2019年10月24日
「いわんや悪人をや」
中川いさみさんの漫画『ゴムテ』を読んでいたら、「いわんや悪人をや」というフレーズが登場、その後に「親鸞かーい!」だったか「歎異抄かーい!」といった具合の書き込みが為されていて、フフンと含み笑いになった経験がある。「いわんやXXをや」という語法って、その親鸞の歎異抄ぐらいでしか滅多に耳にしない言い回しなんですよね。これ、ぱらぱらと詳解古語(明治書院)をめくっていて気付いたのですが、語尾の「を」が間投助詞で、更に「を」の後に「や」という間投助詞を重ねるという用法だと解説されており、そこで挙げられられている例そのものが「親鸞・歎異抄」であったりする。殆んど目にする事はないものの、ただただ、歎異抄の広告でのみ、「いわんや悪人をや」を目にすることになる。
広辞苑では【いわんや】を引くと、元々は文末で「XXいはんや」であったものが平安中期から「いはんやXXをや」の形式になったという。明鏡国語辞典の解説の方が親切かも知れない。【いわんや】とは「言うまでもなく」や「ましてや」であり、用例としては「大人にもできない。いわんや子供には無理だ」である。これであれば、さほど問題はない。漢字なら「況んや」
問題なのは、歎異抄の悪人正機説であろうと思う。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が非常に分かり難いよなって思う。あれこれと解説を目にしているので、その理屈は理解できるようになったものの、諸々の裏切りがあるよなって思う。これは正直にね。「へへん、そんな事も知らないのォ? あなたって低能だねぇ」という類いの人間が最も醜いよなって感じるのがホントだよなって思う。
親鸞の並べている善人と悪人の順序が、実は分かり難いのだと思う。いやいや、これはガチで、昨晩、岩波文庫版の『抱朴子』(ほうぼくし)の読み下し文を目にした限りでは、この「況やXXをや」が連発するのですが、その悪人正機説のような、故意に読み手に目くらましを浴びせるようなものではないんですよね。私が思うに悪人正機説とは或る種の裏切り、如何にも親鸞らしいトリックスター的な言葉のトリックであるよなって思うに到る。
どう変だと感じているのかというと、「巨漢なおもて大食である、いはんや小柄な人をや」的な。文意の繋がりがスムーズではないというか、飛躍、意図的な飛躍なのだからトリックなのでしょうけど、それを感じる。誰でも往生、善人でも往生、ましてや悪人をや。或いは、言うまでもなく悪人をや、という意味である。
さすがに抱朴子には、そうした捻りはありませんねぇ。やられちゃったら全く理解不可能だよなって思う。そればかりか、カルマ論みたいな善行を積むとか、そーゆー話が紹介されている。当然、善行を積んで、悪行によって差し引かれるのように語っている世界なのだから、「いわんや悪人をや」は物凄い裏切りなのだ。この裏切りを高く評価できれば、歎異抄ファンや親鸞の支持者になれるのでしょうけど、やはり、正直、引っ掛かりますかねぇ。悪人ばっかり贔屓しているような理屈になりかねないので、どうしても受け入れられない。
現在、「ジョーカー」なるアメリカ映画が話題なのだという。到底、観る予定はないものの、ちょっとそれに通じている部分があるかも知れない。あれこれと映画「ジョーカー」の大ヒットが語られる中で、色々な分析を目にしている訳ですが、おそらくは「本人なりにクソ真面目に生きていようが、何ら報われる事がない社会への不満」が根底にあるという。その話であれば、ホントは日本では、少し前から、その前兆みたいなものがあって、例えば、黒子のバスケ脅迫事件から浮上した「人生格差犯罪」などというフレーズは、かなりヤバいものであったと思う。脅迫事件を起こした青年は、特に私的な恨みがあったものではなく、上智大学を卒業して人気漫画家になっている作者と、我が身を照らし合わせて、「なんじゃ、この人生格差は!」のような受け止め方をし、更には、「腐女子どもがバスケ漫画のキャラクターで色々と妄想世界で遊ばれるのは穢されるような気がしてムカつく」だったりしたのだ。衝撃といえば衝撃であり、しばらく時間が経過してから黒子のバスケ脅迫事件の内容を知り、愕然としたものでした。狂気、狂気というけれど、確かに狂気を誘発しやすい社会になっているのも事実でしょうからね。
