2019年11月03日

「人間か機械か」と「純粋と不純」

Eテレ「こころの時代」では、シンガポールで貧しい人たちの為に十年以上、無償で弁当を製造、配布していた「ウィリング・ハート」なる団体、その団体の創立者でもあるトニー・テイさんを、元アナウンサーで現在は解説員になったという道傳愛子さんが取材したものでした。

「無償で弁当を十年以上、提供し続けている」というのは、中々、理解しがたい話だよなって思うと同時に、最近、日本で台風の時に避難所へ来たホームレスを「オマエに食わせるタンメンは無ぇ!」とばかりに、追い帰していたという騒動を想い描く。いやいや、福祉の限界というか、きれいごとの限界を見てしまったよな、とね。

トニーさんが立ち上げたウィリング・ハート、そこにはボランティアの人たちが約二百人も参加しているという。何か資本主義的なインセンティブ、つまり、カネとか票田などが関係しているのかなと思ったら、どうも、純粋なボランティアっぽい。付近の水産会社の社長だという非常に割腹のいい男性が汗をかきながら弁当つくりにいそしんでおり、尚且つ、その表情は笑顔を湛えている。

トニーさん自身も地道な活動が認められて、何やらシンガポール政府の副大統領が臨席する席で挨拶を促がされているが、トニーさんは副大統領が臨席している事への御礼を述べた後、「特に私にはしゃべれる事がないんです」と言い、舞台の上、マイクの前でも、その奥床しそうなキャラクターが目に付きました。多くの慈善活動家とは、何故か出しゃばりであり、何かとPRしたがる性質があると思う。これは市長とか市会議員さんなどにも共通しますが、結局は、演壇の上に登壇してマイクの前で自分の宣伝めいた事をしゃべろうとするワケですな。で、多くのケースで慈善活動家も同様である。それに比べてトニーさんの挨拶は、その無償で弁当を貧しい人たちに十年間以上も続けてきたというのに、そっけないものであった。

トニーさんは、実は碌に学校も出ていないという。学校も出ていないから人前でスピーチなんぞ出来ぬという意味にも取れますが、それだけではなさそうだと気付く。トニーさんの短い言葉は核心を突いていた。

「これは私がやりたくてやっている事ですから」

と。

それが全てだ。それであれば語るべき言葉はない。以前にもカントの定言命法、仮言命法を引用して説明しましたが、純粋な意志からなる善とは、それだけしかないのだ。政治家になる為の布石としての宣伝活動でもなく、慈善活動の名の元に職業としての慈善活動家でもない証拠が、もう、そこに現れているのだ。

インセンティブ? そりゃ、他人の頬っぺたを札束で引っ叩いて実現している善意なき善だ。純粋な善意ではないのは自明でもある。

また、シンガポールについても紹介されていましたが、HDBと呼ばれる公共住宅が政策によって建てられ、現在ともなるとシンガポール国民の約8割がHDBなる公共住宅(公共団地)に住んでいるのだという。このHDBは政府から助成金が出ているので、格安で入居できるのだという。何やら、こういった住宅政策は、今後、日本でも政官財マが、殊更に羨望し、日本もそうした住宅政策を採るべきと言い出す可能性があるなと思いながら、そのレポートを視聴しました。まぁ、悪い政策でもないのかも知れませんが国民の8割がHDBに住み、シンガポール経済を支えている外国人が高級コンドミニアムに住んでいるという。これは、うがった見方をしてしまえば、生粋のシンガポール人の殆んどはHDB住まいとなって、外国人資本家を基本とする勝ち組層がコンドミニアムで生活しているの意であり、シンガポールという国を掌握したという図にも見える。新しい形の租借地と言ったら言い過ぎだけど、地場産業ってレベルじゃない経済発展の仕方なんですね。

低技能労働者は、雇用の「調整弁」となる。トラックの荷台に乗せられて建設現場へ移送され、彼等には引っ越しの権利は与えられていないという。或る意味では、あれらの高層ビル群を実際に現場で作業してつくっているのは低技能労働者であるが、その恩恵に浴しているのは、結局は外国の大資本だという事かも知れない。

「純粋な善」の話に戻りますが、どうも疑いようがない。何故か、そのウィリング・ハートの人たちは、厨房で貧しい人たちの為に無償で労働力を提供している。こんな事が有り得るのかと、不思議に感じなくもない訳ですね。カネ、カネ、カネとなるのが、フツウでしょうから。HDB政策があるから、そのように人々の善意が喚起されたという事なのかも知れない。しかし、そのようにも見えない。何故なら、その弁当配布活動は、極めて純粋な善意によって成立しているように見え、押し付けがましさがないのだ。先にも述べたように笑顔で弁当をつくり、笑顔で弁当を配達している。そこに「顔」が、きちんと有るのだ。

