「桜を見る会」疑惑、おそらく食傷気味であろうけど、ホントは至極、深刻な話でもある。確かに、それで倒閣と言われても困るし、野党にしたってホントは準備なんて出来てない。国会ごっこといえば国会ごっこなのかも知れませんが、深刻だというのは、言論支配でしょうねぇ。幾ら官邸主導っつったって嘘とか隠蔽だらけじゃ、もう、習近平政権なんてのを批判できなくなってしまう。

特に、酷いのが「名簿を廃棄しました」と「電子データの復元は不可能」と言い張って、それが通されている事でしょう。何が起こっているのか分からない状態になっている。しかも、これは外交機密などではなく、国民に説明できて当たり前の話でもある。この内閣官房の隠蔽体質そのものも問題ですが、それ以上に情報支配というか言論統制みたいな事態になっている状態というのは、ホントは、かなり深刻な事態ではないのか。

古新聞を捨ててしまったので、しんぶん赤旗日曜版を参考に展開しますが、経緯を総ざらいしてみる。

5月9日に日本共産党の宮本徹衆院議員から招待者名簿の公開の要求があった。しかし、その公開請求のあった5月9日、請求のあった時刻の約1時間後に巨大シュレッダーにかけられていたという。また、電子データの方も偶然にも、その前日の5月8日に消去されていたという。「データの復元は可能なのではないか?」と田村智子参院議員に質問されると「データの復元は不可能だと聞いている」という。これは記者会見の映像でも菅官房長官が、そう説明している。

そして誰の説明だったのか忘れましたが、

「君たちは知らんのだろうが、かの巨大シュレッダーは予約待ちになっているのが実情であり、偶然にも請求があった日に順番が回って来てシュレッダーにかけたものである」(なので情報公開請求がある前からシュレッダーの予約を入れていたのですよ、請求されたからヤベェと思ってシュレッダーにかけたのではないのですよ)

という。ホンマカイナ。

そもそも、何故、そんなに急いでデータを消去したり、裁断したりする必要性があるのかというと、曰く「個人情報が含まれているので云々」と個人情報保護法を楯にしての廃棄の正当化をし、またもや、これを許してしまっている。ホントは「桜は見る会」は継続的に行われてきた伝統行事である訳だ。その招待者名簿は、当然、来年、再来年の招待者リストを作成するのに使用するものであろうと思う。毎年毎年、リストをゼロから作成しているのだとしたら不自然なほどに非効率的な仕事を優秀な官僚がしているって事になる。有り得ませんなぁ。優秀な神奈川県庁あたりでは、絶対に漏洩させるべきではない個人情報だって盛大に漏洩させてしまうぐらい優秀だというのに。

実は、この話はワシントン・ポスト紙でも「巨大シュレッダーの奇妙なお話」といった具合で報じられたという。誰が考えたって、そんな都合のいいような偶然が起こる確率は考えにくく、嘘をついているか、もしくは意図的な隠蔽が為されたと認める事が妥当で、そう強く推測する事ができるが、最早、日本人は、これに疑問を抱くことをも放棄している。一部の人たちは、強弁に強弁を重ね、真相や真実なんてどうでもいいといった態度で、ただただ、応援したい政治家を応援している体でしかない。しかも、それで実際に政府が動いてしまっている、動かされてしまっている。因みに、アメリカでは大統領記録法なるものがあり、大統領が触ったすべての文書は歴史的記録として保存し、国立公文書館に送らねばならないという厳格なルールがあるという。それに比して、日本の場合、おかしな方向へ傾斜しているとしか考えられない。

先週、少し触れたのですが、週刊新潮誌上と読売テレビでは、いずれも「桜を見る会」についての追求を、小賢しい事だと大所高所から語っていて、違和感を感じたのでした。基本的に政権政党に甘く、その不正を追求しようとすると追求する側を叩き潰そうとする悪辣な体質が過ぎるよなぁ、と。そりゃ、「桜を見る会」で倒閣とか言っちゃってる連中は確かにおかしくも目に映るが、こうも嘘や隠蔽、改竄、捏造が跋扈する状況をつくったのは、やたらと追求する事をコケにする劣化した保守系メディアの報道姿勢と関係があるのではないだろうか? ウソをついている連中に加担し、そういう自分たちこそが「国士」であるかのように振る舞われるのは、さすがにウンザリって人が潜在的には多いハズなのに。毎度毎度のアベちゃん応援団ぶりには辟易とする。