映画版「鈴木先生」についてはブログにも書いた記憶がありますが、風間俊介さん演じるニート青年が、母校の職員室へ行く。恩師は、名前さえ記憶していない。他方、やんちゃだった生徒たちが職員室へ行くと恩師らは、その成長したOBを歓迎する訳ですね。手を掛けさせられた生徒であったから印象にも残るし、勿論、名前も顔も記憶している訳だ。これは、普遍的な題材だよなって思う。案外、やんちゃだった生徒の方が記憶に残り、且つ、教師からすれば手を煩わせられたのは過去の事だから、卒業後に慕って職員室に訪ねて来られれば、それは、過去の可愛い教え子となる。社会的に成功をしていれば、尚更だ。
風間さん演じる青年は、そうした光景に加えて、身の回りの現実を見てしまう。実社会とは真面目なんてクソくらえの世界であり、他者の事を顧慮しなかった不良だったような生徒が成功する空間であり、「ヤリマン」と認識されていた女子生徒が玉の輿に乗ってIT社長の奥さんに収まっていたりする空間でもある。取り柄のない青年というのは、なんだかんだいって社会に虐げられてしまう状況も多いのだ。逆上した、この青年は「真面目なんて一文の価値もないのだっ!」と考え出し、とうとう、真面目そうな女子中学生を人質に取って籠城事件を起こしてしまう。どこかしら社会への復讐らしきニュアンスが付き纏う。
8割ぐらいの凡人による凡人の努力の積み重ねなどには意味はなく、突出的な才能を持った者が突出した資金援助の下に成功して初めて、陽の目を見るという社会になると、こーゆー事になるって事じゃないだろか。高校野球、夏の甲子園大会があったとして、優勝校やプロ入りする生徒だけが栄冠を手にする事ができ、敗れていった者への健闘を称え、栄誉を称える。しかし、この「健闘を称え、その栄誉を称える」という慣習、そういう気持ちが無くなったら、やり切れないだろうなっていう気持ちになる。ホントは大半の者は敗者になるようにできているのであって。
「あいつには球拾いだけやらせておけばいいよ。ずーっと定年退職まで、あいつは球拾いをする役目なのだ。いやいや、定年退職をして直ぐに年金生活ができるワケではないから、あいつには一生、球拾いをやらせておけばいいのさ。それが彼の人生だ。球拾いが嫌なら、努力に努力を重ね、実力をつけて世の中を見返せばいいんだよ」
地虫のように生きる者と、カネと名声を際限なく手に入れる事が出来るセレブは同じ世界に生きているが、その両者の間でホントに共生関係が成立しているのかという気になってくる。「ジョーカー」旋風などというのは、こういう話と関係していて、現代社会は亀裂が入るべくして亀裂が入っているという事ではないのだろか。
広辞苑では【いわんや】を引くと、元々は文末で「XXいはんや」であったものが平安中期から「いはんやXXをや」の形式になったという。明鏡国語辞典の解説の方が親切かも知れない。【いわんや】とは「言うまでもなく」や「ましてや」であり、用例としては「大人にもできない。いわんや子供には無理だ」である。これであれば、さほど問題はない。漢字なら「況んや」
問題なのは、歎異抄の悪人正機説であろうと思う。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が非常に分かり難いよなって思う。あれこれと解説を目にしているので、その理屈は理解できるようになったものの、諸々の裏切りがあるよなって思う。これは正直にね。「へへん、そんな事も知らないのォ? あなたって低能だねぇ」という類いの人間が最も醜いよなって感じるのがホントだよなって思う。