ウィリング・ハートの弁当を心待ちにしている人々の多くは、高齢者と障害者であるという。彼等は勿論、HDBに住んでおり、その一階に設けられた解放的スペースで、弁当の到着を待っている。印刷工場を起ち上げたが料理の経験など一度もないというトニーさん自身が無償で手に入れた材料を大鍋で調理しているシーンがあったが、弁当は、見た限りは豪華だ。日本で買えば、390〜500円ぐらいはしそう。容器は発泡スチロール製。海産物工場の社長が既に出演していたから、そういうところから余った海産物を無料で手に入れる事ができるのでしょうけど、使い捨て容器が使用されている事を考えるとやはり、実際には少額であっても金銭は動いているのでしょう。きっと、誰かが負担しているのだ。

生まれたときから病気を患っているという女性は床に布団を敷いて寝たままである。枕元には鳥篭があり、そこにセキセイインコらしい小鳥を飼っている。その部屋へ、トニーさんが弁当を持って弁当を手渡しに行く。そして布団に伏していた女性とトニーさんとが、笑顔と笑顔で握手をしながら弁当を手渡している。なんとなく、そのシーンに、この問題のカラクリを視た気分になる。無償ボランティアなんて出来るものかと思うものの、三波春夫じゃないけれど「顔と顔」だ。そこには金銭に依存していない「扶助の精神」が、理想的な形で現れているように見える。トニーさんの「私が好きでやっている事だから」という言葉の重みがずっしりと響く。


本当は、助けられるものであれば助けてやりたいという「純粋な善意」を、相応のレベルでヒトは持っているものではないのか? 但し、それは助けてやれる余力が無ければ、当然、成り立たない。現世にあっては、先立つものとしてのカネがあり、昨今ともなると本末転倒しており、カネさえあれば、貧乏人に貧乏人の面倒を見させる事が可能となった。そうしておいて、そのような政策を唱える者が「善の行使者」と認識され、そうした不純な善が社会を覆いつくしているのがホントのような気がする。

テレビ各局が、台風被害の募金を呼び掛けており、そこで「赤十字を通して募金する」と説明している。まさか全額が被災地に届くんだろうなって思う。しかし、過去の週刊誌の記事などからすると、そうではなくて実は、しっかりと手数料が引かれて上で被災地に募金が届けられるという。赤十字とて運営費がかかるのだろうから、どこかで経費は捻出しなければならないのでしょう。しかし、赤十字の職員やらユニセフの職員よりも低所得の者、或いは明らかに貧しい者は、そもそも募金なんてしていらないんじゃないのって、これは、まぁ、率直に思う。順番からすれば、先ずは自助であり、次に助け合いの共助であり、それでもダメなら公助だって話は、何年も前から言われてきた筈で、経済格差が広がってしまった現在、共助は難しいのがホントであろうと思う。むしろ、カネを募金や福祉目的の税として不特定多数の人々から集めておきながら、そのカネを実際に配布する役割を負った者だけが被支援者から感謝され、まるで善の行使者であるかのような認知的錯覚が起こっている気さえする。

新聞に目を通していると、ありありと分かる。こうしたい、ああしたいとして、どんどん政策をつくったり、変更している。途中でルールを変えてしまっている。会計士や社労士に話を聞けば、毎年毎年、ルール改正が多いと愚痴るレベルになっている。この構図の不味さは、オリンピックなどは典型でしょうねぇ。レガシーなどと自惚れて、ばんばん箱モノをつくって、ばんばんカネを費やしている。「後の事は知ったこっちゃねぇ、オリンピックを成功させたのはワシの功績なんじゃよ、わっはっはっ」というタイプの思考回路の人たちの自己愛だけが更に肥える。そしてやたらと分不相応な街が出来上がり、レガシーとして残された負債は、現役世代の一般人や次世代への置き土産となる。

これは「贈与論」で説明ができるのかな。徴税権のようなものだけは正当化され、強化され、そのようにして徴収した公金を有難く政府が分配してくれる。偉いのは、ひとえに政府サマサマであるとなる。巧くマスキングされてしまうんですね。しかし、本来であれば誰がどのような行ないをしたのかによって善や悪という観念がある。「偉い」とか「立派」とか、具体的に説明する事が出来ない言葉ばかりが、そらぞらしく蔓延り出す。

