2019年12月03日

日本赤軍と連合赤軍〜8

◆エロイカ電撃作戦

森恒夫は「M作戦」を「エロイカ作戦」に改名し、強盗による資金集めを継続した。革命の為というが、そのエロイカ作戦の名の下に行われていたのは、連続強盗であった。

1971年2月22日、千葉県市原市辰巳台にある市原辰巳台郵便局(「特定郵便局」と呼ばれる小規模の郵便局)に白マスクをした男が侵入、居合わせた客の喉元にナイフをつきつけて、同郵便局内にあった手提げ金庫の中から現金を鷲掴みにして逃亡。およそ71万8千円の強奪に成功する。

1971年2月21日、千葉県茂原市の高師郵便局にも同様の手口で押し入り、およそ9万4千円の強奪に成功。

1971年3月4日、千葉県船橋市の夏目郵便局に刃渡り25センチのステンレス製包丁を持って押し入り、およそ1万5千円の強奪の成功。

1971年3月9日、神奈川県相模原市の横浜銀行相模台支店相武台出張所を襲撃。およそ150万9千円の強奪に成功。

1971年3月20日、宮城県泉市七北田にある振興相互銀行黒松支店を襲撃、およそ115万9千円の強奪に成功。この犯行は坂東国男(京大生)率いる坂東隊によるもので、メンバーには植垣康博(弘前大生)、穂積満(弘前大生)、進藤隆三郎(仏院学院生)があった。

このエロイカ作戦は「儲け」も大きかったが、リスクも大きかった。もともとは、第1班から第4班まで、計4班の強盗部隊があったが、最終的には第4班と呼ばれた坂東隊しか残らず、残りの第1班から第3班までは警察に逮捕されるなど壊滅状態となった。

第1班:大西隊
大西一夫(同志社大中退)
松浦順一(関西大生)
近藤有司(高校卒)

第2班:新谷隊
新谷富男(同志社大中退)
城崎勉(徳島大中退)
藤沼貞吉(茨城大生)
林慶照(高校中退)

第3班:松田隊
松田久(茨城大中退)
鈴木裕(弘前大生)
石原元(東京水産大生)

第4班:坂東隊
坂東国男(京大生)
植垣康博(弘前大生)
穂積満(弘前大生)
行方正時(岡山大生)
進藤隆三郎(日仏学院生)

強盗団の才能があったのか坂東隊の強盗は成功を続ける。

1971年5月15日、横浜市立南吉田小学校の校務員が職員給与を持ち帰るところを襲撃、およそ321万6千円の強奪に成功。

1971年6月13日、長野県上伊那郡長谷村の建設現場からダイナマイトと雷管を盗む。

1971年6月24日、横浜市港北区の横浜銀行妙蓮寺支店に押し入って、およそ45万円の強奪に成功。

そして同年7月26日、鳥取県米子市の松江相互銀行米子支店を、松浦順一を隊長として新規であつらえた松浦隊が押し入るが、これが失敗。松浦隊4名は全員逮捕となる。この松江相互銀行への襲撃失敗を最後に、一連のエロイカ作戦は終結する。もう、人手が足りなくなってしまったのだ。しかし、この一連のエロイカ作戦(M作戦)によって、森恒夫体制の赤軍派が搔き集めたカネは、少なく見積もっても1千万円はあったという。



◆京浜安保〜板橋交番襲撃事件

赤軍派が「よど号事件」を起こし、その後も都市にアジトをつくっての都市ゲリラ展開、更にはM作戦(エロイカ作戦)で世間を賑わせていた頃、京浜安保でも赤軍派の派手な活躍に触発されるようにして、過激化に拍車がかかっていった。

大まかな流れに先に触れておくと、資金は搔き集める事に成功したが武器を持っていないという赤軍派に対し、京浜安保の方は武器は手に入れたが資金がないという構図が出来上がり、京浜安保の最高幹部・永田洋子が赤軍派の最高幹部・森恒夫に資金の前借りを水面下で依頼してきた事から、赤軍派と京浜安保の接点が出来上がる。1971年4月、森恒夫は永田洋子と初対面を果たし、それが赤軍派と京浜安保との合併話に向かうというのが、大まかな流れである。

しかし、その前に京浜安保の歩みにも少しだけ触れておく必要がある。

1970年12月18日の夜、京浜安保共闘は交番襲撃事件を起こした。命じたのは永田洋子と坂口弘で、実行部隊長を務めたのは、永田、坂口とも同格の京浜安保の最高幹部・柴野春彦であった。

柴野春彦(横浜国立大)をリーダーに、渡辺正則(横浜国大)、大槻節子(横浜国大)、佐藤安治(三菱自動車工業厚生部勤務)の4名であった。標的になったのは東京都板橋区の志村警察署上赤塚派出所で、大槻節子が運転する日産ブルーバードに三人の男たちが乗り込んだ。

柴野は上赤塚派出所の約80メートル手前で、大槻に車を停車するように合図した。大槻節子は運転手兼待機が役割であり、柴野、渡辺、佐藤の男三人が降車して、標的の派出所へと静かに近づいていった。

この柴野隊の武器は即席の「ブラックジャック」だった。ゴムホースを30cmほどで切断し、そのゴムホースの中に鉛の棒切れを詰め込んだものであった。柴野、渡辺、佐藤の三人が派出所へ近づいていくと、そこには若い警察官が一人あり、机の上で書き物をしていた。

