内でも中々、これは味わえないような屈辱だったよなって思う。
一応、客観的に考えてみるとして、他者が激昂している場面なども何度か目にしてきましたが、まだ、怒りの沸点は遥かに私よりも低いよなって思う。私のケースは地味ながら、その精神的動揺やら高揚、その時の屈辱感は筆舌に尽くしがたい。何故なら、それは諸々の状況、各人の感情を伴って起こるので、他の誰かに語っても、その感慨を理解してもらえる事は期待しにくくもある。
軽々に怒声を上げる事が出来る人を「怒りの沸点が低い人」という意味で、皮肉として羨ましく思うけど、ホントは、世の中って、そーゆーもんだと思いますよ。いつも譲歩してもらっている人と、いつも譲歩している人がある。役割分担ですな。これがあるから意見を譲歩してもらっている側の人の感覚は麻痺する事が有り得る。譲歩されることが当たり前なのだという感覚に陥りやすいって事なんでしょうけどね。
週刊新潮誌の特集で男女逆差別問題が取り上げられた事があって、世の男性が内心では不快に感じている事についても書かれていて、その第一位が「女性専用車両」についてでした。まぁ、これは何となく分かる。おっとっと、この車両、乗っちゃいけないのか…という経験は、年に5〜6回しか電車に乗らない生活をしている私にしても経験しているから。そして第二位が、これは意外でもあったのですが、痴漢撲滅ポスターの掲示でした。これは意外だなと感じました。何故なら、私自身が最も不快な気分になるのは、それだから。飽くまで犯罪防止を呼び掛けるポスターなのだから文句を言う訳にもいかない。しかし、痴漢行為なんて一度もした事のない立場からすると、ただただ、痴漢と間違われてたまるかという思いと、萎縮を強いられるだけの有難くもないポスターなんですね。勘繰られるだけでもヒトは不快を感じ取ってしまう生き物であって。
で、よりによって大宮駅が痴漢防止ポスターのメッカらしいと知る。女子高生らに痴漢撲滅ポスターを描かせ、それを駅構内に昔から展示していたのですが、それを始めたのが大宮駅らしく、現在ともなると恒例になっているらしい。埼京線が痴漢が多発する路線だという事で、そうなったのだろうとは思うものの、正直、痴漢をしない者からすると、嫌な気持ちになるのは確かですかねぇ。しかも、そのことを口に出せば、途端に「あなたは痴漢を擁護するんですか?」みたいな単純二元論を仕掛けられてしまうのだから、中々、厄介でもある。そうじゃなくて、つまりは、万引きなんてする気はさらさらく、絶対にしないであろうに、それでも万引き犯であるかのような目で見られるってのは不快でしょう?
大学生の頃、痴漢に間違われたというのとは違うのですが、物凄く不愉快な体験をした事がありました。小さな書店の狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている気難しそうな若い女性がいて、その通路を通るに当たって、小声で「すみません」という具合に声を掛けて通ろうとしたのですが、中々、気付いてくれない。夢中になっちゃってる。書店内の事なので声の音量を上げるのも、ためらわれる状況だったのですが、それでも私としては相手の耳に聞こえるだろうというぐらいの音量で確かに話し掛けた。ここまでに10秒、もしかしたら15秒ぐらい費やしていたかな。それでも反応がないので、仕方なく、その通路にしゃがみこんでしまっている若い女性の脇を擦り抜けるように身を横にして、その通路を通ったのでした。すると、次の瞬間、凄まじい金切り声で罵倒される事と相成りました。
「何よ、黙ってっ!」
という大きな怒声が、その書店の中に響きわたったのでした。一応、補足すると「何よ、ぶつかっておいて黙ったまま謝らないなんて失礼じゃないっ!」の意です。