純粋に助けたい者が助けたい人を助ける場合と、そうではない場合は、かなり事情が異なってくる。

分配した者が正義だというのであれば「モンティ・パイソン」という伝説的なイギリスのコメディグループが描いた「ルピナス仮面」と同じである。分かりやすい悪党から巻き上げたカネを、貧しい者にバラ撒いているうちは正義の味方が成立した。ルピナス仮面は貧しい人から感謝された。しかし、悪党が居なくなると正義が成立しなくなる。そのうち、悪党と言えるのかどうか微妙な人たちからカネを巻き上げて、分配するようになる。すると当然、「俺たちのような貧しい者から巻き上げないでくれ!」と懇願される。なので、そのルピナス仮面は原っぱに咲いているルピナスという花を刈り取って、貧しい者にルピナスの花を配る。すると貧しい者は金銭を届けてもらうのは有難いが、ルピナスなんていう、そこら中に生い茂っている雑草は要らないと怒り出す。

色々と世の中は狂っているよなって思うけど、こういった問題を正視すべきという意見は、きっと多数決では多数派になる事はないんでしょう。しかし、成立する物言いだよなって思う。

近代の幕開けと同時に、アジアはアジア的なものを、日本は日本的なものを、ばんばん捨てていますね。実直である事とか、親切である事などの身の回りの美徳については現在ともなると一文の価値もなく、ただただ、壇上に登って、それっぽい事を言っている人たちや、インカム方式のマイクでカタカナ語を並べる人たちに、マス効果で以って賛辞が贈られて、羨望の眼差しが向けられる。ホントは、ただただ西洋化してみましたってだけなんだろうにねって思う。

表彰される席でも、言葉数少なく、余計なPRをしないトニー・テイさんの姿に、純粋な善を視てしまったのような気がする。いや、そうなるでしょ、本来は。別に、社会から表彰される事を目的に行動しているのではない。カネも要らなきゃ名誉も要らぬ、私は自分でやりたいからやっているだけですってんだから。しかし、こーゆーケースってのも少数派なのでしょうけど、有り得る事なんじゃないの? ボランティアを強制とか半強制でしか語れない今の日本というのは、結構、本質的な部分ではヤバい気がしますね。その人の考える正義の為であれば、他人を犯してもいいという考え方に傾斜している。その人が助けたい人を助けているだけなのに、善の押し付け・押し売りを平然とするようになってきている。「善」なんていう観念さえも、金銭に換算して図るようになってきている。

中沢新一の試論的なものであったと思いますが、モノとモノとが交換されて、経済というものが成り立ってきたのが人類の歴史である。では、単純に、モノとモノとが交換されてきたのかというと、そうではない。交換する者Aと、それに応じる者Bとの間に信用関係が必要であり、しかも、AとBとの間には「意」が付随して交換が行われてきたのが人類史規模で語る経済ではないのか――という。既に自動販売機への批判、「無言の経済」に対しての批判で登場していたものですが、そこから人的要素を省いてしまうと、ただただ、唯物的にモノが右から左へと所有を変えるだけになってしまう。有人店舗の店で会計する場合、そこで「これ下さい」とか「ありがとうございます」とか、そこで何げない会話が行われてきたのが歴史である訳ですね。顔と顔を突き合わせ、モノと一緒に人と人との意の交換も行なってきていた。しかし、技術的に自動販売機が登場して通信販売が登場して、現在ともなるとテレビでもインターネット上でも広告の嵐であり、電話でもネットでもスマホでも、怖ろしいまでに簡単にモノを右から左へと移動させる事が可能になってしまった。経済、経済、便利、便利と言っているものの、極めて唯物的なシステムなんですね。社会システムそのものが、どんどん非人間化を遂げている。しかし、その非人間的システムの中で生活しているのは生身の人間であるという矛盾がある。この非人間化を遂げたシステムが、今後も継続し、人々を幸福にしてゆくとは限らないし、むしろ、悪い予兆が始まっているのがホントではないんだろか。非人間的に人間をランク付け、そこに全く人為的な行為を果たさぬまま、ランク付け、格付けが為され、そのランク付けに基づいて金銭が差配されている状態であり、かなり、非人間システム化していると思う。

手作り弁当よりも工業製品であるパンで空腹を満たすというのも一つの手段でしょう。しかし、或る意味では貧困ですやね。食堂のおばちゃんが素手で握ったおにぎりは不衛生で食えないという。友達のおかあさんがつくったおにぎりは不衛生で食えないという。しかし、ホントは、そこから、もう分断は始まっている。つい先日の即位正殿の儀の天皇の御言葉にも、「国民と共に…」といった具合の、つまりは、共感共苦について語られた一幕がありましたが、同じ釜の飯を食えない者同士が共存共栄を掲げているなんてのは無理がある。共感なくして、どう連帯できるだろう。