ホントは初期対応にすべて現れており、ごくごくフツウに情報公開し、税金を使い過ぎていますね、マルチ商法の第一人者を招待してしまっていましたね、反社と呼ばれる人物も混じっていましたね、と認めて真摯に謝罪すれば、それで済んだもの許されたかも知れないものを、どうも安倍政権というのは狡さに味をしめたらしく、いつでも「廃棄した」とか「そのような事実はない」のように言い張る。オボカタさん的なのかな。しかも、そうした悪弊が、どうも恒常化している節がある。しかも官邸だけに留まらず、そうした忖度しての隠蔽体質というのが、官僚機構から御用メディア、御用文化人にまで浸透してしまっているという怖さがある。陰で、どんな悪さをしているのかも分からない秘密組織みたいな政権になってしまっている。巷間に流れている「情報そのもの」が限りなく怪しくなってしまっている。

しかも、これが恒常化してしまっている事というのは異常でしょう。忖度してしまう人たちが大勢いる中で、隠蔽体質が正当化されてしまっている。そして、それらの平気で嘘を許してしまっているという現状が色々と問題があるよなって思う。自衛隊の日誌は「破棄した」に始まり、そこから波及して当時の稲田大臣が苦しい答弁をし、別の角度から森友学園問題が話題になると当時の稲田大臣は籠池氏との面識はない、「弁護士時代を通じて法律相談を受けた事もない」と否定したが、あった。何故、強弁してしまうのか? もう、この強弁して都合の悪い事を隠蔽するというのが常態化していますね。森友学園問題では、その後も不審な答弁が連続した。もう、記憶もおぼろになってしまいましたが、安倍昭恵夫人は公人ではなく私人としたが、実は官僚がついており、窓口になって森友学園側との間で交わしたファクシミリ文などが出てきた。何故、嘘をついて何かを隠そうとするのか。この問題なども外交問題などとは関係なく、本来は進んで情報を開示してもおかしくない問題だった訳ですよね。

不誠実な態度が常態化しているって事でしょうから、それが信任されてしまっている当たり、結構、厄介な事態でしょう。その一因は、情報媒体にあるという。

森友学園問題では、後にNHKの記者であった相沢冬樹氏が例のスクープを報道した後に「報道部門」から「考査部」へと異動となり、結局、相沢冬樹氏はNHKを辞めて『安倍官邸vs.NHK』(文藝春秋)を刊行した。これが何を意味しているのかというと、首相官邸からNHK上層部へと圧力がかかっている事を曝露した。暴露といっても今更なのですが、元NHK会長の籾井勝人氏が

「政府が右と言っているのに我々が左と言うわけにはいかない」

と、とうとう自ら白状してしまったという騒動さえあった。NHKは公共放送だから上層部は政府の意向に逆らえない訳ですな。よく「NHKは左翼だ!」というものの、凡そは公共放送の範疇でしか物事を報じる事ができない宿命を担っている。しかしながら現場で取材している記者は、相応の取材力を誇っている訳だから、必ずしも政府の利害と一致しない特ダネとかスクープを取ってしまうことがある。現場の論理からすれば、それはスクープなのだ。しかし、相沢氏のケースではNHKは政権に不都合なスクープをしたので「政府に不利なスクープなんて報じるんじゃない!」となって、報道部門から外すという人事をした、という事を意味している。こうなってくると「そもそもNHKってのは報道機関なのか?」という問題が当然、出て来てしまう訳ですよね。なんじゃ、こりゃ。