渡辺が

「あのぅ、すみません、道を教えてもらいたいんですが…」

と声を掛けると、若い警察官が顔を上げた。顔を上げたのは高橋孝志巡査であった。

高橋巡査が顔を上げるや否や、渡辺は渾身の力を込めてブラックジャックを振り下ろして襲撃した。ブラックジャックは高橋巡査の頭部に当たり、高橋巡査は頭部を抱え込んだが、同時に

「巡査長っ! 巡査長っ!」

と、裏手のドアの方へ叫んだ。派出所の奥には、別の警察官が控えているらしい事を暗示していた。一瞬で事態を悟ったリーダーの柴野春彦は、咄嗟に奥のドアを引き開け、残るもう一人の警察官を襲撃しようとした。

が、ドアを引き開けてみれば、そこには、拳銃を構えた「巡査長」と呼ばれた警察官、阿部貞司巡査長(当時)の姿があった。

「やめろっ! やめるんだっ! やめないと撃つぞっ!」

と、阿部巡査長の声が飛んだ。しかし、柴野春彦は阿部巡査長に飛び掛かった。その刹那、二発の銃声が響く。柴野が明けたドアは宿直室と呼ばれる部屋のドアであり、宿直室内で銃を構えていた阿部巡査長に飛び掛かった為、阿部巡査長が発砲したのだ。勿論、正当な発砲であった。柴野は胸を抑えながら崩れ落ちた。

阿部巡査長が宿直室から出てみると、そこでは凶器らしきものを手にした2名の暴漢が部下の高橋巡査と格闘していた。真夜中に突如として起こった不測事態であったが阿部巡査長は冷静で、暴漢に向けて3発を発砲した。阿部巡査長の放った弾丸の内の1発は、渡辺正則の右肩を貫通。残りの2発は2発とも佐藤安治の腹部に食い込んだ。渡辺正則、佐藤安治は重症――そして京浜安保の最高幹部の一人であった柴野春彦に放たれた弾丸は、柴野の右肩の下部と心臓右上を撃ち抜いており、派出所内で既に息を引き取っていた。

80メートルほど離れたところで日産ブルーバードで待機していた大槻節子は、銃声を聞き、計画は失敗したと判断し、そのままブルーバードで走り去った。現場となった上赤塚派出所には、瞬く間に警察官が集まって来ていた。



◆京浜安保〜塚田銃砲店襲撃事件

1971年2月17日、これは板橋交番襲撃事件から約2ヶ月後となるが、京浜安保は栃木県真岡市の塚田銃砲店を襲撃し、意外な形で、その名を日本中に広めることになった。この塚田銃砲店襲撃事件によって京浜安保は、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾2千3百発を手に入れた。

塚田銃砲店襲撃の実行犯は吉野雅邦であった。武器を入手できず、武力革命路線が日一日と遠ざかってゆく中で、リーダーの永田洋子が、半ばいい加減に吉野雅邦に

「あんたのプチブル精神を追い出すには、これをやるしかないわよ」

と追い込み、そう追い込まれた吉野がリーダーとなって塚田銃砲店襲撃をやってみたところ、思いも拠らぬ大成果を上げてしまったのが真相であった。

この塚田銃砲店襲撃事件では、吉野雅邦をリーダーとして、寺岡恒一、雪野健作、尾崎康男(すべて横浜国大生)と中山衡平(東京水産大生)の五人が実行犯であったとされる。

吉野雅邦の実父は三菱地所の重役(当時)であり、かなりの育ちが良い青年であった。麹町小から麹町中、そして日比谷高校から横浜国立大へ。顔つきも「ノーブルな感じ」と評されていた。

この雅邦には兄があり、その兄は重度心身障害の身にあった。雅邦が小学校へ入学したとき、その兄が「僕も学校へ行きたい」と泣いた。当時の日本には重度心身障害児に教育を受けさせる施設はなかったので、どうしようもなかった。しかし、兄思いだった雅邦は、毎日のように、その兄をおぶって小学校へ通った。世間の目は冷たく、僅か一年で雅邦も、そして家族も疲れ果ててしまい、それ以上は続けられなかったという過去を持っていた。

大学生になってから社会の矛盾に行き当たり、ゲバ棒を持つようになった。当初は中核派として活動していたが機動隊に取り囲まれて袋叩きの目に遭い、病院に担ぎ込まれた。12針を縫う怪我を負っていた。入院中に看病してくれたのが同じ横浜国立大の合唱部の金子みちよであったので交際を始めた。後に吉野が中核派に見切りをつけて京浜安保に入ると、吉野の後を追うようにして金子みちよも京浜安保の合法活動をする組織に入って来た。そのまま、吉野雅邦と金子みちよは内縁関係となり、金子みちよに到っては妊娠八か月という身重の状態で連合赤軍の山岳ベースキャンプに参加していた。

吉野は、この塚田銃砲店襲撃事件を皮切りに、その破局に向かう暗部を背負い続け、印旛沼リンチ事件、山岳ベースのリンチ事件、そして、あさま山荘に立て籠もっての銃撃戦まで関与する唯一のメンバーとなっている。

猟銃と弾薬を大量に獲得したものの、資金と爆弾を持たぬ京浜安保は、赤軍派へと触手を伸ばし、共闘から統一へと動き出す。

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