どこぞの未開部族が棲んでいる村へ行って、そこの村民らが食べ物や酒を勧められたとして、それを断る行為が何を意味しているか考えれば分かりやすいのかな。ホントは比較ナンタラ学レベルで「同じものを食べる」という行為は重要なんですね。仲間である事の証でもある。勿論、文化圏が異なるのだから「不潔だな」と感じてしまう感覚は率直にあるが、そうしてしまうと無言の次元で「オマエたちとは違う」と宣言してしまう事になる。多少、文明を齧っていたとしても、そうした行為が失礼に該当する事は自明でもある。本来、人と人、人間(じんかん)とは、そーゆーものでしょう。不潔と感じようが、基本的には死にはしないのであれば、それを一緒に食する事で個体間の距離は縮める事ができ、そのようにして仲間になれるのが人間だ。多少、文化があっても同じでしょう。握り飯を握って、それを勧めてくれる人は居るが、「そんなもの、不潔なので食べられません!」と言えてしまう社会は、ちょっと異常な社会だよなって気がする。御礼もなし、握手もなし、視線を合わせる事もキモチワルイって、どういう社会だって。もう、ヘタをしたら社会ですらない。

ホームレスが避難所にやってきたとして、「おい、彼等をここに入れてしまっていいのか?」とは、きっと私を含めて、相応のパーセンテージの者が脳裡に描く疑問であろうと思う。しかし、冷静に考えれば、生命の危機、生命に係わる問題だから緊急避難しているのだ。その状況で、追い帰してしまう事のリスクは絶大であった筈なんですね。そのホームレスの生命は、さほど重視されなかったという事だ。判断をした心情としては、「ここは一応はカースト内にある人たちの避難所だから、階級の外、アウト・オブ・カーストに該当するホームレスの人たちは、我々が助ける必要性はない、つまり、最悪の場合、死んでもよい」と考えたという事なのではないだろか。どこか社会が唾棄するレベルの偽善によって成り立っている事を証明してしまった一例であったような気がしないでもない。冷静に考えれば冷静に考えるほど、彼等を追い帰したという判断の、罪悪性は大きく高いような気がする。共助だ、公助だなどと言いながら、ホントは理念は貫徹されていない。キモい、キタナい、クサい、死ねばいいのにという排他的な公共正義しか現存していないのかも知れないなって思う。繋がっている、助け合い、心を一つにする、どこまで、この都合のいい「偽善」を演じたり、誉めそやせばいいのやら…という気分になる。次に裏切られるのは、私かもしれないし、あなたかも知れないのに。

ussyassya at 10:39│Comments(6)世相・社会 

この記事へのコメント

1. Posted by ねこあたま   2019年11月04日 08:25
昔からシンガポールは超管理型社会の行く末と言われてましたねえ
2. Posted by メロンぱんち   2019年11月04日 10:39
ねこあたまさん>
正直、複雑な気分になりました。確かに、シンガポールの住宅政策なんてのは、最大幸福社会が具現化されたケースと見る事もできてしまうかも知れない。しかし、あれでは租借地みたいなだよねって言えてしまいそうなんですよね。あれでいいのか、ああいう社会を実現したいのかと考えると…。
3. Posted by おじじ   2019年11月08日 09:20
最近、ネットの記事を読みましたが、自分のアパートを他人に貸して、その収入と年金を生活費にして、国際空港に住み着いたリタイア組のご婦人が紹介されていました。24時間開いているし、シャワールームあるし、気楽なんだって。生き抜くためには、アイデア次第ってことよ。
一方、日本では、災害時に浮浪者を追い出した分けですが、税金を払ってもいないんだから避難場所であっても公共の施設の恩恵にはあずかれないという、理屈はあっているんだけれど、少し寂しい気もしますな。
4. Posted by メロンぱんち   2019年11月08日 09:45
おじじさん>
元々、現行の年金制度も所得によって階層分けがなされているので社会保障というよりも保険商品の契約のような感じで運用されていますが、どうも人を選別する事に抵抗がなくなってきてしまっているのではないかという指摘がありますね。しかも契約しない事は許さないという主旨ですし、どうも社会不和が拡大していく方向性にあるような気がしています。

人の選別、命の選別に段々、抵抗感をなくしていくのかも知れませんね。
5. Posted by イッシー   2019年11月08日 12:42
「無言の経済」ですか、たしかにその通りかもしれません。
過度なお客様(お金様)主義、俺はカネ払ってるんだぞ、コスパ、安い人件費などなど。
それらの「意」が付随しない取引により、本当の満足感には飢えているのかもしれませんね。
6. Posted by メロンぱんち   2019年11月08日 14:19
イッシーさん>
現在、アメリカの若年層が社会主義を標榜しているといいますが、多分、人間味を感じない資本主義システムの嫌気が出て来ているのではないかという気がします。

本日付けの読売新聞でも、営業利益率が高いのはIT業界と不動産業界で、低いのがサービス業というデータが示されていましたが、やはり、コスパで思考すると、そうなってしまい、この方向性で大丈夫なのかって気分になってきている気がします。

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