また、前川喜平氏に係る「出会い系バー」については読売新聞が世紀の大失態を演じた。あの大新聞社が、裏どりもしないままに物凄くつまらない提灯記事を書いた。これをインターネット上ではネトウヨ的な言説が大きな声によって圧殺してしまったのかも知れませんが、実際には読売新聞内部でも問題視された大失態であった。政治部が社会部へ出張って来て、告発の用意をしている可能性がある前川喜平氏を潰しに行く為に、書いたという、東スポでもやならないんじゃないのかっていう提灯記事を書いた。後に、前川喜平氏が書籍を出版したところによると、読売新聞記者は「出会い系バー」の記事を掲載する前に前川喜平氏の後輩を介して前川喜平氏に

「和泉(洋人首相補佐官)さんが話をしたいといったら、応じる気はあるか?」

と確認していた事を暴露した。つまり、文脈としては「出会い系バーに出入りしている事を記事にして欲しくなければ、和泉さんに会ってもらいましょうか!」という仲介屋を読売新聞政治部の記者がやっていたのだ。しかし、無視したら出会い系バーの記事が読売新聞社会面でデカデカと掲載された。当時は、事前に「(公的文書とは言えない)怪文書がうんぬん」と官房長官がアピールしていたタイミングでもあった。

さすがにねぇ。

私も、最近、週刊新潮に手が伸びなくなったのですが、これ、理由がある。一言で言ってしまうと、明らかに執筆陣の劣化があった。適菜収さんが指摘していますが、平たく言えば、どうも新潮社はネトウヨに傾斜してしまった。適菜さんは、例の月刊誌の『新潮45』が休刊になる以前に、その誌面がネトウヨ化している事を直接、編集長にも指摘したが小川榮太郎氏を登場させ、杉田水脈議員擁護のネトウヨ的言説に間接的に加担した。

杉田水脈議員がLGBTを批判的に語る中で「生産性がないのです」と発言し、物議を醸した。その杉田水脈議員を庇う企画を『新潮45』が立ち上げて、その中の小川榮太郎氏の論文が更に物議を醸して、『新潮45』は休刊となった。ホント、これ、なんで、掲載したのか首をかしげるような世紀の名文だったんですよね。

「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の困苦こそ極めて根深かろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保証すべきではないのか。」

切り取りとはいえ、この文章、どういう風に読めます? ギャグで書いたのかなとか、ここは笑うところなのかなって、マジで悩んでしまう。筒井康隆のショートショートなら、有り得るかもな、とか…。

しかし、これ、本気なんでしょう? 「論文」って言っているし。但し、適菜さんに拠れば、小川氏の文章は、やたらと飾り立てているだけだと指摘している。不必要なのに旧かな遣いを使用し、無駄に教養をひけらかそうとして、やたらと飾り立てているだけである、と。

その上で、高橋源一郎氏が『「文芸評論家」小川榮太郎の全著作を読んでおれは泣いた』と題する文章を文芸誌『新潮』に寄稿し、その虚像を暴いた。小川氏は「私の全著書を僅か4日間で読める筈がない。不道徳だ」と反論。適菜さんは一連に触れながら小川榮太郎氏の文章を「便所の落書き」と痛罵している。

新潮45休刊騒動の際には新潮社内部からも批判の声が起こったんでしたっけ。一応は文芸誌で名前を売った出版社でもあるから。しかし、小川榮太郎氏や、関西系のテレビ番組の放送作家出身の大物作家や、最近になって右傾言説で活躍するようになったアメリカ人弁護士、若手の保守派ユーチューバー氏を起用する誌面になっている。

で、この小川氏って、元々は安倍晋三応援団的なポジションで有名になった方で、いわば籠池さんと似ている。しかも、小川氏の著書『約束の日』を自民党が大量に買い込んでいたという訳の分からない実態まで発覚。適菜収さんに拠れば、見城徹氏が安倍政権に近い人物から頼まれて書籍化し、それを自民党が買い込んでいた事を指摘している。これが意味しているのは、一種の安倍カルトという名のビジネスモデルが出来上がってしまっていて、やたらと安倍政権にヨイショするジャーナリスト、作家、文芸評論家、外国人弁護士などが妙にゴリ押しされるようなったとして指摘している。安倍信者がカルト化しているので、反韓、反中、反朝日をやっていれば、それで商売になってしまうようになっている、と。