私からすると一体全体、何がどう問題なのか、その状況を把握することさえ難しい状況でしたが、どうも察するに私が肩から下げていたバッグが彼女の髪の毛に「ふぁさっ」という具合に当たったらしい。しかも、こちらの認識からすれば、事前に後ろを通らせて欲しいので「すみません」と声を掛け、しかも数秒は、その彼女が邪魔だったから立ち止まっていたのだ。《困ったな、この女の人は…》という認識で、再度「すみません」と声を掛けた後に私なりに狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている彼女を避けるように体を横にした。また、バッグがドスンとかコツンとか当たったというのであれば、また少し状況は別になるのかも知れませんが、どう考えても、そのような手応えはく、書店内でしゃがみ込んでしまっていた彼女の髪、その頭頂部付近か耳の付近の髪を「ふぁさっ」と掠めるようにして当たっただけなのだ。何故、このような侮辱を受けねばならないのか――という思いで一杯でした。状況を認識する為にも思考能力と感情的動揺はフル稼働だったかな。
わなわなと震えが来ました。反論したい。しかし、反論しはじめてしまったら冷静でいられる筈もありませんワな。ホントは言いたい事は山のようにある。きっと3〜4分の事だったと思いますが、その小さな書店の中で、葛藤しました。これは言葉には表せないのかな。湧き上がる怒り、その怒りの感情を抑制する事の難しさ、正当性を主張はしたいが、あんな態度を取れるような女にまともなコミュニケーションが通じるワケもないだろうという諦念とのジレンマ、店内の客や店員は、今の声を聞いて、もしかしたら私が一方的に何か非礼を働いているのだと思っているのかも知れないなという恐怖、いやいや、ホントに、わなわなと体が震えるような、そういう嫌な嫌な経験でした。
これは今、回想しても同じですかねぇ。きっと、当事者ではなければ、その屈辱は理解できないでしょう。だから、下手な相手に相談すると、
「そうだったのであれば、君は自分の正当性を、しっかりと主張すればよかったじゃない。声を掛けたのですが、退いてくれなかったのでって、言えばよかったじゃない」
みたいな、箸にも棒にも引っ掛からないアドバイスをするかも知れない。全然違う。そういうアドバイスをする者は正真正銘の無能者だと思う。感情的になっている相手に対して、その誤解を解こうとする努力が、どれだけ不毛であるかを知らない証拠だ。その経験の乏しさ、考察力の低さを示しているよなって思う。筒井康隆さんの『アホの壁』あたりにも、このテの話は出てきますが、感情的になっている相手ほど質の悪いものはなく、どのように振る舞っても埒は開かない。怒るだけムダで、本気で考えたり、本気で感情を爆発させたり、その感情を抑えるだけでもエネルギーのムダで終わる。
ホントに絶望的乖離というものが在るんですね。「話せば分かる筈だ」などという意見もありますが、それは少なくとも相手次第だ。聞く耳を持たぬ者に対しては何を言ってもムダ。仁や誠、心を尽くして、きちんと説明しても、曲解する気しかない者は絶対に曲解する。或いは曲解されてしまう。残念ながら、これが真理ですね。
逆説的に、仮に、少しでも思慮深さとか良識があれば、そもそも「何よ、黙ってっ!」等と、反射的に自分を被害者として認識、そのままストレートに威嚇するような態度はとれないものなのだ。
立場を置き換えてみても歴然だ。そもそも書店でしゃがみ込むような事はしないし、そこで仮に小声で話し掛けられたとしても、いやいや、その背後に立たれただけでも、「あ。私が通行の邪魔をしちゃってるな」と意識を配るだろうから、気付いて当然なのだ。それが通用しなかったから仕方なく、私は脇を擦り抜けることにしたのだ。仮に、仮に、その脇を擦り抜けた人のバッグが体の一部に当たったとして、それで「ちっ」とか「イタっ」という反応ぐらいはするかも知れませんが、だからといって大声を出して相手を咎めたり、睨みつけるような言動を採りゃしない。
