◆連合赤軍大量リンチ殺害事件〜疾走する狂気

1972年1月7日夕刻、遠山美枝子が死んだ日であるが、この日の夜、大槻節子と金子みちよが総括に掛けられた。大槻節子は印旛沼事件で殺害された向山茂徳の元カノジョであり、金子みちよはCC第7位の吉野雅邦の内縁の妻であり妊婦、それも臨月であった。

永田洋子が大槻節子を指名し、大槻の吊るし上げが始まった。

「あんたは、これまで、いつも頭がよくて、美人で、男に好かれてきたんでしょう? もっと、ちゃんとしなきゃ」

このテの永田洋子のイチャモンは、今に始まった事ではなかったが、愈々、誰にも理解不能な領域に突入してきた。永田は例によって、ねちねちと大槻に自己批判を求めているが、永田が何を求めているのかが、さっぱり読めない領域となっている。

大槻への総括という名の一方的な尋問が終わると、次には金子みちよが引っ立てられた。

「あんた、妊娠中だからって、遠慮しないよ。……あんたさー、この前、森さんに対して『子供のように可愛い目をしている』って言ったでしょ? 吉野さんと離婚して森さんに乗り換えようとして、あんな事を言ったんでしょう?」

この森恒夫に対して「可愛い目をしている」と発言したシーンは、映画「あさま山荘への道程」でも描かれている。彼女なりに空気を和らげようとしてして発言したものであったが、森恒夫や永田洋子のキャラクターを、よく理解できぬまま、軽いノリで発されたものとして描かれている。

金子みちよは、

「(乗り換えるなんて)そんなつもりは毛頭ありませんでした」

と返答したが、永田洋子は

「ふざけるんじゃないわよ!」

と返した。

この7日以降、この大槻節子と金子みちよは、板の床上で正座している事を強いられ、暇があれば、総括要求されるという扱いになる。


1972年1月8日、2日前となる1月6日の夜に薪で40〜50発も殴打された行方正時が息を引き取る。この行方(なめかた)正時は岡山大生、22歳。滋賀県随一の県立膳所(ぜぜ)高校から岡山大学に進学した後に学園紛争が沸き起こり、いつの間にか岡山大のリーダー格へ。東京へ出て安田講堂に籠城するなどの経験。後に膳所高校の卒業生である坂東国男(京大生)と知り合い、赤軍派に入ったが、その時には既に塩見孝也、田宮高麿、高原浩之らは居なかったという。


1972年1月12日、資金カンパという目的で名古屋へ出張させられていたのは岩田平治(22歳)と伊藤和子(22歳)であった。この岩田平治とは、印旛沼事件の被害者・向山茂徳をダマして誘き出す際に使用された、あの「岩田」である。また、この伊藤和子とは同じく印旛沼事件の被害者の早岐やす子、中村愛子、伊藤和子は共に日大看護学院出身の京浜三人娘の一人である。

岩田は伊藤に言った。

「オレ、もう、あんな怖ろしい山の中には帰りたい。伊藤さんはどうする?」

岩田平治の、その言葉に伊藤和子は、

「ウソでしょ? 冗談でしょ?」

と反応した。続けて、

「私は絶対に逃げない。飽くまでも立派な革命戦士になって、銃による殲滅戦を追行するわ」

と、きっぱりと答えた。岩田は執拗に食い下がることもなく、

「じゃ、オレだけで逃げるよ」

と言って、カンパで集めた4万円を伊藤に手渡すと、そのまま、岩田は名古屋駅の雑踏の中へ消えていった。

岩田平治、脱走成功。これが、この一連の連続リンチ事件で成功した最初の脱走であった。

翌1月13日夕刻、伊藤和子が榛名ベースへ戻って、岩田の脱走を告げると、幹部だけが使用できるコタツ部屋の幹部たちは、顔を引き攣らせた。岩田に警察にタレ込まれるかも知れないという不安が、森恒夫、永田洋子らを動揺させた。

永田洋子の

「これ以上、榛名山にいたらヤバいよ。迦葉(かしょう)山に移りましょう」

という鶴の一声で、連合赤軍は榛名山の榛名ベースを捨てて、迦葉山に新しい山岳ベースを建設することが決定した。悪人というのは用心深いものらしい。


この岩田平治の脱走が榛名ベースにもたらされた日の深夜過ぎ、日付は変わって14日早朝、とうとう連合赤軍の榛名ベースでは、死刑宣告の上の死刑執行が行われる事になった。脱走した岩田平治に対してではなく、意外にも死刑宣告を受けたのは、連合赤軍CC第5位の幹部にして、これまでのリンチ殺人の主犯でもある人物であった。

