2019年11月08日

空観と仮観と中観

『黄金の華の秘密』に記されている「三観」の解説は、非常に優れた解説なのではないかと考えるようになりました。

先ず、空観ですが、これは「一切は空である」の意である。

次に、仮観ですが、これは「一切は空なのだから、一切は仮象である」と説くとする。

最後、中観ですが、これは「一切は空である。だから万物は仮象である。だから執着は不要である。真実を見よ」のように解する事ができるのではないか。

このシンプルな理解こそが、仏教・天台宗話ではあるのですが、確かに言わんとしているところの混淆した東洋思想の非常に重要な一部という事になると思う。

ゴータマの仏教からは離れているような気もしますが、そもそも空観については龍樹(ナーガ・ルージュナ)がもたらせたもので、この龍樹については、伝承でも怪しげな仙術を使用し、バラモンの宮殿に透明人間になって忍び込み、女官たちを次から次へと姦淫してしまった妖術使いであったという伝承がある。ついつい【空観】という言葉を目にした途端、それを仏教とカテゴライズしてしまうものの、これが意味している事は、明らかに神仙思想から道教へという流れの中になる。となると、空観とは高い確率で、その起源は老子の「ふいご」であろうと考えられる。神仙思想に老荘思想が結び付いて、それがいつの間にやら民間信仰としての仙術信仰のような形になって道教が出来上がっているのだから、龍樹が伝えた「空」とは、やはり、それなのでしょう。火を燃やすには、ふいごで風を送ればいいが、そのふいごの中身はカラッポである。

これは猴儉瓩療学とでも呼ぶべきもので、ホントはカラッポであるが、その中身がカラッポのふいごであっても、その用い方によっては風を送り出すことができる。物質としての「ふいご」や「焚き木」、「炎」がどうのこうのではなく、現象の本質を見ようとするならば犧醉儉瓩鮓よ的な話である。また、そこから「この世の中にあるもので無用なものなどあるものかね」という具合に荘子が続けて「無用の用」や「万物斉同」へと繋がっている。

西洋風に述べると【形而上】と【形而下】とがあって、形而上のものは目に見える形を持たず、形而下のものは目に見える形を有する。元々は西洋でも形而上の観念などに熱心であったが、徐々に目に見えるもの、視認できる確実なもの、物質的なものを重視して、その科学体系がつくり上げられてゆく。それに対して、東洋思想というのは異なる回路で形成された。

ピンと来たのは「黄金の華の秘密」には、瞑想、静坐による修練で、無駄なエネルギーを使用する事を極端に避けるように説かれており、精を漏らす事はムダとされている。そのような仙術の話にもなってきて「気」で女性を懐胎させる云々というクダリが登場する。これは、まさしく龍樹の伝承と合致しているじゃないか。その部分には、くっきりと道教的な匂いが感じられる。

【仮象】という言葉は仏教の解説で登場したかどうか記憶がない。しかし、ここで説明されているものであれば理解は難しくありませんやね。一切は空である。空なのだから、そこで目に見えているものも仮である。これは、むしろ西洋的な説明になっていますが、まぁ、そのまんまでしょう。

で、その上で「中観」となる。そういうものだから、執着するべきではないぞよ、と。

そして、その先がある。この空観・仮観・中観では「真」が何処にあるのか示されていない。真はどこにあるのか? 巨大なハマグリが蜃気楼をつくり出しているという具合に組み立てられいるので、それを「昔の人はバカだなぁ…」等と嘲り笑う訳ですが、仮象の理屈が分かっていないと、ハマグリが蜃気楼をつくり出しているという不可解な仮説は立てられない。また、「ハマグリ」が何を意味しているのかを、各自が胸に手を当てて考えみるのも一興かも知れない。

かのカール・グスタフ・ユングが太乙金華宗旨に解説を加えていたので連想できましたが、ハマグリとは、ひょっとしたら女陰を連想させている可能性がある。ユングであるから「アニマ」や「アニムス」という単語を使用しているものの、それが意味するところは女性性であったり、男性性、正確には異性に抱く理想像といった意味合いの用語ですが、女性に帰属する何かの事として「ハマグリ」が捻り出されたのであれば、これは新鮮だよなって思う。そんな事はないだろうと言いたくなるかも知れませんが、道教では魔除けとして桃を用いる。桃は仙果として尊ばれてもしている。しかし、ディープに分析していゆくと、この桃が魔除けになるとは、桃の種が女陰の形状に似ているから魔除けになると解釈された可能性が高いという。男性であれば、思わず女陰に目を奪われてしまうであろうという理屈で、邪視という。しかも、これ、最新の実験でも男性は女性の写真をみると瞳孔が反応するとされている通り、デタラメなようでありながら、或る程度は理屈で説明できる話なのだ。