イデオロギー的なものは殆んど関係ない宝島編集部なども似た見解を示していますかねぇ。「ネトウヨは存在しない」というのだけれども、たとえば産経新聞さんはどうかというと、産経新聞電子版は2017年12月9日、「危険を顧みずに日本人を救出した意識不明の米海兵隊の勇敢な行動を報じずにスルーした」と沖縄タイムスと琉球新報を批判。しかし、これ、なんと誤報。しかも、そもそも米兵による日本人救助という事実さえも無かったという。(なんだ、そーゆー顛末だったのか。めんどくさいからスルーしてた。)

しかも、驚いた事に産経新聞那覇支局長は、沖縄県警にも米軍にも取材せず、電話の一本で確認できた事柄であったが、どうもインターネット上のネトウヨさんの話を信じ、電話一本の確認さえも怠ったまま、産経新聞社の名前で電子記事を配信していたのが真相だったという。結局、同支局長は更迭され、産経新聞社が謝罪した。

(しかも、このケース、内容的には「アメリカさんの英雄的行動を報じない沖縄2紙はけしからん」という内容だからネトウヨさんを喜ばせた可能性がある訳でしょう? まるで自分たちでエサを撒いて自分たちで盛り上がって食べる的な、奇妙な循環がビジネスとして出来上がっている可能性がある。)

また、産経新聞から朝日新聞に転職した者は過去に複数例あるが逆の例、つまり朝日新聞から産経新聞へと転職した記者は皆無だそうな。田原総一朗さんの話でも、本当は集団的自衛権の問題までは、どこの新聞も論調は似たようなものだったが、反目が生じたのは読売と朝日であったという認識だったかな。産経さんは独自色、元々はカラーを出す為に、あの右派のスタンスになったものだ――と。現在ともなると産経色が強く打ち出されている訳ですが、そもそもからすれば朝日の慰安婦報道に係る誤報にしても、当時、読売も産経も紙面にしていたものでもある。それを考慮すると「朝日にダマされていた」という論陣が形成されたのは、そんなに古い事ではないのかも知れないが、いつの間にやら産経的右派が強靭化し、鈴木邦夫氏であるとか小林よしのり氏あたりを通り越して、現行の胡散臭そうなネトウヨのカリスマ諸氏が台頭する状態になった。適菜収さんの指摘も似ていたのかな、新潮社が右翼や左翼を登場させる事に意味はあるが、明らかに言論として劣化が読み取れてしまう「ネトウヨ」はダメだと釘を刺したのに新潮社はネトウヨへ傾斜したというニュアンスである。

日本の言論環境というのは、これですやね。日本共産党あたりを除いて、多くの政党は自民党に限らず講師代などの名目で金銭を支払っており、受け取っている評論家やジャーナリスト、政治学者らが、そのまんま、テレビでコメンテーターなどをしているのは民主党政権時に暴露された話でもある。(「金銭授受を断ったのは田原総一朗ぐらいだった」というのは有名ですね。裏返すと、彼等のジャーナリストとか評論家といった矜持ってのは…。)

こういった状態で何か重大な意思決定をするってのは難しいんじゃないんですかねぇ。書店へ行けば、パクリ疑惑が指摘されている新潮社一押しの大作家先生の大著が山積みされてたけど、ちょっと色々と問題が多過ぎだよなぁ。週刊新潮の話に戻ると、かの大作家先生の連載小説ではなく、連載エッセイは目にするのはちょっと精神的にきつい。穏やかな文章を書ているものの、ツイートなどでは年がら年中、暴れている方ですからねぇ。適菜収さんに拠れば、彼の映画化もされて大ヒットした出世作は浅田次郎の『壬生義士伝』と坂田三郎の『大空のサムライ』あたりからインスパイアされているとしているが、非常に内容、表現が似ていると厳しくパクリ疑惑にも言及している。また、その後のタレントの死を扱った書籍でも訴訟沙汰を起こしているし、出版社が妙に肩入れしている理由が分からない。どこか全体的にネトウヨ化したと指摘されても仕方ないんでしょうねぇ。新潮社は、どうてしてもヒットを出す大作家先生を手放したくないのでしょうけどね。