1月14日夜明け前、暗闇に森恒夫の怒声が響き、一同は目を覚ました。

「みんな、起きろっ! 寺岡を総括にかけるんだっ!」

引っ立てられた寺岡恒一(横浜国大/23歳)は、板の間に正座させられ、後ろ手に縛り上げられた。何故、CC(幹部)である寺岡が総括に掛けられたのか、一同には理解できなかった。

森恒夫あるいは永田洋子が

「寺岡は、自分の地位とカネを得るため、新しく結成した党(連合赤軍)を利用しただけであることがハッキリした」

とか

「寺岡、オマエは杉崎ミサ子が別れたがっているのに、しつっこくつきまとっているそうじゃないか!」

とか、これまた難解な糾弾であった。

縛られて正座させられている寺岡は、なんの抗弁もしなかった。抗弁すれば抗弁を糾弾されるのであるが、抗弁しないでも、結局は糾弾されるというのが、この総括システムであった。森が激高して言った。

「寺岡、オマエは俺たちの革命路線をバカにしやがって! 『森や永田が武闘でコケたら自分がリーダーになる』と、ほざいたそうじゃないかっ!」

寺岡がホントに、そうした発言をし、それを耳にした誰かが密告したのかも定かではない。14日の夜明け前というから、そんな時間帯に森恒夫に何か吹き込んだとすれば、この頃の状況からすれば永田洋子一択のようにも思えるが――。

寺岡恒一は、これまでに早岐やす子殺しを手始めとして、殺しという殺しに手を染めてきた人物でもあり、一たび、総括の場に引き摺り出されれば、それは死を意味する事を敏感に察知していたものと思われる。寺岡は腹を括って喚き散らした。

「勝手にしやがれっ、オレは初めっから、この、おかしな風船ババアが大嫌いだったんだっ! オマエがリーダーなんて、ちゃんちゃら、おかしいわっ! な、みんなもそう思うだろ? 『銃による殲滅戦』だって? ふん、何を寝ぼけた事、言ってやがんだっ! 鉄砲さえ在りゃ、革命が達成できるとおもってんのか、ったく、オメデタイ話だよっ! 今にしてみりゃ、脱走した岩田平治は利口だったぜ、みんなも早く、逃げた方がいいぞっ!」(この「風船ババア」とは明らかに永田洋子の外見をディスったもの。)

寺岡の思わぬ反撃に、森恒夫は激昂し、

「この野郎っ、てめぇみたいな奴は、死刑だっ!」

と絶叫しながら正座している寺岡の左太腿に、森恒夫自慢の登山ナイフを猯楼貲姚瓩貌佑刺した。この猯楼貲姚瓩話韻覆詒耜箸砲△蕕此登山ナイフの刃の部分は寺岡の太腿に深く食い込み、登山ナイフは根元しか見えないほど、深く突き刺した。文字通り、渾身の力で森恒夫は登山ナイフを正座している寺岡の太腿に突き立てたので、刃先は太腿を貫通して床に突き刺さっていた。寺岡は立ち上がろうと足掻いたが立ち上がれる筈もない。

「風船ババア」となじられた永田洋子は、怒りで発狂寸前、気が狂ったかのような調子で、

「やれェーっ、やるんだァーっ!」

と、絶叫しながら一同にリンチの指示を出した。それに応じるように坂東国男が

「CCのくせに統制を乱しやがってェーっ、死刑だ、死刑だ、死刑だーっ!」

と喚きながら、寺岡の左肩をナイフで突き刺した。

森恒夫がアイスピックを逆手に構えて「こいつ、まだ死なないかっ」と叫びながら、寺岡の胸を突き刺した。アイスピックは肋骨の間を抜けて心臓に達していた。

返り血を顔に浴びた森恒夫が振り返り、

「よーし、お前ら、最後の息の音を止めてやれ、ロープで首を絞めるんだっ!」

と命令した。

森の命令に従って兵士たちはロープを寺岡の首に巻き付けて、寺岡の胴体に足を掛けて踏ん張るようにして、ロープを引っ張った。グキン、という音を立ててロープが寺岡の首に食い込み、寺岡の首は瓢箪のようにくびれ、真っ赤に充血した眼球が飛び出した。


1972年1月17日、「総括」という名の集団リンチによる嬲り殺しに飽きた森恒夫と永田洋子は、この日、寺岡に次いで2例目となる「死刑」を行なった。死刑宣告を受けたのは坂東国男の直系の弟子と呼ばれていた山崎順(早大/21歳)であった。

この山崎は

「女性を巡るトラブルが絶えず、組織から脱落しようとした!」

というのが理由で、死刑が宣告されたという。最早、これは難癖という次元なのかも分からないような、行き当たりばったりの都合で死刑宣告をし、殺害したものという。

最初に森恒夫、坂東国男、植垣康博の3名が山崎順を徹底的に殴りつけた。(坂東国男は直系の弟子を手に掛けた事になる。)山崎の顔が原形も分からぬぐらいになったところで、坂口弘がアイスピックで左胸を刺した。その後、永田洋子に促され、坂東、植垣、青砥がアイスピックで山崎を刺した。