親鸞の並べている善人と悪人の順序が、実は分かり難いのだと思う。いやいや、これはガチで、昨晩、岩波文庫版の『抱朴子』(ほうぼくし)の読み下し文を目にした限りでは、この「況やXXをや」が連発するのですが、その悪人正機説のような、故意に読み手に目くらましを浴びせるようなものではないんですよね。私が思うに悪人正機説とは或る種の裏切り、如何にも親鸞らしいトリックスター的な言葉のトリックであるよなって思うに到る。
どう変だと感じているのかというと、「巨漢なおもて大食である、いはんや小柄な人をや」的な。文意の繋がりがスムーズではないというか、飛躍、意図的な飛躍なのだからトリックなのでしょうけど、それを感じる。誰でも往生、善人でも往生、ましてや悪人をや。或いは、言うまでもなく悪人をや、という意味である。
さすがに抱朴子には、そうした捻りはありませんねぇ。やられちゃったら全く理解不可能だよなって思う。そればかりか、カルマ論みたいな善行を積むとか、そーゆー話が紹介されている。当然、善行を積んで、悪行によって差し引かれるのように語っている世界なのだから、「いわんや悪人をや」は物凄い裏切りなのだ。この裏切りを高く評価できれば、歎異抄ファンや親鸞の支持者になれるのでしょうけど、やはり、正直、引っ掛かりますかねぇ。悪人ばっかり贔屓しているような理屈になりかねないので、どうしても受け入れられない。
現在、「ジョーカー」なるアメリカ映画が話題なのだという。到底、観る予定はないものの、ちょっとそれに通じている部分があるかも知れない。あれこれと映画「ジョーカー」の大ヒットが語られる中で、色々な分析を目にしている訳ですが、おそらくは「本人なりにクソ真面目に生きていようが、何ら報われる事がない社会への不満」が根底にあるという。その話であれば、ホントは日本では、少し前から、その前兆みたいなものがあって、例えば、黒子のバスケ脅迫事件から浮上した「人生格差犯罪」などというフレーズは、かなりヤバいものであったと思う。脅迫事件を起こした青年は、特に私的な恨みがあったものではなく、上智大学を卒業して人気漫画家になっている作者と、我が身を照らし合わせて、「なんじゃ、この人生格差は!」のような受け止め方をし、更には、「腐女子どもがバスケ漫画のキャラクターで色々と妄想世界で遊ばれるのは穢されるような気がしてムカつく」だったりしたのだ。衝撃といえば衝撃であり、しばらく時間が経過してから黒子のバスケ脅迫事件の内容を知り、愕然としたものでした。狂気、狂気というけれど、確かに狂気を誘発しやすい社会になっているのも事実でしょうからね。
映画版「鈴木先生」についてはブログにも書いた記憶がありますが、風間俊介さん演じるニート青年が、母校の職員室へ行く。恩師は、名前さえ記憶していない。他方、やんちゃだった生徒たちが職員室へ行くと恩師らは、その成長したOBを歓迎する訳ですね。手を掛けさせられた生徒であったから印象にも残るし、勿論、名前も顔も記憶している訳だ。これは、普遍的な題材だよなって思う。案外、やんちゃだった生徒の方が記憶に残り、且つ、教師からすれば手を煩わせられたのは過去の事だから、卒業後に慕って職員室に訪ねて来られれば、それは、過去の可愛い教え子となる。社会的に成功をしていれば、尚更だ。
風間さん演じる青年は、そうした光景に加えて、身の回りの現実を見てしまう。実社会とは真面目なんてクソくらえの世界であり、他者の事を顧慮しなかった不良だったような生徒が成功する空間であり、「ヤリマン」と認識されていた女子生徒が玉の輿に乗ってIT社長の奥さんに収まっていたりする空間でもある。取り柄のない青年というのは、なんだかんだいって社会に虐げられてしまう状況も多いのだ。逆上した、この青年は「真面目なんて一文の価値もないのだっ!」と考え出し、とうとう、真面目そうな女子中学生を人質に取って籠城事件を起こしてしまう。どこかしら社会への復讐らしきニュアンスが付き纏う。
8割ぐらいの凡人による凡人の努力の積み重ねなどには意味はなく、突出的な才能を持った者が突出した資金援助の下に成功して初めて、陽の目を見るという社会になると、こーゆー事になるって事じゃないだろか。高校野球、夏の甲子園大会があったとして、優勝校やプロ入りする生徒だけが栄冠を手にする事ができ、敗れていった者への健闘を称え、栄誉を称える。しかし、この「健闘を称え、その栄誉を称える」という慣習、そういう気持ちが無くなったら、やり切れないだろうなっていう気持ちになる。ホントは大半の者は敗者になるようにできているのであって。