仮に、ぶつかられた事を認識し、ちょっとした痛感を認識したとしても、即座に被害者意識を高ぶらせて、軽々に相手を叱責したり、咎めたりは出来ないものであろうと思う。つまり、それが出来てしまう人、常に自分が正義だと思い込んでいる自意識過剰な人に対しては、何を言ってもムダ、反論すれば反論するだけ感情的になって応戦されてしまい、収拾不能になるのが、この世の常でもある。(こうした口論を続けてもロクなことにはならない。癇癪を起して大声を出すか、手を出さないまでも怒りの行き場がなくなるので物を殴ったりする事になる。挙げ句、悪者に仕立て上げられるのがオチだ。世の中、盲目ですな。)
心の中では「このクソ女めっ!」ぐらいの悪感情を抱きながら、それを表出する事は許されず、忍従を強いられる事になるのだ。こういう感慨は、似たような経験がないと理解できないだろうなって思う。中高校生ぐらいの時に喧嘩になって胸倉の掴み合ったり、ちょっとした小突き合いになっている状態と同じような精神的高揚と、また、直後に起こる敗北感に近い徒労感を否応なしに味わう羽目になる。ニンゲンの一生の内でも中々、これは味わえないような屈辱だったよなって思う。
一応、客観的に考えてみるとして、他者が激昂している場面なども何度か目にしてきましたが、まだ、怒りの沸点は遥かに私よりも低いよなって思う。私のケースは地味ながら、その精神的動揺やら高揚、その時の屈辱感は筆舌に尽くしがたい。何故なら、それは諸々の状況、各人の感情を伴って起こるので、他の誰かに語っても、その感慨を理解してもらえる事は期待しにくくもある。
軽々に怒声を上げる事が出来る人を「怒りの沸点が低い人」という意味で、皮肉として羨ましく思うけど、ホントは、世の中って、そーゆーもんだと思いますよ。いつも譲歩してもらっている人と、いつも譲歩している人がある。役割分担ですな。これがあるから意見を譲歩してもらっている側の人の感覚は麻痺する事が有り得る。譲歩されることが当たり前なのだという感覚に陥りやすいって事なんでしょうけどね。
ussyassya at 01:57│Comments(2)│人間観察シリーズ
この記事へのコメント
1. Posted by イッシー 2019年10月24日 12:57
メロンパンチさんの体験談、私も記憶にあります。
屋台の並ぶ夏祭りのようなところでした。
何かが足にぶつかった感覚があり、気が付くとバケツが倒れていました。
???と思うやいなや、「おい、おまえ!」と大声でお兄さん登場、すぐさま手のひらで胸のあたりを小突かれました。
どうやら屋台で使う何かが入っており、それを溢してしまったようで。
これだけ人通りのある場所に置いといて、それはないでしょと思いつつも、あとは同じような葛藤でして。
こっちだって感情最優先にしたい時もありますよね〜!
屋台の並ぶ夏祭りのようなところでした。
何かが足にぶつかった感覚があり、気が付くとバケツが倒れていました。
???と思うやいなや、「おい、おまえ!」と大声でお兄さん登場、すぐさま手のひらで胸のあたりを小突かれました。
どうやら屋台で使う何かが入っており、それを溢してしまったようで。
これだけ人通りのある場所に置いといて、それはないでしょと思いつつも、あとは同じような葛藤でして。
こっちだって感情最優先にしたい時もありますよね〜!
2. Posted by メロンぱんち 2019年10月24日 13:35
イッシーさん>
「ホントにこれは、こっちが悪いのか?」
とか「ホントはこちらにも言い分があるのに!」という思いがぐるぐるする中、時間が進行しますよね…。
ただ、こういう嫌な経験をすると他人に対しての配慮にも敏感になれるものかも知れませんけどね。
「ホントにこれは、こっちが悪いのか?」
とか「ホントはこちらにも言い分があるのに!」という思いがぐるぐるする中、時間が進行しますよね…。
ただ、こういう嫌な経験をすると他人に対しての配慮にも敏感になれるものかも知れませんけどね。