道教というのは老荘思想に秘術的なものを結び付けて発達しており、或る意味では徹底しているところがある。仙人の棲む山には入れないように入らずの山にし、護符なども開発しているが、護符には渦巻紋を記し、容易な侵入を防ごうとする術なのだ。動物の紋様が迷彩柄のようになっていたりしますが、それは外敵から我が身を守る為の迷彩であるという。中には、渦巻き紋というのがありますが、渦巻き紋というのは、その紋そのものが外敵を一瞬だけ欺く効果があるとする。

自分でも忘れていましたが、南洋に、でんでん虫の逸話があるという。

空は、一匹の小さなでんでん虫の触覚が何かを語り掛けたいかのように動いていることに気付いた。そして空は、でんでん虫の話に耳を傾けてみた。

「空さん、あなたはとても広大で、どんな地平線でも水平線でも超えてゆく。でも、自分よりも大きなものは、この世に存在しないと思う前に、どうかちょっとだけ、私の話に耳を傾けてください。そうすれば、あなたよりも私の方が大きいことを分かってくれるでしょう」

空は、でんでん虫が何を言わんとしているのかを考えた。でんでん虫が背負っている家には螺旋の印がついている。その螺旋は中心点から出発して外側に向かって広がっている。あの螺旋の印は延長してゆくと、空よりも大きくなるのだ。

空は、でんでん虫に返答した。

「その通りだね、小さなでんでん虫さん。私は今、はじめて自分よりも君の方が大きいということに気が付いたよ」

でんでん虫が返した。

「話を聞いてくれてありがとう、空さん。お礼に秘密を教えましょう。私が背中に背負っている家についている印は、五つの優れた特性を表わしています。この特性を習得した人間たちにとって、空さん、あなたは努力の限界を表わしているのです」

で、オシマイ。螺旋という形状が持つ魔術的にして秘術的な何かが、のどかな空とでんでん虫との会話の中に盛り込まれているっぽい。


なんじゃ、この不可解な逸話は…。しかし、でんでん虫の背中の螺旋模様が、何か特別な秘密の模様であるという理解がないと、こういう伝承も生まれないのかも知れませんやね。

さて、最後に「真」はどこにあると考えられていたのか――となりますが、やはり、天界であるという。真は天界で起こっているが、それが現実世界では仮象として起こっているとするから。

では、何故、「天」に求める事が出来るのかというと、天と地とで、天地(あまつち)ですが、人に宿っている魂魄、その魂は天へ繋がっており、魄は地に縛られているというのが、この種の考え方になっているから。肉体は土に還り、魂は天へ帰る。

「天」は即ち「真」なのかというと、これは似ているが少し違う気がする。道教的には「太乙」のようになり、密教であれば「大日如来」になり、不可分な一つの宇宙的自然摂理となる。

思えば、我々、日本人にも馴染みの死生観であるような気もしますけどねぇ。

ussyassya at 22:57│Comments(2)あらびんどびん 

この記事へのコメント

1. Posted by rakitarou   2019年11月09日 07:08
前後際断

三観の解説を拝見して私は前後際断の言葉を連装しました。前際、後際を絶って今を生きよ、という意味ですが、西洋にも同じ考えを表す言い回しがあるとどこかに解説されてました。執着による苦から開放されるために「空」であることを悟れというのが仏教の教えですが、それに波及して各地の土着の宗教や伝承が重なって様々な教えとして伝えられているのだろうと思いました。
一方で、ハロウィンのばか騒ぎとか、政治への無関心とか「今時」の流行は「難しい事を考えずに刹那的に生きる」事の様にも見受けられるのですが、これは仏教の説く「今を生きよ」とは異なる生き方だよな、と感じますが。
2. Posted by メロンぱんち   2019年11月09日 10:29
rakitarouさん>
仏教者のいう「無常」や、荘子の「逍遥遊」も、執着しない事を説いているようですが、ホントは、この話でいうと仮象の中に取り込まれ過ぎなのかも知れませんね。仮の価値観に人生そのものをも投げ込んでしまわねばならないようになってしまっているので、本来的な幸福論からは離れてしまっているかのような印象を私も感じます。

大相撲の行事が持っている軍配には「天下太平」と書いてあるそうで本来的な人々の望むものは執着して何かにあるというよりは、太平な世の中、個々が安心して生活できれば、それが何よりではないか、にあったような気もするのですが、どうも近年の風潮というのは情報や流行に振り回されてしまう方向性になってしまっている気がしますね。

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