「あいつには球拾いだけやらせておけばいいよ。ずーっと定年退職まで、あいつは球拾いをする役目なのだ。いやいや、定年退職をして直ぐに年金生活ができるワケではないから、あいつには一生、球拾いをやらせておけばいいのさ。それが彼の人生だ。球拾いが嫌なら、努力に努力を重ね、実力をつけて世の中を見返せばいいんだよ」
地虫のように生きる者と、カネと名声を際限なく手に入れる事が出来るセレブは同じ世界に生きているが、その両者の間でホントに共生関係が成立しているのかという気になってくる。「ジョーカー」旋風などというのは、こういう話と関係していて、現代社会は亀裂が入るべくして亀裂が入っているという事ではないのだろか。
ussyassya at 11:53│Comments(5)│世相・社会
この記事へのコメント
1. Posted by 江草乗 2019年10月24日 23:55
授業で漢文を教えてるので、この「況んや〜をや」の形はよくでてきますね。
抑揚形という句法です。
韓愈の「雑説」の中にある、千里の馬を
探し求める話の中で
「死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。」という文が出てきます。意味は「死んだ馬でさえ高く買うのだから、まして生きてる名馬ならなおさら高く買うはずだ」ということです。
この抑揚形には「且つ」という文字の代わりに「尚ほ」という文字を用いることもできるわけですが、だったら「すら尚ほ」と言うべきところがどうして「なほもて」なのか不思議なのですね。親鸞なら漢文句法の教養はあったはずですし。
もっとも今教育現場で指導している漢文法体系が整ったのは江戸時代以降なんですけど。最近は漢文ちゃんと教えられる人が減ったせいで、参考書やセンター試験本文にさえ送り仮名のミスがあります。
そうそう、親鸞のことばを誤解して「悪人でも極楽往生できるんだ!」と言い出す人は当時でもいたような気がするんですけどね。
抑揚形という句法です。
韓愈の「雑説」の中にある、千里の馬を
探し求める話の中で
「死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。」という文が出てきます。意味は「死んだ馬でさえ高く買うのだから、まして生きてる名馬ならなおさら高く買うはずだ」ということです。
この抑揚形には「且つ」という文字の代わりに「尚ほ」という文字を用いることもできるわけですが、だったら「すら尚ほ」と言うべきところがどうして「なほもて」なのか不思議なのですね。親鸞なら漢文句法の教養はあったはずですし。
もっとも今教育現場で指導している漢文法体系が整ったのは江戸時代以降なんですけど。最近は漢文ちゃんと教えられる人が減ったせいで、参考書やセンター試験本文にさえ送り仮名のミスがあります。
そうそう、親鸞のことばを誤解して「悪人でも極楽往生できるんだ!」と言い出す人は当時でもいたような気がするんですけどね。
2. Posted by メロンぱんち 2019年10月25日 02:30
江草乗さん>
漢文だと目にする事も多い形なんですね。歎異抄ぐらいでしか目にすることないよなって思っていたんですが。
古典のカリキュラムは改変も多いようですね。意図的にやっているような気もしますけど、これでいいのかなって気持ちになります。
漢文だと目にする事も多い形なんですね。歎異抄ぐらいでしか目にすることないよなって思っていたんですが。
古典のカリキュラムは改変も多いようですね。意図的にやっているような気もしますけど、これでいいのかなって気持ちになります。
3. Posted by 四十鱸 2019年10月27日 18:08
社会的に困窮する人や追いやられてる人、弱者が援助者にとって“都合の良い肖像”で現れる事は無いって事でしょ?