瀕死の山崎は「助けてくれ」と絶叫したが、森恒夫は「しぶといやつだ」と言いながら、グサリと登山ナイフを胸に突き刺し、尚も、グイグイと心臓をえぐった。その結果、鮮血が辺り一面に飛び散り、榛名アジトの木製の床は真っ赤なコールタールでも溢してしまったかのようにヌルヌルになった。

最終的には坂東と吉野が山崎の首にロープを巻き付けて、グイっと絞め殺した。この山崎順の死刑執行の間、永田洋子は狂ったように

「殺せ! 殺すんだっ!」

と、何度も連呼していた。



◆連合赤軍大量リンチ殺害事件〜狂気の向こう側

1972年1月22日夜、群馬県沼田市の北西部になる迦葉(かしょう)山に新アジト(ベース)を作る為に、先発隊が榛名ベースを発った。先発隊は吉野雅邦、坂東国男(坂口弘の誤りか?)、青砥幹夫、植垣康博、加藤倫教、加藤元久、山本順一、前沢虎義、中村愛子、伊藤和子、杉崎ミサ子の11名であった。

榛名ベース残留組は森恒夫、永田洋子、坂口弘、山田孝、奥沢修一、山本保子、寺林真喜江、金子みちよ(総括中)、大槻節子(総括中)の9名であった。(山本夫妻が榛名ベースに連れてきた乳児は、榛名ベースに残された。)

1972年1月26日頃、迦葉山へ発った先発隊の中で、山本順一が「クルマの停める場所が違った/言う通りにしろ」という理由で殴りつけられ、そのまま、戸外に縛り付けられる。この山本順一も遺体は顔が酷く腫れていたとされるから、凄まじい集団リンチを受けていたものと推定される。

1972年1月27日、榛名ベースの残留組では、とうとう大槻節子と金子みちよは縛り上げられた。両手首と両足首を縛られたものであるが、その状態になってから殺されてない例はなかった。大槻節子はすすり泣き、金子みちよはうなだれた。森恒夫や永田洋子の真意は全く不明ながら、大槻と金子には食事も水も与えぬ事とした。

1972年1月28日深夜、正確には日付変わって29日の午前2時頃、迦葉山ベースの小屋を建設中で、その建設中の仮テントに永田洋子が山本夫妻の乳児を抱いて姿を現す。乳児の実母である山本保子は運転士役だったのか日産セドリックの脇で、ボーっと佇んでいたが、そこで夫である山本順一が既に迦葉山で総括に遭い、縛り付けられている現実に驚愕した。

そして、その日産セドリックのトランクは開いたままになっており、そのトランクの中には人の入っている寝袋が上半身下半身、互い違いに押し込まれていた。迦葉山の先発隊にも、大槻節子と金子やすよの2名が本格的な総括に掛けられているという情報は伝わっていた。金子の方は臨月に近かったので、寝袋の上からでも、どちらが金子で、どちらが大槻なのか判別がついたという。

二つの寝袋は、テントの中に放置されることになったが、寝袋の中から猿ぐつわを咬まされた金子やすよの顔を見えた。金子の髪の毛は、2〜3センチに刈られていた。

1972年1月29日、突貫工事によって仮設小屋の体裁の迦葉山ベースが完成すると、山本順一、大槻節子、金子やすよの3名は、その小屋の高床式の支柱に径5ミリ程度のロープで縛りつけられた。最早、衰弱死待ちの段階であった。

永田洋子は怖ろしい事を口にした。

「金子の腹を割いて、赤ん坊を引っ張り出せないか」

と言い出した。永田は、金子のお腹の中の子を狎犬泙譴覆らの革命戦士として育て上げよう瓩箸いΠ嫂泙任△辰燭箸いΑちょっとしたホラ話や冗談ではなく、弘前大学医学部に行っていたという青砥幹夫に対して、金子の腹を割いて胎児を取り出すよう命じた。

青砥は、

「大学は2年で放校になりました。どうしてもとおっしゃるのでしたら、町に医学書を買いに行かせて下さい」

と返答して、なんとか急場をしのぐことに成功した。

1972年2月1日(31日夜か)、中京安保から乳児を連れて榛名山へやっていた山本夫妻の夫・山本順一が死亡。

翌2月2日、大槻節子が死亡。大槻は横浜国大生、24歳、かなりの美人であったというが、その大きな目は虚空を見上げるように見開いたまま、死んでいたという。頭髪は、ザンギリ頭に刈りこまれていた。