それは一般社会でも同じだと
徳や善行を推奨され、善に塗れて生きていても、自分自身の善性の偽善さを振り返れ…って解釈して考えています
相対主義に絡め取られそうだけど、そうじゃない
己の善性から来る正しさ、なんて信用しきっちゃいけないなぁって昨今の社会風俗の情勢眺めてて思います
それは一般社会でも同じだと
徳や善行を推奨され、善に塗れて生きていても、自分自身の善性の偽善さを振り返れ…って解釈して考えています
相対主義に絡め取られそうだけど、そうじゃない
己の善性から来る正しさ、なんて信用しきっちゃいけないなぁって昨今の社会風俗の情勢眺めてて思います
4. Posted by メロンぱんち 2019年10月27日 20:27
四十鱸さん>
相対主義に係る部分、ここで挙げている抱朴子や淮南子といったものにも登場していて、既に東洋思想では太古に説かれている。とはいえ、現在の世論などでも、この相対主義を克服しようとして物事を考えている人は実は少ないかも知れませんね。
悪人正機説の話は実際に複雑であろうと思うんですね。どれが正解なのか私も自信がないんですよ。
広辞苑で【悪人正機説】を引くと⇒阿弥陀仏の本願は悪人を救うことが目的であり、悪人の自覚を持つ者こそ往生するにふさわしい機根であるという説。
といった具合に記されており、おそらくはそれなんですね。「涅槃経」では、悪人中の悪人にこそ、仏の慈悲が重く注がれるとも書いてあるそうで、実は、分かり難いんですよねぇ。信じた者が救われる方が、分かりやすいんですが、阿弥陀仏信仰になると、それをも取っ払おうとするので少しトリッキーと感じるのは確かだと思いますが…。
相対主義に係る部分、ここで挙げている抱朴子や淮南子といったものにも登場していて、既に東洋思想では太古に説かれている。とはいえ、現在の世論などでも、この相対主義を克服しようとして物事を考えている人は実は少ないかも知れませんね。
悪人正機説の話は実際に複雑であろうと思うんですね。どれが正解なのか私も自信がないんですよ。
広辞苑で【悪人正機説】を引くと⇒阿弥陀仏の本願は悪人を救うことが目的であり、悪人の自覚を持つ者こそ往生するにふさわしい機根であるという説。
といった具合に記されており、おそらくはそれなんですね。「涅槃経」では、悪人中の悪人にこそ、仏の慈悲が重く注がれるとも書いてあるそうで、実は、分かり難いんですよねぇ。信じた者が救われる方が、分かりやすいんですが、阿弥陀仏信仰になると、それをも取っ払おうとするので少しトリッキーと感じるのは確かだと思いますが…。
5. Posted by メロンぱんち 2019年10月28日 00:01
「悪人正機説」、湯舟の中でまとめてきました。
基本的には衆生(一般人・凡人)に対して往生できると説くが、悪人であれば尚更の事、衆生よりも大きな慈悲を享けられるの意で解説されていますね。悪人ほど慈悲に預かり、また、それまでに犯してきた悪行をチャラに出来る機となり得る、と。
基本的には衆生(一般人・凡人)に対して往生できると説くが、悪人であれば尚更の事、衆生よりも大きな慈悲を享けられるの意で解説されていますね。悪人ほど慈悲に預かり、また、それまでに犯してきた悪行をチャラに出来る機となり得る、と。








